夏の終わりに、上越へ旅したことが、今、広がっています。
きっかけは、現地で知り、急遽訪ねた、直江津捕虜収容所跡地でした。
第二次世界大戦中、300人のオーストラリア人捕虜が収容され、
ひと冬で60人が亡くなったと知ったのです。
もっといろいろ知りたくなって、読んだ本が
上坂冬子『貝になった男 直江津捕虜収容所事件』(文藝春秋)。
あまりのことに衝撃を受け、
また直江津と我が地元・横浜とのつながりを知り・・・
ハマッ子・歴史好きを自称しながら知らなかったことに、大反省。
→(前記事上坂冬子『貝になった男...』から)
さっそく、英連邦戦死者墓地へ出かけました。
直江津で亡くなった捕虜の御遺骨が埋葬されているのです。
ここへは『貝になった男』の著者も
来日した、元オーストラリア兵士リー氏の希望で
案内してきました。
リー氏は、墓石の一つ一つをのぞき込むようにしながら、
直江津で亡くなった60名の氏名を探して歩き続けたそうです。
(オーストラリア兵の墓地)
ある墓石の前でのこと。
「温厚なリー氏も、さすがにロバートソン中佐の墓石を見つけたときは
声をうわずらせ/『おお』/とつぶやくと、しばし無言のまま
足を止めたのであった」186頁
ロバートソン中佐は、直江津で最初に亡くなった捕虜隊長でした。
墓石には「階級・氏名/所属/命日/享年/ 哀悼のことば」が
刻まれています。
わたしもお数珠を手に、頭を垂れてきました。
さて、この英連邦戦死者墓地。
存在は知っていました。
かつて、エリザベス女王、ダイアナ妃(当時)、ウィリアム王子が
それぞれ来日の折り、参拝なさったと報道されていたからです。
でも、その頃は
「山手の墓地じゃないよね~、どこ?」くらいの感覚でした。
山手の外国人墓地は有名で、元町にも近いため、
通りかかる機会は多いのですが、
英連邦戦争墓地は、市民でも知らない人が大半では・・・?
横浜の中心部や人気スポットからは離れているからです。
わたしも、今回、初めて出かけました。
横浜駅から京浜急行で10分、井土ヶ谷駅で降り、歩いて30分弱、
墓地は、丘の上にあります。
行きは上り坂なので、バスに乗りましたが(8分くらい?)
(バス通りの坂から、みなとみらいのランドマークタワーが見える。)
墓地の歴史は・・・
説明板によると、戦前のこのあたりは横浜市の公園でしたが、
1945(昭和20)年に、捕虜の埋葬のため接収され、
「公式にこの土地は墓地委員会に恒久的に貸与されました」とのこと。
墓地委員会とは、
1917年に設置された「英連邦戦死者墓地委員会」(CWGC)です。
第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に、英国軍と英連邦軍で戦い、
戦死した170万人以上の軍人と女性を慰霊しているのだとか。
(英国人兵士の墓地)
日本では横浜だけですが、
CWGCはアジア太平洋地域の何十もの墓地や慰霊碑を
管理しているそうです。
横浜には、第二次世界大戦中に亡くなった2000名以上の連合国軍要員」が
「埋葬または慰霊」されています。
連合国要員とは、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、
統一インド(インド、パキスタン・バングラデシュ)、
英国が所属している英連邦軍が大部分を占めるものの
他に、80名ほどの米国、オランダ軍も含まれているそうです。
(インド兵士の墓地)
埋葬されているのは、直江津のような、国内あるいは日本の支配下にあった
捕虜収容所で亡くなった方々です。
国ごとにエリアがわかれ、緑の敷地に整然と墓石が並んでいます。
それぞれの墓地の正面中央には十字架が立てられ、
メッセージ入りの献花が供えられていました。
また、当時、火葬されたものの、何らかの事情で
名前が分からなくなった遺骨もありました。
その方々は、(↑)納骨堂に遺骨が納められています。
思いがけず、
遠い上越の旅で知った情報が
地元・横浜の歴史へとつながりました。
歴史好きを自認し、歴史の旅(歴タビ)で
あちこち出かけていますが、肝心の足下が盲点でした。
横浜は、港・ヨコハマだからというだけでなく
東京に近いけれど、東京とは違うという土地柄。
ある意味で都合の良い場所です。
そのため、近代史とも大きく関わってきたのでしょう。
実は、今回のことを調べていて、
また横浜のダークな歴史を知ったのですが・・・
そちらは、まだ訪ねる気持ちになれずにいます。
もしも、いつか出かけましたら、また報告させて下さい。
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本日も、長々と、おつきあいいただき、
どうもありがとうございました。
本文の内容は、上坂冬子『貝になった男 直江津捕虜収容所事件』と
「英連邦戦死者墓地」内の案内板を参考にまとめています。
間違いや勘違いなどは、素人のことと、ご容赦下さいませ。