先日、昭和30年の話題から、
「戦後10年とは、この時代、まず言いませんね~」という
話になった。
昭和30年。
戦争が終わって10年経ったとはいえ・・・
サンフランシスコ講和条約(昭和27/1951)で、
日本の独立が認められてからは、わずか3年。
まだまだ生きるのに必死の頃。
とても振り返る余裕など、なかったのだろうと・・・
ちなみに、今年は、
ミッドウェー海戦80年にあたるそうだ。
あ、まさに今、6月!(6月5日~7日)。
戸津井康之『終わらない戦争 復員船「鳳翔」”終戦”までの長き航路』
(二見書房)を読んで、またまた衝撃を受ける。
もう、知らないことだらけ~~!
世界初の空母「鳳翔」は、終戦直前、
数度に及ぶ、激しい呉港空襲を生き残り、
戦後、復員船として新たに生まれ変わる。
戦後、復員船として新たに生まれ変わる。
本書は、海軍通信兵・山本重光の復員船・乗務員としての日々を取材し、
また、同じ任務についていたそれぞれの証言も拾いながら、
復員船に焦点を当てる。
終戦後、海外に残された、日本人は、軍人民間人を合わせ、
660万人が取り残されたという。
当時の日本の人口が7200万人だったことを考えれば
実に、1割にあたる。
山本は「鳳翔」で赤道を8往復し、「南洋の日本人を救い、
旧満州へも向かう。
660万人が取り残されたという。
当時の日本の人口が7200万人だったことを考えれば
実に、1割にあたる。
山本は「鳳翔」で赤道を8往復し、「南洋の日本人を救い、
旧満州へも向かう。
「鳳翔」が引退・解体されると、小型の海防船に移り、
そこで、復員船の仕事を続けた。
当時ハタチそこそこの若者は、自ら、この道を選んでいる。
そこで、復員船の仕事を続けた。
当時ハタチそこそこの若者は、自ら、この道を選んでいる。
敗戦時、上官は
「長男は帰れ。次男以下は船に残って欲しい」と言ったという。
次男だった山本は迷いなく残る。
復員船勤務が続くと、
上官が「おまえは大学へ行け、あとは俺たち年配者が引き受ける」
と言ってくれたというのに、残り続けた。
それは復員船に乗り込んでくる人たち、
それは復員船に乗り込んでくる人たち、
病的なほど日焼けし、ガリガリに痩せた復員兵、
笑顔の全くない引き揚げ者を、
笑顔の全くない引き揚げ者を、
連日、見続けたからということになるらしい。
この想いは、当事者でなければ、わからないことだろう。
今まで、引き上げの苦労は、
さまざまな本やメディアで見聞きしてきた。
でも、そのための手段については意識していない。
「引き揚げ船に乗り込んだ」・・・で、おしまい。
「引き揚げ船に乗り込んだ」・・・で、おしまい。
その船が、どんなものであり、
どんな人びとが動かしていたのかなど
考えたことも無かった。
その乗務員とて人生ががあり家族がいるのに。
しかも俸給は雀の涙だったという・・・。
考えたことも無かった。
その乗務員とて人生ががあり家族がいるのに。
しかも俸給は雀の涙だったという・・・。
さて、我が横浜、山下公園には氷川丸が係留されている。
氷川丸は、日本郵船所有、1930年就航の北米航路の豪華客船だ。
今は、豪華客船時代の姿に修復を施され、美しい姿を見せ
船内は、博物館のように見学できる。
この船が戦争中、病院船となっていたことは、知っていた。
だが、復員船として働いたことは・・・記憶が無い。
たぶん、日本郵船の博物館で見たはずなのに・・・
それどころか・・・
大きな勘違いをしていた。
国木田独歩の長編「或る女」・・・
ヒロイン葉子は、独歩の最初の妻・佐々木信子を
モデルにしたと言われる。
その中で、葉子は婚約者の待つ、北米へと船に乗る・・・
その中で、葉子は婚約者の待つ、北米へと船に乗る・・・
その船を、わたしはずっと、氷川丸だとばかり思っていた。
この記事を書くにあたり、調べてみたら・・・
年代が違う!
氷川丸・就航の1930(昭和5)年、独歩は既に、この世にいない。
ええっ
今、手持ちの文庫本を開いてみれば、
船の名は「絵島丸」と書かれていた。
あれれ~~~
葉子は、ずっと、氷川丸に乗船したと思い込んでいた。
人にも、そう言っていたかも・・・恥ずかしい。
いずれにせよ・・・
復員船としての氷川丸についても、
もう少し、知りたいところだ。
山下公園の氷川丸まで行けば良い話なのだけれど、
この蒸し暑さに、すっかり参っている昨今だ・・・
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
勘違いや読み違いは、生来のそそっかしさゆえもありますが、
歴史の素人ということで、どうぞ、お許し下さいませ。