今年の箱根駅伝は、額賀澪『タスキ彼方』と共に観戦した。
テレビ中継だけでなく、スマホも動員し、状況はを常に把握しながら
本を読む・・・
ご贔屓チームの快走やピンチには、本を閉じて大声をあげるのだが。
今年の箱根駅伝は第100回大会。
額賀氏の「タスキシリーズ」も第三作を数え、
本書では、過去の大会が大きな意味をもつ。
俄然、箱根駅伝の戦前戦中の大会に興味がわく。
読了後、さっそく、参考資料としてあげられていた
早坂隆『昭和十八年の冬 最後の箱根駅伝 戦時下でつながれたタスキ』
(中央公論新社)を読んだ。
額賀氏、あっぱれ!
史実を見事に取込んだ、フィクションを描ききっている。
小説のキャラクターのモデルは、あの方、この方・・・
なるほど、この部分はこうアレンジしたのか、と
推測するのも楽しい。
ますます額賀ファンになった。
けれど、わたしも箱根駅伝ファンの歴史好きだ。
第100回大会の感動がのこる今、
箱根駅伝の暗い時代を、整理しておこうと思い立った。
備忘録であり、素人のこと、間違いや勘違いはお許し願いたい。
また、箱根駅伝は100年を数える歴史がある。
ここでは、そのごく一時期、昭和15年から戦後、
昭和22年復活の時代に絞ることを申し添える。
(書きたいことがありすぎて、収拾がつかなくなっちゃう~)
基本的に参考資料および引用は『最後の箱根駅伝』である。
昭和15(1940)年、日米開戦の前年の9月、
第22回大会を前に、箱根駅伝の中止が正式決定された。
コースとなる国道1号線の使用許可が下りなかったことからだ。
既に日中戦争下、国道1号線は中国大陸へ軍需物資を送るため、
フル稼働。
そのため軍部が箱根駅伝の開催に難色を示した。
当時は幹線道路の使用には、地元の警察の許可が必要であり、
ここに軍部が介入してきたわけだ。
著者・早坂氏は書く。
「食糧や武器弾薬の停滞は、将兵の生死と直結する。
軍部としても、必死の局面であった。
この辺りの状況を『軍部がスポーツを不条理に奪った』といった
紋切り型の表現で結論づけてしまっては、この大会にまつわる
苦悩の本質は見えてこない」29-30頁
もっともだ。
補給路が断たれた結果の悲劇を、現代に生きる私達は知っている。
たとえば、太平洋の島々の戦場で将兵が飢えにより倒れたのは、
海軍連合艦隊がレイテ沖海戦で壊滅状態となり、以後、
食糧も武器弾薬も届けられなくなったからではなかったか。
「国家総動員」の総力戦の時代、
早稲田大学の競走部員・石田芳正は回想する。
「正月早々、この大戦下に、若者が学生の特権これみよがしに
ワッショイ、ワッショイ走られてなるものか。
軍用貨物自動車の邪魔になるし、軍の精神に反する。
ー中略ーだから私はあの箱根駅伝は、ついぞ走れなかった。
全くもって、残念至極」29頁
同年輩の若者は徴兵・出征しているが、
当時、学生は、まだ徴兵が猶予されていた。
その「特権」には世間の冷たい眼差しもあり、
学生自身も肩身が狭かったとは、よく聞く。
とはいえ、大学生だ。
箱根駅伝を走りたいという気持ちも抑えきれない。
その身上がよく現われている。
これが早坂の言う箱根駅伝に対する「苦悩の本質」であろう。
関東学連も、同じである。
軍部の言い分も理解できる一方で、
箱根を目指し鍛錬してきた仲間の無念もわかる。
関東学連は苦悩し、あちこちと交渉を続け、
「箱根」を断念し、その代案をうちだす。
それが「青梅駅伝」こと
「東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会」は
昭和16(1941)年1月開催。
明治神宮水泳場前から、東京の西部、青梅の熊野神社が折り返し、
八区1日のコースに、13校が出場した。
青梅は、この年と翌年の二回、開催される。
だが、やはり箱根を走りたかったという無念の想いは
選手達には強かったようだ。
それはそうだろう、既に「箱根駅伝」は、
当時の走ることが好きな少年達にとって憧れだったのだから。
その憧れは関東どころか本土を離れ、遠く、当時の満州にまで及んだ。
大連で生まれ育った、東京農大・陸上競技部門の百束武雄氏は、
「満州の地で鍛えた俊足が通用するかどうか」
胸膨らませててた。
「胸躍らせて入学したのですが、それと共に箱根駅伝が中止になり、
青梅での大会に変更となりました。あれは残念でしたね」65頁
戦後、氏は、そう語っている。
青梅駅伝ではなく、選手は箱根を目指したいのだ。
第二回青梅駅伝は昭和20(1940)年11月30日に挙行。
1月に行われる大会を繰り上げてていた。
アメリカとの戦争が近付き、学生の「繰り上げ卒業」を見越しての
決定だったという。
早く開催しなければ、大会そのものが中止に追い込まれる状況だった。
その一週間後、12月8日、日本は真珠湾攻撃により
アメリカとの戦争に突入、アジア各地へも進撃し、
中国との戦争も終わりが見えないのに、
アメリカ、イギリス、オランダとも戦争を始める。
この状況で、箱根駅伝とは言えまい・・・
いや、若者は、そう考えなかったのだ。
関東学連は、表向きは解散をさせられていたのだが、
実態としては活動を続けていた。
この頃、幹部は、「箱根駅伝」開催をめざし、
文部省や軍部と粘り強く交渉を続けていたのである。
「中止が長引けば長引くほど、開催ができなくなってしまう」との
危機感が後押ししたという。
「青梅ではなく、憧れの箱根を走らせてあげたい」
それが、中根敏雄・幹事を初めとする幹部の想いだった。
中根は跳躍の選手だったが、同じ陸上の選手として
駅伝を夢見る長距離選手の想いがよくわかったのだろう。
この熱い想いに、関東学連のOBたちがこたえた。
たとえば、文部省の体育局運動課長・北沢清。
東京農大陸上部の出身である北沢は、文部省内での調整役を担った。
それ以外にも多くのOBが省庁と学生の橋渡しを行ったという。
学生の想いだけでは決して実現しなかった、箱根駅伝の復活。
OBという大人の存在があったのだ。
(「タスキ彼方」でも、関東学連やOBのキャラクターが秀逸!
やりとりも胸に迫る)
もっとも難航したのは、予想通り、軍部との交渉だった。
そもそもは箱根駅伝で軍用道路となった国道1号線の使用が許されず、
中止に追い込まれたのだ。
当時、大日本学徒体育振興会・陸上委員長だった鈴木武は、
かつては日本学生陸上競技連合の会長を務めている。
鈴木は、後の首相・鈴木貫太郎の甥だ。
豊富な人脈をもち、軍部にも一定のパイプがあり、調整役を快諾、
学生に「陸軍戸山学校を説得するよう」アドバイスした。
アドバイスにしたがい、
中根らは何度も陸軍戸山学校へ通意、交渉を重ねる。
たとえば、軍部の危機感「多くの人が集まる大会で、
敵から攻撃されたら、被害が大きくなる」といえば、
「常に場所を移動する駅伝は、人が分散するから大きな被害は出にくい」
と、こたえる。
さらに「長距離を走る駅伝は、基礎体力を養う意味がある」
「戦技(軍事教練)としても妥当な競技である」と強調したという。
関東学連は、このほかにも知恵を巡らせた。
「戦勝祈願としての駅伝」と提案し、「靖国神社と箱根神社との往復」に
コースを変更し、「レース前に靖国で戦勝祈願の参拝を行う」と
提言したのだ。
靖国神社は、軍人や軍属を主な祭神として祀り、
箱根神社や皇室や武家の崇敬を古くから集めている・・・
このような関東学連の柔軟な姿勢により、
軍部も、ついに国道1号線の使用を許可、これにより各方面との
交渉は円滑に進むようになった。
資金難などの大きな問題は残ったが、ともかく、
昭和17(1942)年11月末、翌年1月の箱根駅伝開催が決定した。
(資金面も、やがて、なんとか折り合いをつけた)
昭和18(1943)年1月5日、青梅駅伝を除けば
3年ぶりの箱根駅伝、第22回大会が戻る。
公式プログラム通りにいえば
「紀元二千六百三年
靖国神社・箱根神社間往復 関東学徒鍛錬継走大会」である。
そして、プログラムには、主催者として「関東学生陸上競技連盟」の
名前が刻まれている。
既に解散していた「関東学生連合」の主催はありえないため、
謎はのこるが、
ともかくも大会の運営が文部省や軍部ではなかったことは明らかだ。
(「タスキ彼方」は痛快な理由を与える!)
参加校は以下11校(50音順)。
青山学院(現・青山学院大学)慶應義塾大学 専修大学 拓殖大学
中央大学 東京農業大学 東京文理大学(現・筑波大学)日本大学
法政大学 立教大学 早稲田大学
当時はもう、選手10人を集めるのが難しく、
明治大学のように出場を断念する学校もあったという。
ちなみに、今年の箱根、第100回大会を制した青学は、
第1回青梅駅伝から駅伝に参加、この第22回大会では
優勝の日本大学から3時間近く遅れての最下位だった。
時代は変わる!
こうして第22回大会を最後に、箱根駅伝は再びの中断となる。
この年、学生の徴兵延期措置の撤廃により「学徒出陣」が始まり、
大会の開催は、もはや不可能だったからだ。
第22回大会は、戦前戦中における「最後の箱根駅伝」であり、
2回行われた「青梅駅伝」は「幻の大会」となったのである。
箱根を走った選手は、その後、「学徒出陣」し、
戦場へ向かう。
学徒出陣を待たず志願して出征した者、
戦後長くシベリアに抑留された者
特攻隊員に志願した者・・・
二度と故国に戻れなかった者も多い。
そんな中、生きて帰れた者は箱根駅伝復活を目指した。
悩みの資金面は読売新聞社の後援をかちとったが、
今度の難しい交渉相手は、軍部ではなく、GHQである。
しかし、予想に反し、GHQは柔軟な対応で、
道路許可もすんなり下りた。
しかもGHQの担当者は「おもしろそうだから」と
当日レース観戦までしたという。
こうして昭和22(1947)年1月4,5日、第23回大会が開催された。
箱根駅伝は、以後、連綿と続き、今年第100回大会を迎えた。
「最後の箱根駅伝」を走り、出征後、生きて戻れたランナーは、
スポーツ実況のアナウンサーや経済評論家など
「実に個性豊かな生涯を送られた方が多い」(306頁)という。
「戦没者から託された『見えないタスキ』を胸に、
駅伝で培われた使命感や責任感を先進的支柱として全力疾走したのが、
彼らの生き様だったのではないか」(306頁)と著者は続ける。
現代のわたしが箱根駅伝を観戦していて、
とにかく願うことは、無事に「タスキ」がつながることである。
タスキを手に走ってくる仲間の姿が見えているのに
「繰り上げスタート」で、次の走者が走り出す場面は
無関係の者でも無念でならない。
ましてや選手はいかばかりかと・・・
令和を生きる、わたしも含め、こんなにも多くの人たちが、
箱根駅伝に夢中になるのは、「タスキ」ゆえではないか。
「タスキ」はチームのものである。
だが、「タスキ」は時空を超えてつながっている。
先人達の想いのこもったタスキでなのだ・・・
来年の箱根駅伝、
いや、まずは秋の予選会からだ。
楽しみでならない。
📷 画像は2020年第96回大会にて撮影。
東洋大学の相澤晃選手(現・旭化成)は花の二区で
14位から7位に浮上する快走を見せてくれました。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
以前、正月明け、ゴールの芦ノ湖畔「箱根駅伝ミュージアム」で
優勝をしたばかりのS監督とご家族と、行き会いました。
とても穏やかな素敵な方でした。
以来、「鉄紺のタスキ」はご贔屓チームの一つです。
参考:
●早坂隆『昭和十八年の冬 最後の箱根駅伝
戦時下でつながれたタスキ』中央公論新社
●額賀澪『タスキ彼方』小学館
うーん箱根駅伝もこのよな逸話を知ると、感慨深いですね。大の箱根駅伝ファンとしては、今迄のファンという言葉を返上しなければいけないと思うほど、様々な事があったのですね。テレビ中継の時の解説や特番などで知っていたつもりてすが、浅い知識だったと改めて思いました。お恥ずかしいです。でも、遅くないですね。今から沢山の事を本から得たいと思います。有り難うございました。なおとも
わたしも、いろいろな特集で、何となく知ってはいたのですが、
自分の中で、きちんと整理してとらえてみたかったのです。
本当は「学徒出陣」に、もっと重きをおいてまとめたかったのですが、
力不足でかなわず、アップしてしまいました。
そんなでお恥ずかしいのですが、おつきあいいただき、どうもありがとうございました。