新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

徳川吉宗名君説の疑問 大岡越前 山岡宗八 徳川綱吉 吉川英冶 江戸の火消

2019-06-21 08:38:45 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

徳川吉宗 大岡越前 山岡宗八 徳川綱吉 吉川英冶 江戸の火消

 明治から大正にかけて「実録、五寸釘の寅吉」とか「実録、大岡政談」「実録、白子屋騒動」といった叢書が実録と冠詞して、豪華な赤レザーの背張りで出回った。これらが今では文字通りに受け取られている。これは海音寺潮五郎の「史実」「史伝」と全く同じで、本を売ろうとする為の詐称である。 海音寺などは小学校もろくに出てない吉川英治を追い落とすため、国学院大学出の海音寺が殊更に史実、史伝と冠称したもので、歴史でもなんでもない。 古臭い文壇内部での勢力争いに、この史実、史伝は使われたのである。そして、 松平記をそっくり鵜呑みに下敷きの小説、山岡荘八の「徳川家康」も然り。
 
さて、以前テレビで「暴れん坊将軍」を有り得ない町人姿にまでなったりして松平健の好演で好評だったが、  実像の徳川吉宗たるや、「紀ノ川系」と呼ばれる百済系の血脈だったから、庶民に対しての施策は過酷なものだったらしい。 (これは往古から日本では、中国大陸や朝鮮半島の人間を崇める風潮があった為である。後年、日本原住民が明治維新で政権を取り、こうした大陸からの呪縛が解けるとその反動で、一転して「中国何するものぞ」と尊大な態度になった。)
吉宗を名君として描いた読物も多いが大変な間違いである。これに類して綱吉や柳沢吉保まで名君だとしてるものも多く、開いた口が塞がらず暗澹たる気持ちにさせられる。 さて、江戸時代の消防は、木と紙で出来てる日本家屋は燃えやすく、火事ともなれば延焼を防ぐために隣接家屋を壊す破壊消防だった。
 
だから家を壊すための道具の鳶口や手鉤を持つのだが、一方で大団扇で火勢を追い返すような原始的消防方でもあった。 現在のような防火装束もなく危険極まりない仕事だったから「なり手」が無かった。
こんな時代に八代将軍になったのが、御三家の紀州から入った吉宗なのである。そして徹底的に今言う行革をした。 この頃の江戸は天保の大飢饉から、諸国で食い詰めた庶民が流入して人口130万とまで増加したが、貞亨年間でも80万は居ただろう。 今のテレビでは「江戸町民の為」とか「百姓の暮らしを守るのが役人の勤め」等と言うのは民主主義カブレのたわごとに過ぎない。 現代でも国を相手取った訴訟で最高裁まで争っても、国益が優先されて民の勝訴は至難の業である。 今も昔も役人はお上のために働くものだから、江戸府内の取り締まりは、定廻り同心がたったの六人だったのである。
 
 これらが庶民の取締りの逮捕、起訴、裁判判決までの一切を扱っていた。奉行が白州で庶民を裁くことは有り得なく、テレビや映画は嘘。 これらの下に、吉原遊郭の四郎兵衛溜輩下の者達が手下のようについていた。 彼らはもぐりの岡場所(私娼)は無免許営業だから、吉原にとっては営業妨害である。 だから江戸市中を鵜の目鷹の目で廻り歩き摘発しては、抱え女を引っ立ててきて、吉原の奴女郎にして働かせ、手当てを貰っていた。岡場所から引っ張ってくるのでこれを「岡っぴき」とう。  (吉原の支配頭は、弾佐衛門家6人の手代の一人の花川戸介六であり、手当てはここからでていて、幕府は一銭も払っていない)  だから、別にお上が手当てを出すことはなく、安上がりなので「同心何某見知りの者」という鑑札で使っていたのが実態。  だがこれでも手が回りきれないので、そこで吉宗はとんでもない事を考え実行した。
      吉宗考案の破天荒で残酷な制度
当時スリは稼業として認められていたが、この厄介なスリにも岡っ引きをさせたのである。  江戸期普通の庶民や武士のちょんまげの元結は白色の紙縒りだが、スリには目印に「黒モットイ」を結わせた。これを「黒もじ」という。 こうすればすられた方が前方不注意で盗まれ損に済ませた。余談だが明治維新後大山大将の金時計をモサッタスリが居て、怒った大山がスリを犯罪にしたが、それまではれっきとした職人だった。 明治40年から軍命令でスリは犯罪となったとある。 ( 嘘のようだがこれが江戸の司法の実態なのである。) さて、江戸の火消しに「どぶさらえ」の言葉が残るように、燃え盛る火炎の焔から身を守るには、熱くて堪らぬから下水の汚れたのでも手桶で汲んで頭からかぶらねばならない。臭くて危ない仕事なので嫌がられた。
 
火事と喧嘩は江戸の華、いなせ、粋、「勇み足」・・これらは全て嘘。
 
さて、この当時、御三家の尾張宗春が、その曾祖家康権現様の出生を堂々と「章善院目録」の中にすっぱ抜きで書かせたから大変である。 (家康と松平元康は別人だと言う内容) 出版統制令を前もって布令させていたので、それに引っ掛けて宗春を閉門処分にした。そして又何か書かれては面倒と紙や筆も全て取り上げてしまった。  支藩である高須藩より「厠用の落し紙にも不自由している」と聞き、差し入れがあったのを探し出して、  「紙は紙である。又しても徳川家不為のことでも秘かに書かんとなさんとする所存ならん」と、尾張目付けにしておいた左太夫の弟の手で殺してのけた。 吉宗は己の子に、田安家と一橋家の両家を創設しておいて、すかさず代々の新藩主にして送り込み、次々と名古屋城には交互に入れさせている。
 
 堀端の土居下には左太夫弟の配下共を住まわせ、万一尾張者が反乱した際には、 「殿を掘割から庄内川へ奉じて漕ぎ出し、紀の川まで出て脱出せよ」と特別命令されていた。   昭和になってもこの話は愛知県では有名で、尾張土居下衆は「何時御用となるやも知れぬゆえ、常在戦場の心得で何時も小舟の支度をし、夜は半数ずつが交替で不寝番をしていた」と忠誠奉公の美談とされていた。  一橋出の名古屋城主の時でも、田安家出の殿様になっても、吉宗の遺言通りに百済政策、前述したように、内容は百済の血を引く方が尊くて、倭(日本原住民は賤とする)を差別する政策は名古屋城下では続いていた。
 
 つまり村や城下に溶け込んで居付きのサンカも、寺の人別帳に入ってない者は、 「髪を結ってはならぬ、雨天とはいえ蓑笠は許されず、裸足のままにて歩くべし」となった。この結果が「塩尻百巻」の絵図にあるように、八の部族が多く住む名古屋では、皆乱髪裸足のみすぼらしいまるで乞食の如くの者ばかりになった。 こうなるといくら御三家の一つとはいえ、他国者を名古屋城下へは外聞が悪く通すことは、見た目が良くなく出来なくなった。
 
つまり東海道五十三次といっても、「池鯉府」つまり「知立」は今の星ケ埼で、中日球場のある 鳴海潟だったが、ここから名古屋城下へは旅人は入れず、内海廻りで「源太夫の宮」と呼ばれた熱田へ出て、そこから舟で海路五里を桑名の渡し、という道順だったのである。 だが大名行列だけは便宜を計って海上三里と近回りを許したが、絶対に陸路は通さなかった。 この原則が破られたのは、明治維新の「トコトンヤレナ」と赤や白のシャグマを被った官軍行列の東下りの進軍が初めてであったという。 隠されているが、これが徳川時代の「尾張藩」の実態なのである。
 
   


明治時代の奇人 宮武骸骨 綱吉が「犬公方」と呼ばれた訳 前田犬千代はスパイだった

2019-06-20 12:18:27 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

 

 

        【宮武骸骨略歴】

この一文を書くに当たり外骨を紹介した文献を色々読んでみた。以下。(著者出版社発刊年略)「明治畸人伝」「書国畸人伝」「枠外の人々」「近代畸人伝」「柳田泉自伝」「大正畸人伝」 「ドキュメント日本人6アウトロウ」「三十六人の好色家」何しろ大変な鬼才らしい。
   慶応三年、四国讃岐の庄屋の四男に生まれる。幼名亀四郎。  十八歳の時漢和辞典の亀の項「亀外骨内肉者也」から外骨と戸籍上も改名。明治二十二年、発布されたばかりの大日本帝国憲法を揶揄し、憲法を下賜する天皇を骸骨に入れ替えた劇画と条文を「大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括す」と、書き替えた戯文を自ら発行する『頓知協会雑誌』に掲載し、不敬罪で初入獄、時に外骨二十三歳。
 
  官吏侮辱、秩序壊乱、風俗壊乱の罪に問われ続けた『滑稽新聞』、題名そのもので統制、  世相を皮肉った『赤』、猥雑漢のレッテルを逆用してタブーを解き放たんと公然刊行した「猥褻」もの、残る半分の真面目を自負した雑誌『面白半分』などその活動は刮目して迎えられた。 風刺毒舌罵倒で生き生きとした文は勿論、命名の絶妙さ、挿絵、大活字の活用の奇抜さ、流行だからと本物の紙屑古新聞を新年の付録にする磊落さ。また、獄中出版、米騒動を東京に呼び寄せた集会広告、廃家廃姓宣言等々.......
その既成、権威にとらわれない表現と行動を生んだ自由の精神は、時空を越えて現代の精神を飛翔させてやまない。
 (私見だが彼は百年生まれるのが早かった。日本は今や、朝日新聞的正義の氾濫である。大本営からリークされるニュースだけが連日新聞のトップを飾り、事象の本質には触れない新聞、テレビ。 弱体化しているジャーナリズムの現代にこそ彼の本領発揮の舞台が在ったのではなかろうか。何故なら21世紀の今こそ奇才、奇人、異能の人と呼ばれた、外骨のような異端者の時代だからである)
 
   骸骨は自ら企画執筆編集刊行するスタイルを生涯貫き、独立独行のジャーナリスト、操觚者として 二百に近い雑誌、新聞、単行本を残した。その間、筆禍で入獄四回四年余、罰金刑十五回、 発行停止、発禁処分十四回。晩年、明治期の庶民の歴史ともいうべき新聞雑誌の保存を期し、 現在日本最大の資料館となった東大法学部付属の、明治新聞雑誌文庫の設立から二十三年間、初代主任を勤めた。昭和三十年東京に没す。 享年八十九歳。               
                                                                                   序     
 
 斯くの如き政府者、しかも専制時代の政府者が悪辣の密偵者を使用した事は想像に難からずであろう。  明治十年警視局出版の「警察一班」に「秘密警察の分野は、 自由政府の国に狹くして専制政府の国に大なり。何ぞや、しかし自由の国は言路開けて法律苛ならず。是を以て各人其の思う所を直筆し、公に新聞紙に揚げて之を密にせず。故に秘密警察に因て偵知するを須んや。 専制政治の国は人々法網の厳酷なるに怖れ、各々口を閉じて其所思を公にせず。 事を議する皆のを冥々裡に於てす。故に間諜を編みて、證告を得るの方法を執らざる可らず」とある。 時の警視局長大警視川路利良は之を玉條として間諜を使った。 自由政府に改むることを欲しない當路者は、法制上にまでも密偵政策を公にして、民衆を敵視した。 其の専制政府の罪悪を網羅して、ここに本書の編成を告げたのである。
 
      【解説】  現在の民主主義とは違い、明治二十二年まで新政府を転復しようと様々な乱が起こった。 子網橋事件、佐賀の乱、秋月の乱、神風連から萩の乱、そして西南の役から日清戦争に到るまでの、政府対反体制の、これは食うか食われるかの時代に、当時の各新聞紙上より、故宮武外骨が収録した稀観本でる。  
しかし宮武外骨は、一々各新聞の引用だけに止まっているので、  大変貴重な明治前期の史料には相違ないが、その肝心な時代背景を掴んでいない憾みがある。  だから序として、その根本的なものを明白にしておかない事には、 まるでテレビの刑事物が密告者を犬として使っているみたいな錯覚に陥る。
ひいては国の治安維持を司っている、警察機構に対して、百年前の確定史料だが、誤解を招く恐れさえもある。 旧刑事訴訟法の昔は、現在は全く相違している筈だからである。 さて、宮武外骨は「犬」としきりに乱用しているが、語源を解説する。
 
 
     前田犬千代はスパイだった
 
 織田信長が側小姓だった前田犬千代を、表向き追放の恰好にし、当時は今川領だった今切の浜へ潜入させた。  というのは此処に堺経由でマカオからの硝石樽や鉄砲が輸入されていたからである。即ち今川軍団の一大武器弾薬集積所だった。  当時織田信長は、父織田信秀の死後、その妻の父美濃の斉藤道三の援助によって跡目を継いだものの、 隣国今川義元の許へ送られてくる、硝石や鉄砲で軍備を整える今川を畏怖していた。
 だから、目端のきく犬千代を当時の間者、後に言う密偵にして、今切番所の雑役小者にして、 その報告を受けていたのである。
 
それゆえ永禄三年、今川義元上洛の際に、大雨で使用できぬ火縄銃の欠点を逆手にとって、 本陣へ裏切りみたいに斬り込み、義元の首級をあげ、三百挺の鉄砲を分捕り清洲へ持ち戻った。 清洲近くの七社の村鍛冶に修理させ、おねね(後の秀吉の妻)の実兄木下雅楽助を鉄砲奉行にして、翌年から第一回の美濃攻めをした。 前田犬千代も任務完了で呼び戻され、表向きは帰参がかなった事にた。 そして、昔ながらに「いぬ」「いぬ」と、利家と名乗りを変えたのに幼名で信長に呼ばれていた。 当時は乱波、素波といった身分の低い者は、草とか忍びと呼ばれた。 だから、前田犬千代のような、将校斥候ともいうべき高級密偵は、特別に「いぬ」と織豊時代から呼ばれるようになったのである。   賤ヶ岳七本槍の一人でありながら、一万石にしかして貰えなかった、片桐且元が、徳川家康側となって、大阪城砲撃の指揮をしたのを、「天晴れ、いぬ片桐兄弟の働きなりと賞賛を賜れり」と「駿府雑記」には家康の言として「いぬ」の文字が堂々と出てくる。 徳川時代になっても「忠功を尽くした」という、栄誉を、身分格式のある者への誉め言葉として用いられていたのである。
   
 
      綱吉が「犬公方」と呼ばれた訳
 
 
五代綱吉将軍にしても、中野や四谷に犬小屋を建て、野良犬が皮を剥がれぬように隔離しただけで、 一度も覗きに行っていないのに「犬公方」と渾名されたのには訳がある。「神仏混合令」発布と共に、従来は一人で何年も勤めた寺社奉行を一度に三人も四人も任命した。 生母の伯父隆光和尚の唱える「仏教国家案」に協力するため、日本各地の反仏教派を、宗門改めを強行して転宗させた。 しかし、隠れて転宗を拒否する者の数が多く、ここに密告制度奨励を天下に布令したのである。
 
 だから、「告げ口公方」の意味で「犬公方」と呼ばれたのである。 だが彼は一匹も本物の犬は飼っていなかったのである。  価値判断が時代と共に変遷するように、イヌの栄誉在る称号も、幕末になると逆にされてきた。  つまり徳川綱吉の政治目的の「生類憐れみの令」が法制化された、貞享四年に先立ち、 当時儲かって資金的な余裕の出来てきたのが製革業者である。  彼らの用心棒のような、刀の柄に白皮を巻いたり、神祇組と称していた三河島出身の旗本や御家人二百余名と、 家の子、家族共では二千数百が、江戸では処分された。その他、大名領、旗本知行地、天領でもそれぞれに除地と呼ばれていた、今いう処の、橋のない川へ強制的に押し込めたのは数十万といわれている。
 
 「日本部落史料」の本に詳しいが、八代将軍吉宗の時代に、拝火宗徒である堂、又は道の者と呼ばれる旅芸人、 行商の者たちに、目立つように朱鞘の公刀と捕縄が渡されて、五街道目付となった。  彼らは騎馬民族の蘇我の血を引くキタさん達だが、非農耕ゆえに、昔は防人として出征させられ、奉行所や関所の捕方として出役の義務を背負わされていた。その為に捕物術、棒術、刀術を義務として稽古させられていた。 さて、幕末になると各藩から彼らが殺し屋として京へ出された。
 
 だから薩摩の田中新兵衛は捕らえられかけると自決したし、土佐の人斬り以蔵も、 無宿人として獄門にされるのも、彼らが者だったからである。だが、次々と世直しのためにと、 つまり差別され続けてきた彼らが、人間並に扱ってもらえる平等な社会の実現を目指したのである。 ところが、彼らが殺した目明し文吉を京の三条大橋にさらした時に、「いぬ」と立て札をした。 折角忠義の代名詞みたいなイヌの美称を、さも侮称のごとく変えてしまった、これが第一号といえる。  全く本物の犬には迷惑な話である。      脱藩と今ではいうが、各地の除地から次々と特攻隊として送り出されて来たのが、 土佐は武市半平太門下の若者達である。
 
 幕末までは足利の奉行によって除地とされていた十津川の吉野者。  九州ではユタ者と呼ばれていた益満休之助や伊牟田尚平。 下克上とは明治では言わぬが、もし犬を巧妙に使ったと言えば島津であり、長州、土佐の順で、彼らはその捨身立命の忠義心で新政府を樹立した。 つまり彼らは騎馬民族系飼戸の素性で、飼子として圧迫されていたのを、 世直しをするのだと吹きこまれ、頼山陽の遺児頼樹三郎によって麗々しく「志士」とされたのに気を良くし、みな鉄砲玉となって、新しき世に成ることを信じて死んでいったのである。  明治を「シシの時代」というのはこの為で、生き残った新政府の要人達は、それゆえ皆んな改姓名をしている。
 
  しかし鉄砲玉の生き残りや、疎外されて自由党を結成した連中にとって面白かろう筈はなかった。 それゆえ新政府を攻撃するのに、しきりと犬々と使ったのはあながち密偵を用いたということより、大久保利通や海江田信義らはみな鹿児島鍛冶町出身のユタ者なのは、よく知られていたから、「自分らだけが豪くなって他を放りっぱなしとは何事か」と故意に嫌がらせにしきりに用いたのである。   忠義、忠誠といった代名詞みたいに織田信長が前田利家をイヌイヌと愛称で呼んでいた誉め言葉が明治新政府攻撃に官途に就けなかった壮士たちによって、故意に悪用されたのである。
 
 宮武外骨は、反体制側の新聞記事を羅列しているので、 さも戦国時代の乱破なみの低級な扱いをそのままで「註」なしで用いているが、 鹿児島へ潜入した中原尚雄らは今日では警視正位の高官に当たる明治初期の警部だから、後には彼らは総監の要職に就いたり、大阪府知事にもなっているのである。 後の総理大臣原敬が、新聞記者時代におかみ御用を勤めていたからイヌだとか、 「剣禅一如」などと、訳の判らぬ事を口にして、生涯一度も抜刀しなかった剣豪と喧伝された山岡鉄舟から、「噫無情」の訳者として知られる黒岩涙香でさえも みんなイヌとされている。 つまり明治政府から金を受け取っている者は、これ悉く誰彼無しに犬として扱い、 悪態をついて書いていたのが、明治初年の自由民権新聞の政府攻撃の唯一の論難であったのである。
 
  折角、誉め言葉の犬を侮称にしてしまったのは、壮士新聞の連中が歴史知らずで、外骨はその儘で掲載しただけである。私は中学生の頃に、  和紙綴じの彼の「変態性欲考」を入手してから、外骨の著述は  引用が明確にされている故、安心できて多くを参考にしてきた。
 宮武外骨はスッパは英語のスパイ、ポルトガル語のスッパイからの、外来語なりと、上編の概説では言っているが、間違っている。スッパ、ラッパは草の葉の事である。 つまり菖蒲の葉の如くスウッとしているのがスッパ、ヨモギやツタのごとく乱れて絡んだのがラッパであると「和漠図絵」にも詳しく絵入りで説明されている。 大宝律令で区分された「良賤」が藤原王朝の末からは「民草」となる。つまり今日の一般庶民の先祖が「草」なのである。 草ゆえ葉っぱがつき、葭や葦の茂みに隠れていて、すっと飛び出して行くのがスッパ。  敵を錯乱のため混じり込んでいるのがラッパ。後にはホラ貝吹きの事をもいう。
 
「うかみ」は王朝時代の「放免」つまり受牢者の中から役立ちそうな者を選んで検非違使の下役に使ったのをいう。   「さぐり」「かまり」は足利時代に南朝方遺臣の残党が隠れ住んでいる地帯を、奉行を新設して、そうした地域に網を掛けるように、特殊にした。 その際その下調べに探りを入れたり、かまをかけるというか、探しに行った者たちで、室町御所文書では「覗人」としている。  忍び目付、横目、徒士目付はMPのような士分の役向きである。 「でか」は「手下」のことを「てか」と呼んでいた訛りである。今では刑事のことを「デカ」と呼んでいるがここから来ている。
 
 「目明かし」は慶安の変で由井正雪の屍体検分の為に、江戸から生前の顔見知りの者が目ききに駿府まで出かけていったのが始まりで当初は密偵ではない。 江戸の吉原は幕府公認の売春地帯で、上納金を納めていた。    しかし、売春は当時も儲かる商売なので、女さえ集めれば営業できると、モグリの岡場所が増えて吉原の営業権を圧迫した。いわば岡場所は商売敵である。  だから吉原会所は裏の四郎兵衛溜まりの者たちに、江戸市中を廻らせ、 岡場所を摘発して、女達を引っ張ってきて、吉原の奴女郎にした。  岡場所から女を引っ張って来て、吉原に引き渡す故「岡っ引き」と呼ばれ、 どうせ鵜の目鷹の目で市中を廻って歩くついでだからと、南北両町奉行の常廻り同心から盆暮れに一朱の手当で、出入り鑑札を持たされていた。 彼らが町屋の金の在りそうな店を狙い、番屋が使えたので店の丁稚を連れ込んで脅かし、口書きを取ってからそこの店を強請って金をせびったり、同じ商売屋からの「頼まれ事件」として丁稚を挙げては偽りの証拠を作くったので、「でっちあげ」という言葉を現代に残している。
 
「総会屋」のハシリのようなものである。そして彼らは常習だったので「その筋の者」と疎まれていたが、これは国家目的とは違う。  テレビや映画の「銭形平次」や「半七捕物帳」など、岡っ引きを庶民の味方として美化しているが、あんなのは真っ赤な嘘で、彼ら如きは庶民にたかるヒルのような者達で、今で言えば極悪警官なのである。  (補記)  さてこの本に高島炭坑の坑夫達が写真入りで載っている。そして炭坑夫虐待を訴える雑誌「日本人」に三宅雪嶺が「三千の奴隷を如何にすべきか」という論文を掲げ、その救済を訴えて以来、大きなセンセイションをまきおこした。
 
 監獄部屋と言うほど苛酷な労働だったらしい。 また、「りんりき鉄道」が小田原、熱海間にあり、この間は人間が押す鉄道で、これも又苛酷な労働で、これには拝火宗の民が強制的に当てられ、就寝時には部屋の真ん中の柱から、綱で縛られて寝たのでこれを「蛸部屋」という。 「四民平等」を謳った明治維新だが、こうした本を読めば、士、農、工、商の枠外にいた八や四っの民は相変わらず奴隷視され、被差別されていた事が判る。 また、ビゴーの風刺画も載っていて、自由を叫ぶ民衆を「非国民的言動」として保安条例で逮捕する羅卒。 印刷所を急襲して自由主義文書を検閲し、没収してゆく羅卒達。芸者の三味線担ぐハコヤに化けた密偵も、花柳界に入り込み、野党の見張りをしている図。 ビゴーはフランス人だから、ドイツ一辺倒の伊藤博文を皮肉って「ル・モンド紙」へも送っていた。
 
 

江戸の縁切り寺とは エンスフィールド銃

2019-06-20 11:33:06 | 新日本意外史 古代から現代まで
縁切り寺 
 
これは何故に山門の入り口にあったのかと言えば、ア横列にしろイ横列にしろ同列姓の者同士であったなら、いくら別れたいと駆け込んできても、その理由は無いと拒絶されたのである。 つまり横列が違っている場合の、他の姓列に限ってだけ、寺では願いを聞き受け入れられたのである。 だからこの額は駆け込み案内版のように掲げられ伝承されているのである。 簡単に言うなら、例えば夫の姓が山田で、妻も結婚前の姓が加藤だとすれば、 これはどちらもア横列なので離婚は出来なく寺は受け入れない。 一方夫が佐藤で妻が菊地の場合は佐藤はア横列で、妻の菊地はイキシチニ横列の為異姓として寺は受け入れるという具合である。  
 エンフィールド銃  
 
 この銃は先込式で単発、火縄銃に毛の生えたようなシロモノで、英国製だが当時はとっくに廃銃となっていた。 これを日本の文久年間から、欧米の武器商人共が一斉に売り込んできて、かなり大量に諸大名は購入した。 そして維新が成って明治新政府が出来ると、各地の鎮台にこの銃は一斉に支給された。 十年後には元込め銃に交換されることになる。   この鎮台に関しての日本史の解説では以下のようになっているが、   (1) 一地方を守るために駐在する軍隊。また、その長。 (2) 明治初期の常備陸軍。明治4年(1871)東京・大阪・鎮西(小倉)・東北(石巻)の4鎮台を置き、  同6年、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6鎮台となった。同21年師団と改称。
 
   しかし、当初、鎮台の実際の実態とは、薩摩の西郷や熊本、萩の乱と維新後に反政府運動が多発したため、  新政府は地方の反乱防止のために置いたのである。現在でもアメリカは、日本の首都の反乱鎮圧目的で、即ち、日本がアメリカに歯向かった場合の緊急出動基地として厚木基地を置いているのと同じである。  さて、この銃が松下村塾を預かる玉木文之進の兄弟である乃木希典、当時少佐へ、廃銃300丁借用の約束が出来て、そこで松下村塾の若者300人が小倉連隊長心得の乃木が受け取りにいくと、桂小五郎改め木戸孝允の命令だと、ずらりと兵を並べ  「銃はやらぬが弾丸はくれてやる」と、玉木以下、松下村塾生全員をその銃で皆撃ち倒してのけた、という曰くつきの銃である。
 
 
 
 
 
 
 
 

上杉謙信越後の盲女を救う

2019-06-20 09:16:51 | 新日本意外史 古代から現代まで
このもの付くカルタに 「盲人は蛇におじず」というのがある。   「めくら蛇におじず」とも言われている。

  意味は、日本に居る蛇は毒の無い青大将と猛毒のマムシが生息してて、  マムシは頭が膨らんでいるから、常人の目明きなら用心して石を投げたり、 その辺の棒で突いて追い払いも出来るが、盲人は目が見えないら、  平然とマムシへ向かって行ってしまう。

 だから何も知らない者は危ない事にも平気でぶっかっていくという恐ろしいことであるという訓話なのである。    なにしろ江戸時代は、夜の明かりと言えば菜種油を燃やす行灯であるが、 こうした行灯などがあるのは裕福な家だけで、田舎などでは、暗くなれば直ぐに寝てしまい、 夜なべの仕事と言えば、糸を紡ぐことだったが、それも油は高いので月明かりの在る晩 だけだった。だから不衛生な生活状態もあり全盲や半盲の数は極めて多かったのである。

「目明き千人、めくら千人」という言葉が残っているように、盲人の数は極めて多く、  これに映画で有名な座頭ら勾当と、最高の検校位までに73の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。 この盲人の総取り締まりは京の公家、久我家で、各階層の盲人から銀を上納させ 昇位や許可を一手に仕切っていたので、他の公卿に比べて格段に裕福だったのはこの盲人からの搾取に拠ったのである。 だからこの豊富な資金を元手に京阪の質屋に元手を貸す親質をしていたほどである。

さて、瞽女(ごぜ)とよぶ盲目の女性は何処にでも多いのに「越後瞽女」だけは昔から大切に扱われてきた。 越中瞽女や越前瞽女というのはまるで聞かないが、これには訳があて、 上杉謙信の名で今は有名だが、春日山城でその名を轟かせていた長尾の虎が関東管領上杉家の跡目を継いだ後も、雪深い越後は根雪の乱反射で目を病める女人が多いことを憐れみ、越後長岡の山本ごいに保護を命じたからである。 これは虎が女武将だったから「同姓相憐れむ」の精神から出た行為だろう。

 上杉家は佐渡金山を召し上げられ、代わりに会津百万石へ移封されたが、その後は十五万石まで減封された。 しかし幕末まで上杉家は続き、だから山本ごい家も長岡に留まって盲女の世話をした。    「盲妹」という言葉があり、これは女の子を幼児から故意に盲人にさせ、娼婦として売春地帯に売り飛ばされた盲女を指すが、これは目が見えないから客の選り好みをしないため、  娼家から重宝がられたという、残酷な行為だが、長尾のお虎さん(信玄)のお陰でこうした苦しみを味わうことなく幕末まで過ごせた、越後瞽女は幸せだった。  

 

イロハカルタに隠された日本史の闇 「一寸先は闇」「命あってのものだね」

2019-06-19 10:35:49 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
(注)文中「サンカ」という意味を簡単に説明しておく。日本史では士農工商と江戸時代の国民を分類する。が、学校歴史では教えないが、まず、江戸浅草の弾佐衛門を頭とする 部族が居た(彼らは人別に入っていなかったのでと間違えられている) 。更に、これとは別に川べりや、山野を家族単位で放浪する部族が居て、彼らは土地の大名や代官にも属さず、 「統治されず、統治せず相互扶助」をモットーに原始共産主義的生活を送っていた。大名にも幕府にも納税しない為、徳川幕府は彼らを目の敵にし、見つけ次第佐渡送りや、撲殺していたのである。 弾佐衛門一派とサンカ族を合わせた人口は、士農工商と同じぐらい居て、維新後明治政府を驚かせたという事実もある。
 
 
 昔の都は京都を平安京といった。豊太閤の頃は大阪城が天下だった。 処が徳川家康はこれまでも前例のない江戸へ都を造ってしまった。
そして京には、公家や朝廷を見張るため所司代を置いて厳しく監視した。 大阪には大阪城代が置かれて、徳川家の直轄とした。 織田信長は八の民(海洋民族)の立場から、内大臣となっても天正四年十二月で官位を返上した。 さらに右大臣を押し付けられたものの、これまた半年で辞退している。
 
 これは信長が原住民系であり、中国大陸系の公家や御所からの贈位を潔しとしなかったためである。 おそらく彼は、日本全国制覇というより、祇を奉じる海洋民族の国を樹立したかったのではなかろうか。為に岐阜に(祇府)都を建てたかったのが真相ではないか。 だから無位無官のままで、天正九年の馬くらべ(観兵式)の当日に、銃隊を率いて御所へ乱入して虚仮威しにしろ、鉄砲の一斉射撃のデモまでした。
 次の秀吉となると、自分は後奈良帝の落し胤であると言い張り、皇太子の誠仁親王が邪魔者だから そのお守り役を買って出ていた明智光秀を、山崎円明寺川の勝竜寺城で騙し討ちで殺した。 ついで、孤立無援となった親王をハシカと称させて医道の者に毒殺させた。
 
 そして従来の御所では手狭で汚いと、京の中央の五条を中心に、十町四方の寺や屋敷を強制的に立ち退かせ、その後へ聚楽第を己が天皇となった時の新御所として建て、正親町帝に譲位を迫ったような、秀吉である。
 皇国史観では「信長の勤皇」とか「秀吉の勤皇」というが嘘である。 二人とも、千石の御料地の献上もしていないし、御所は二万石の儘である。 後に徳川秀忠の娘の和子が、後水尾帝の許へ女御として参内の際に、化粧料として持参の一万石でようやく合計三万石になった。 とてもじゃないが五百万石の徳川家とは月とスッポン。これでは何時御所が潰されるかと、京や大阪ではこれから先何時戦が起こるかと、 全く生きた心地がしなくて、八の民の多い大阪も不安の極みだったというのが、このイロハ歌留多の意味。
         命あってのものだね
  もちろん江戸の幕府も大阪は不安で心配の種ゆえ、天保の飢饉の際には、大老となった井伊直弼が密かに大阪城代跡部良弼に密命を下し、 「先んずれば人を制すという。関西のサンカ共を唆し、暴動を起こさせるように絵図を描き、皆殺しにすべし」と企てた。
よって隠居の身だったが、大阪の前天満与力、大塩平八郎が呼ばれ、 「そちも代々お扶持を頂いて参りし幕臣の端くれ、不憫ながら倅とともに一命を徳川家の為に投げ出してくれぬか」 と、内密に五ケと呼ばれた渡辺橋から一帯の居付きサンカ達に銀をばらまき扇動させるように言いつけ、仰せにて大塩が大将になってヤラセをさせようとしたほどである。 井伊直弼が大老となったのは、天保六年の暮れゆえ、就任翌年春に、大阪城代跡部を江戸城へ呼びつけて命じた。彼も直ちに戻って、公儀大阪硝石倉庫担当の、  天満与力の職を倅に譲って陽明学の塾を開いていた大塩平八郎に、密かに下知したから、翌年天保八年の暴発騒動となったのだろう。
 
江戸時代の幕閣というのは、赤穂浪士の討ち入りにしろ、陰険なヤラセの裏取引を御政道として二百七十年を保ってきたのゆえ、通俗史を鵜呑みにしていては何も判りはしない。
 そして「サンカ歌留多」というかアヌさん唄の言葉伝えでは「命あってのものだね」という。 徳川家康、秀忠の二代までは、上州世良田徳川郷の居付きサンカの血を引いていて、同族が多いから、 大垣城へ入った石田三成らの軍勢を関が原へ、雨の中を誘い出し、火縄銃を使えないように湿らせてしまい、 家康を勝たせた。 大阪御陣でも、周辺の崎や博労が淵の者らを動員して、家康方に勝利をもたらした尾張サンカや美濃サンカの連中は「やっとかめで、よかったなも」と、 ようやく自分らの世になったものと歓びあって、ほっと はしゃぎきったものであるらしい。
 処が、京の蜷川道斎の姪の夫にあたる、斉藤内蔵助の末娘の阿福の産んだ子を、己が最後に仕込んだ子供と思い込んだ家康が倅の秀忠に対して、家光が二十歳になったら、三代将軍にせよと遺言した。
 淀君の妹で、江戸へ与えるのだから「江与」と名を改め、秀忠の正室となって産んだ駿河大納言忠長は、  時の老中筆頭の土井勘三郎利勝が、「織田の血を残すのは災いのもとなり」と、上州高崎へ押し込めて密かに謀殺した。そして竹千代こと家光の一人天下となってしまった。
 川越の喜多院にある「家光生誕の間」は京畳ゆえ、「江戸城より此処に運び込まれて移設奉納される」と、喜多院の寺の説明では麗々しくなっているが、本当は伏見城からのものらしい。
 
そして、家光生誕の間を挟んで春日局の住居と、天海僧正の胸像が向き合って置かれている。
 勿論、喜多院は春日局が新たに建立させ、天海僧正に贈ったものゆえ、家光の本当の父親は七十歳近かった伏見城の家康ではなく、まだ壮年の天海らしい。   京の仏教徒の春日局の腹を借りた天海の子種だったらしい家光は、成人して秀忠存命中に三代将軍となると、  当時は東方瑠璃光如来の、薬師寺しかなかった江戸府内に、春日局が片っ端から京の各本山より勧請して、次々と寺を建てだした。
 こうなると反仏教派のサンカは、もはや多摩渓谷や大山の川畔へ逃げてセブるしか仕方がなかった。  家光の子の家綱や綱吉の代になって「御仏の慈悲を願わぬ徒輩は、人間にあらず、転向せざるにおいては打ち殺しても差し支えなし」といった寺社奉行からのお達しが出た。
 
つまりサンカが尾張に多いというのは、津島から鳥羽の志摩の江の津に多く這い上がって住み着いた昔から、 尾張宗春がサンカ家康直系の玄孫の血脈で、名古屋へ逃げ込めば殺されずに済むと、各地から逃げ込んで集まってきていたのである。
 だが、紀州のクダラ系の吉宗は子の田安や一ツ橋からの吉宗を殺した後は、尾張の領主を交互に送り込んできた。   尾張が安住の地とサンカか思っていた名古屋が、情容赦なしの地獄と変わってしまったのである。
 
今も「界外」の地名の残る伊賀の名張や、伊勢や甲賀山中にも散らばって逃げ込みだした。   役人ばかりでなく、奴隷百姓に見つかっても叩き殺されるから、押し込められた橋のない川の中州から密かに人目を避けて外へと脱出を企てていたのは私の「忍術論考」に詳しく出ている。   建国統一の際に、軍属どもを入れると四万八千も入ってきた独身の連中が、日本列島の女を少女までも、カイトと呼ぶ茨垣で囲んだ収容地に収容。
 
 そして「開け戸」と、股を開けさせているのを見かね、まだ彼らに犯されていない女達を伴って、山や河へ逃げた男たちが「サンカ族」の始まりである。   「食物と女の怨みは、何時までも祟って怖い」というが、クダラ兵や唐兵にすれば許しがたい人種として、追い詰めては、  宮城あたりでは山へ追い上げて四方から火をつけ燃やし、人間焼肉としていた。   このオカミ側の怨念は吉宗以降はますます厳しくなってきて、山狩りを絶えず繰り返し焼き殺した頃の名残が、今では「大文字焼」などとされて、すっかり観光名物にさえなっている。
つまり、サンカの側からすれば、男は見つかり次第叩き殺され、女は垣内の奴隷女郎にされるのだから、人目を避け逃げに逃げ回っては追っ手や村人に見つからぬように、証拠となるような文字は一切使わず、 お互いに近くとの連絡は、インデアンみたいに山の頂上で ノロシを上げようものなら目立つから、アオイの乾蔓を燃やし、その匂いと、淡い煙で交互につなぎを取り合っていた。 そして互いに用心して、「見つかったら叩き殺される。だが命さえあれば、せっせと子作りして、殺された者たちの補充もできる」と、逃げ回るようにとの戒めなのである。
(後記) 画像に湯島天神の紋章に梅文があるが、契丹から来て、藤原氏に殺された菅原道真を祭っている太宰府天満宮も梅文である。 契丹の国章は梅花なので、その名残。サンカのウメガイの柄にも、この梅文の焼き印が在ったと聞くが、現物を見たことはない。