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感動、感動!
なんなの、ここは!?
広大な敷地は、まっ平ら。
それを見守るかのように、低いお山が、穏やかに
取り囲んでいます。
・・・入り口に立った、その瞬間、涙が出てきてしまいました。
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現在の奈良県橿原市と明日香村に広がっていた、
「藤原京」の中心部です。
「藤原京」は、持統天皇の時代、
694年(元号が途絶えていた)飛鳥浄御原宮(アスカキヨミガハラノミヤ)から
遷都されてきました。
そして、平城京に移る、710(和銅3)年までの、
持統(ジトウ)天皇、元明(ゲンメイ)天皇、文武(モンム)天皇、
元正(ゲンショウ)天皇と四代の都でした。
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でありながら、都だった期間は、たった16年!
もっとも、それ以前は、天皇の代替わりの度に
遷都をしていた・・・
つまり、すぐに造れて、すぐに移れるレベルの都でした。
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(資料館の模型)
ところが、藤原京は違うんです!
全体が5㎞四方の広い街は、
中国の都にならい、碁盤の目状に通りが走り、
一番大きな道路は幅24m。
片側3車線の高速道路並み!
その中心に置かれたのが、わたしの見た「藤原宮跡」。
「藤原宮」だけでも、900m四方もあり、
さらに周囲を高い壁で囲み、堀をめぐらせた立派な造り。
今で言う霞ヶ関と皇居の機能を併せ持つ場所と聞くと納得です。
政治の中枢と、天皇の住まいがあるということでしょう?
政治の中枢と、天皇の住まいがあるということでしょう?
ならば、かくやあらん。
「藤原京」は、1300年前に造られた、
初めての本格的な都だったのです。
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(正面は天香具山)
では、なぜ、いきなり、こんな立派な都を?
663(天智2)年、大和朝廷は、白村江の戦いで、
唐・新羅連合軍に大敗しました。
もはや、いつ、大陸から攻めらても不思議はありません。
対馬の金田城や、福岡の水城など、当時の城跡も歩きましたが、
いつ、大陸から攻められるかもしれないと、
どれだけ脅えていたのかが、実感できたものです。
大陸に対する怖れが、国力の統一、中央集権国家作りを急がせたのでしょう。
そのためには律令体制の浸透が急務、
さらには文化的な首都も欠かせません。
そんな事情もあり、莫大な経費と労力を注ぎ込んで、
造られた壮大な都が「藤原京」でした。
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(奥は耳成山)
でも、たった16年で再び遷都!
しかも遷都計画が議論されたのは、
慶雲4(707)年、文武天皇の御代のこと。
なんと「藤原京」へ遷都してから、たった13年です。
どう考えたって、もったいなさすぎます。
今だったら「税の無駄遣い」と大炎上必至!
もちろん、当時も不満噴出、
あちこちで新都造営を妨害する放火などもあったようです。
それでもなお、「藤原京」にとどまるわけにはいかなかった・・・
実は・・・
藤原京では、新しい試みとして、
出仕する官人(今で言う公務員)を都に住まわせ、
その都市貴族化をめざしていました。(瀧浪15、16頁)
そうでないと、いつまでも官人は古代氏族の在地性を引きずり、
律令体国家が機能しなかったからです。
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ところが、当時の官人は、飛鳥への想いが強く、
その地を動こうとしませんでした。
実際、飛鳥と藤原京は近いですもん。
グーグルさんによると、飛鳥浄御原宮と藤原京は、
歩いて50分だそうです。通勤圏内・物件!
・・・ということで、
飛鳥から通うことができない土地への遷都がめざされたのです。
ふたたび、莫大な経費と労力を費やしても・・・
そこで、一気に大和盆地を北上し、平城京が選ばれたのでした。
紆余曲折の末、
平城京遷都がかなうのは、遷都計画から
3年後のことでした。
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(畝傍山)
藤原京の時代を治めた
4人の天皇、持統天皇、元明天皇、文武天皇、元正天皇のうち
文武天皇以外は、全員女性です。
そのせいか、藤原宮跡は、何やら優美な印象でした。
大和三山のやわらかな稜線のせいでしょうか・・・
大和三山とは天香久山(アマノカグヤマ アメノカグヤマ)、畝傍山(ウネビヤマ)
耳成山(ミミナシヤマ)の三つ、どれも200mに満たないお山です。
この三つの山の姿は、藤原京の時代と、変わらないと聞いています。
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1300年前の人たちと、今、同じ山の景色を眺めているんだ・・・
しかも、都は、こんなに広かったんだ・・・
その土地が、今、更地のまま残っている・・・
・・・すごいことじゃないでしょうか!?
言いようもなく感激し、胸がいっぱいになり、
ときおり、涙しながら、歩いた「藤原宮跡」です。
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なお、藤原京は、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群 」として
世界遺産の登録を目指しているそうです。
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最後まで、お読みいただき、どうもありがとうございました。
以下の参考図書他、現地の案内やパンフレットなどを参考に、
本記事をまとめていますが、勘違いや間違いもあることと存じます。
素人のことと、どうぞお許し下さいませ。
◆参考
●瀧浪貞子『光明皇后ー平城京にかけた夢と祈り』中公新書
●遠山美都男『天平の三皇女ー聖武の娘たちの栄光と悲劇』 河出文庫