歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

象山地下壕へ~「幻の大本営」(2)

2022-09-19 06:23:24 | 長野県

長野市の南、松代町・・・

「六文銭」の真田家10万石の城下町として、人気です。

 

この静かな町の地下に、巨大な戦争遺跡があります。

それが「松代大本営地下壕」、総延長10数㎞に及ぶ地下壕です。

 

(松代・海津城)

 

アジア太平洋戦争終結の一年前、1944年に本土空襲に備え、

大本営の移転が計画され、莫大な資金と労働力をかけ、作業が急ピッチで進められました。

 

結果として、終戦に間に合わず、「松代大本営」が使われることはありませんでした。

 

それが「幻の大本営」と呼ばれる所以です。

(アウトラインは前記事「『幻の大本営』へ」をご覧下さい。)

 

 

 

9月初め、松代大本営平和記念館のKさんのご案内で、

前記事)「幻の大本営」の「松代象山地下壕」を見学しました。

本日は、その見学記です。

 

 

象山地下壕は、坑道全部の総延長が5900メートル、

そのうち、現在公開されているのは500メートルの区間だけですが・・・

 

 

正直、ガイドさんとご一緒でも、1度見学したくらいでは、

何が何やら、よくわかりません。

あまりにも、巨大で、細かく造られているからです。

 

ここでは、印象と感想を、ざっくりと、まとめてまいります。

 

 

まずは、坑道に入る前に、備え付けのヘルメットをかぶりましょう。

 

薄着の方や寒がりの方は、もう一枚プラスされることを、おすすめします。

壕内は年間を通して、気温10数度・・・

 

この日も、真夏のような強い日差しの日ながら、

壕内では、スエット生地でリバーシブルの厚手の上着を着込んでいても、

わたしには、ちょっと肌寒いくらいでした。(←普段から寒がり!)

 

Kさんは、慣れておいでなのでしょう、半袖シャツ姿でいらっしゃいましたw

 

 

地下壕のある、象山山は標高475メートルの小さな山。

ここが大本営の移転先と選ばれたのは、硬い岩盤ゆえ、

空襲にも耐えられると評価されたからでした。

 

 

1500年前の地質で、黒色泥岩を主とした別所層と硬い閃緑ひん岩からなると、

「ブラタモリ」が喜びそうな話ですが、

わたしにはチンプンカンプン。

 

地質については、このあたりでお許しください。

 

ただ、画像からも、あのゴツゴツした感じは

おわかりいただけるのではないかと・・・

 

(NPO法人松代大本営平和記念館「松代大本営」パンフレットより)

 

この硬い岩盤を工事する手順は・・・

まず、ダイナマイトで掘削。

次に、粉砕された岩盤を細かく砕き、トロッコやモッコで外へ運び出す。

 

この作業をするのは、薄暗い地下。

 

見学ルートは、灯りが、ところどころに点けられていますが、

当時は、どの程度の明るさが確保されていたのか・・・

 

しかも、足下はむき出しの岩盤。

ゴツゴツと歩きにくいこと、このうえなしです。

 

湿気もあります。

なんせ、途中で、メガネが曇ってしまったくらいですから、

当然、足下も滑りやすいのです。

 

かつての工事作業は、こういった悪条件の中、12時間に及ぶ労働・・・

暗い中での危険な作業でした。

 

 

壕内には、当時のままの痕跡が生々しく残っていました。

 

つきさったまま抜けなくなったロッド。

 

電気配線跡の木片。

 

 

ズリ(石くず)を運んだトロッコの枕木跡。

 

よく見ると、枕木の周りに凹みができています。

その理由は解説(下の画像)にありました。

過酷な労働を示す証拠です。

 

 

なお、ズリは、大量に捨てると目立つので、

地元の国民学校(現在の小学校)の児童を動員して、

草や木で覆って隠しています。

 

戦時下、子どもも駆り出しての作業ながら、

はたして、どれほどの効果があったものか・・・

 

戦後、これらのズリは硬くて良いと、

アメリカ占領軍の指示で運ばれ、道路や滑走路の舗装に使われました。

 

(細かい石屑が「ズリ」)

 

 

この壕での1番の衝撃は・・・

朝鮮人労働者が書いた落書きです。

 

未公開部分に残るため、現物ではありませんが・・・

左側は「大邱(テーグ)」「大邱府」と韓国の都市名が、

右側は、おそらく朝鮮の民族帽を被った人の顔・・・

 

 

毎日、過酷な労働を強いられても

出される食事は、薄いコーリャン粥、

三角兵舎では、藁布団しか与えられず、寒くて眠れなかったと言います。

 

終戦で、この非人間的な日々から、ようやく解放されたのです。

 

8月下旬からすぐに、強制連行された朝鮮人の多くは帰国していきました。

一方で、母国に帰らず、日本に留まった人も多かったとか・・・

それぞれの事情でしょうが、胸中は、いかばかりだったか・・・

 

 

その日本に残った人達が、

後に高校生へ体験を語って聞かせてくれることになりました。

 

同胞と別れる道を選び、異国に残り、

ずっと口を閉ざしていた人が、過酷な経験を語る・・・

若い人の持つ、まっすぐさが、心を開いてくれたのかもしれません。

 

各地の戦争遺跡で、たびたび耳にする、若い人の活躍です。

 

(NPO法人松代大本営平和記念館「松代大本営」パンフレットより)

 

案内を受けて見学は、3、40分ほど。

壕内から出て、外の光を浴びたとき、どれだけホッとしたか・・・

 

ウクライナでも、戦禍の中、地下に避難していると聞きます。

わずかな時間でも耐えがたいのに、いつ果てるとも分からぬ戦争の中、

考えただけでも、叫びだしてしまいそう・・・

 

地下壕見学を終え、痛いような強い日差を浴びながらも、

平和な明るい現代を歩ける幸せを、しみじみ感じておりました。

Kさんも、ほっとされたのか、ようやく雑談に花が咲いています。

 

Kさんは、お話し上手の素敵な紳士です。

 

 

 

この後、Kさんと別れ、

天皇の「御座所」として準備された舞鶴山地下壕(↑)へと向かっています。

次回の更新は、そちらについてです。

 

どうぞ、また、お立ち寄り下さいませ。

 

 

おつきあいいただき、どうもありがとうございました。

 

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本ブログは、Kさんのご案内と、以下の資料を参考にまとめました。

素人の備忘録ゆえ、間違いもあるかもしれませんが、

どうぞ、ご容赦下さいませ。

◆参考

●松代大本営の保存をすすめる会編『フィールドワーク松代大本営ー学び・調べ・考えよう』平和文化

●NPO法人松代大本営平和記念館「松代大本営」パンフレット

●長野市観光振興課「第二次世界大戦の遺跡 松代象山地下壕」パンフレット


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