教師☆学校心理士のセルフカウンセリングルーム

学校心理士によるつぶやき。教師の悩み・試行錯誤に寄り添うブログです。

高速割引ありがたや~!

2009年03月31日 | Weblog
 自転車で夜遅く帰ってきたけど、春だ、桜だとはいうが、まだ寒い。

 この週末、高速道路の新割引がスタート、早速それを利用して東京へ行ってまいりました。問題はいろいろあるんだろうけど、自家用車で高速利用の貧乏人にはこの割引はありがたい話です。

 さて、授業づくりネットワーク2009、そして師匠から多くのことを学んだ。
この後改めてじっくり考えたいと思う。

 「わからないことは子どもに聞け」を心に留め、そこからの教材・授業開発。
 「お笑いは教室に安心感を生む」の哲学。
 「拍手」(細かく・強く・元気よく)の威力。
 
 そして学級づくりの柱として漠然と考えていた「自分磨き」について。
教師が自分を磨く子どもをつくりあげるのか、それともそういったねらいを持った集団づくりをしていく中でそういった風土が生まれてくるのかを問われ考えた。
やはり、人間関係づくりがなくては、全員の自分磨きの意識はそう高まらないと思う。だれかが高めようとしているのを見て自分も自分を高めようとする集団づくり。個人だけ働きかけても、うまくいかないのだ。でも、働きかけは必要な要素であると思っている。今の時点でも、人間関係づくりと自分磨きの働きかけは同時進行で進めていくのでいいのだと思っている。

その前提として、教師が学ぶ姿勢を見せることが大前提であるという教えをいただいた。なるほど。ミラーニューロンその通り。

自分の考えていることを語るのはおっかなびっくり。今回も、ひっくり返った部分が多い。ガクッとなるけれど、最近勉強を始めたヤツがバッチリちゃんとしたことを言えるわけがない。
出さなければ学びが深まらなかったし、前に進んでいかない。おっかなくても、出していけたらいいと思う。

まだまだ甘いと言うこと。
一歩一歩やっていきたい。

春 

2009年03月26日 | Weblog
花粉のせいか、生活のリズムがよろしくない。
春。終わりと始まりの季節だ。
ちょっぴり寂しくもあり、新しいスタートにわくわくする気持ちもあり。。

人との「出会い」を大切にしたいと思う。
そしてまた、すてきな本と出会った。

齋藤 孝 『教育力』 岩波新書(2007)

「子どもの個性を伸ばす」というスローガンはもっともらしく聞こえる。しかし、教師自身が何か高みを目指して飛ぶ矢のような勢いを持っていなければ、学ぶ側に「あこがれ」は生まれない。教えるという行為ばかりに気をとられて、教師自身が学ぶことを忘れている場合が少なくない。学ぶ側はそれなりに進歩をしているにもかかわらず、教師の側が十年一日の如くであるとするならば、年々若々しさが失われる分、教師の魅力は減っていく。(p.5)
 教師が学ぶことをやめると、教育力は落ちる。というのは、生徒の側はその先生の勢いのようなものを感じとり、それを動機に変えるからである。(p.24)


 野口先生の「教師源流説」も同じことを言っている。
 学ばない者は子どもの前に立つべきではない。
 学ぶことの喜びやすばらしさを子どもに伝える者である教師として当たり前の姿勢。いつも心に留めておきたい。
 また、この書には「あこがれの伝染力」「文脈力」「段取り力」「見通し力」「発問力」「関係の力」など、教師に必要な「教育力」のキーワード、教師の条件ともいえるエッセンスが強い意志を持って書かれている。どれもなるほど必要で大切な力であると感じた。ひとつひとつをひっかかりのキーワードとして持っておいて学び、自分の哲学と呼べるものを少しずつつくっていきたい。
 そして、教師は資質が問われる職業であるということも書かれていた。向いている人、向かない人がいる。自分はどうなのか。向かないならやめるのか。それを自覚し、やめることができるなら、きっと他に向いている仕事があるのだろう。自分は向いているそしてこれから努力する意志があるという者が未来の社会の形成者である子どもの教育に携わるべきなのだろう。
 資質に大きく作用される職業でありながら、成功の原理原則もあり、個性を生かしながら子どもの前に立つ。私は今、再生可能な原理原則を自分なりに考えている。
 なんだか少し矛盾したところを感じるが、それが生の人間が行う「教育」というもののおもしろさなのかもしれない。


思いつき

2009年03月20日 | Weblog
泳ぎながらいろいろなことを考える。
そうすると、50mのターンか100mのターンかよくわからなくなる。
100m×10本のメニューも実際は800mくらいしか泳いでいないかもしれない。。

泳ぎながらぼんやり考えたのは学級づくりの診断と手だての方向。
自分だけができることではなくて、次の年度に担任が替わったら壊れてしまう学級づくりではなくて、原理原則をおさえた学級づくりを考えたいと思っている。
もちろん担任のカラーはあってよし。方法もその人の哲学に根ざしたやり方でよいのだと思う。

学級づくりで立ち止まったとき、どんなことを見てどんな手だてを打てばいいのか。その視点があると、ちょっと前に進めるのではないか。
今のところ、学級作りの基本要素、3本柱として「ルール」「リレーション」「自分磨き」を考えている。そこで、困ったときに3本柱のどこにアプローチすればよいのか、戦略を立てるとよいのではないかと思った。そして、3本柱それぞれに、「手だてリスト」をつくっておくといいのでは、と考えた。

 状況   話を聞かない
      勝手なことをする子が多い
      時間を守らない など 
 アプローチ:ルールづくり
          手だて:ルールの確認、勇気づけの言葉かけ、クラス会議 

 状況   乱暴な言葉が飛び交う
      一部の子だけが生き生きとしている
      グループづくりが円滑にできない など 
 アプローチ:リレーション
          手だて:SGE、SST

 状況   あいさつができない
      発言が少ない
      清掃をさぼる など
 アプローチ:自分磨き
          手だて:個人ミッションの作成、活動の意味を考える

 状況はその時の現在地である。その状態を哲学をベースに立てた目標の姿にもっていくために、方法を選択する。その方法選択の視点をぼんやり考えてみたのである。
 もちろん状況によっては「ルール」と「リレーション」、「リレーション」と「自分磨き」または3つの要素全てに、というように複数の要素が絡むことも多いと思う。ただ、その状況にあっても、まず最初の手を打たなければならない。そのとっかかりとして、例えば「ルール」のための手だてリストから、解決のための方法として手だてを選んで取り組んでみたらいいのではないか、と考えたのである。

 ふと、思いついただけなのでまだリストもなにもない。

学級づくりの3本柱もこれでいいのか学び途中である。
まだまだ哲学を形作っている段階。今できることだから。
ただ、哲学という根本を太くしていくと共に、やっぱり手法や技術を豊かにすることも大切だと感じている。といいつつ、その手法を選び取る理由「なぜ」は哲学なわけであり。。根本を重点に学びつつ、できるだけ同時進行でいきたい。

 また、今日は教師と子どもの信頼関係をつくってから、子ども同士の関係を作っていくのでは遅い。信頼関係の完成を待っていたら回り道だと学んだ。同時にやっていくものである。
 ただ、教師と児童の信頼関係づくりが一歩分先で、それでもって双方を作り上げ深めていくというイメージで私はいる。




キーワード

2009年03月18日 | Weblog
 学んでいくといろんなキーワードが出てくる。
 今日、ハッとさせられたのは
 「全体の奉仕者」というキーワード。

 全体の奉仕者であるから公共の福祉を追求する。
 それが国家の利益につながる。

 その使命を負った立場であること。

 だから、共同体の不利益になることに対しては、こだわりをもって対処すべきなのである。

 これは大きな目的意識に立った基本の視点。
 でも、見えていなかった視点である。
 ちょっとした「アハ体験」
 
 「ほめる」「叱る」の話題で話しているときに出てきた気がする。
 基準を持ってブレのない指導をしなければならない。
 「ほめる」「叱る」の是非の問題もあるが、「全体の奉仕者」という
 大前提に立って考えてみるとまた違ってくる。

 まだまだ学びを積み重ねたい。 

自己開示

2009年03月18日 | Weblog
 今日の学習会で自己開示をしてくれたメンバーがいた。
 自分の悲しい過去の出来事を読んだ本の内容と共にレポートにしてくれた。
 チームのメンバーを信じてくれているからこそ。
 何も言えなかったけれど、ちゃんと仲間として受け止めたいと思った。

 自己開示をすることは本気でぶつかるということ。
 裸の心。
 周りの言葉にこれまでさんざん傷つけられただろう。
 それによって何かが解消されるかというとそうではない。
 過去は変えられない。
 
 
 本人がそれをできたことをきっかけに一歩踏み出す。
 開示したことでもう踏み出している。
 その人にしか語れないこと伝えられないことがある。
 弱さは強さだ。
 本気の武器になる。

 人は人生がひっくり返るような嵐にあって初めていろいろなことに気づかされる。
 親の大切さ、自分の健康、大事な人の存在、平和。。
 失って、また危うくなって初めて大切さに気づく。
 そして、そこから強さを発揮する人は多い。
 ハンデを負った人の車いす競技、筆を口にくわえての絵画、盲目のピアニスト。。
 目覚めているからなのだと思う。
 他の人にはわからないことに気づけているからである。
 
 ありきたりの満たされた生活におぼれている自分。
 大きな嵐にあった子どもに何ができるだろう。何が言えるだろう。
 できることは小さなこと。
 でもできることがあるはず。
 弱さの武器がないなりに、気づくことができるはず。
 人生に大切な「原則」にしたがって生きること。
 自分の人生を自分で決めて歩んでいくこと。

 自己開示できる勇気。
 見えなかったものに気づいて一歩踏み出す勇気。
 
 本気でぶつかることのできる教師でありたい。
 
 
 

衝撃の学び in奈良

2009年03月15日 | Weblog
 衝撃の学びは奈良のT先生の学級参観が舞台である。
 
 うちの師匠とT先生のつながりから今回の奈良学びツアーが実現した。
 授業参観ではない、学級まるごと参観である。
 我々のために朝から下校までを全公開である。
 しかもこの年度末のとんでもない忙しい時期にである。
 T先生は公開できないことは、してはならないと言う。
 容易にできることではない。
 
 「つながる感覚をもった、自立した人間」を育てたいと考えている自分にとって正に衝撃であった。参観の前の日に奈良入りし、東大寺に大仏を見に行ったのだが、大仏の大きさを目の前にした以上の衝撃が身体に走ったのである。

 私が目標としてイメージしていた以上の学級像、児童像の具体的な生の姿が、そこには当たり前のようにあった。児童一人ひとりに居場所があり、笑顔があふれ、学びのない時間のない。子ども一人一人が自分を磨く意識を持っている。その時その時何をすべきか自分で判断し行動するのである。先生は子どもに多くを任せ、修正が必要な点については、短くビシッと指導し自分を振り返らせて考えさせる。

 挨拶。一人一人がその日の自分のやる気を教室に響く声で表明。とにかく全員の声が大きくはっきりしている。続いて全員が学級の中心を向き、代表児童の「おはようございます!」に続いて「おはようございます!!」今日一日つながって学ぶ仲間への尊敬の気持ちを込めたあいさつである。次に前を向いて先生に同じように代表に続き、全員であいさつ「おはようございます!!」ここまで一切先生の指示はない。ルールと意識が徹底、浸透している。息をのむ光景であった。

 授業。意見を言う場面で児童みんなが起立。指名された児童がまず意見を言うと、同じ意見の児童は着席。言い終わったタイミングで次の児童が発言。そして次々に児童が意見を発表していく。瞬間瞬間が学びの時間。意見を持たない考えないと言うことはその時間を無駄に過ごしたということ。聞き手の方へ身体を向けて発言すること、発言者の方へ関心を向けて聴く・メモすることで仲間を認め大切にすること、発言し聴いて学ぶこと、価値観全てが児童のものになっている。
 それだけではない。先生の脱線に笑い転げ大いに盛り上がる児童達。その脱線はまさに芸人芸。そして、「切り替え」の一言でグッと集中し直し緊張感を再び取り戻す子ども達。驚きで見ている側には言葉もない。
 先生のもっている情報量、知識、技能、手法が半端ないので、授業が知的であり学びが子どもにとっておもしろいのである。児童が自らを鍛えながら楽しく学ぶ授業が展開されていた。

 給食。なんとこの学級に給食当番はない。「当番活動はやるべき仕事を一人一人が分担してやるべきこと」という概念をぶっ壊している。社会に出てみんなで食事をするとき割り振られなければ働けないなんておかしい、という実生活と結びつけたレベルの高い指導なのである。もちろん自主的に動く児童達。また、誰が何をするかと言うことでもめることもなくすばやくみんなが食べられるように全員が意識して進めていた。実にテキパキとしていてすばやい。
 また、給食を目の前にして何が見えるかと聞かれた児童は「お米を作ってくれた農家の人達」「牛さん」「野菜とつくってくれた人」「おぼんなどの食器を機械でつくってくれた人」「給食を作ってくれた方」と発言しその方々や動物や穀物野菜に向けて人生最高の「いただきます!」を発して食べ始めるのであった。

 休み時間。校庭で本気の笑顔で先生と遊ぶ遊ぶ。子ども達は先生が大好きなのである。

 清掃。時間になった瞬間から一人一人が活動を始める。黙って清掃をすることで自分を磨いている。清掃をすることが児童にとって「得」なのである。すべてが学びの時。自然に協力しててきぱきと清掃活動が進んだ。しかも驚くべきことに教師の指示はない中、隅のホコリまで許さない。当たり前のこととして活動している。恐るべしである。

 児童をこのレベルに成長することは並大抵のことではない。まして一朝一夕でできることではない。哲学をもった徹底した教育実践の積み重ねの結果なのである。さらにT先生は「情けない。まだまだ。」と語る。こだわりに関しては自分にも子どもにも甘えが一切ない。

 自分はそのままをやるのではない。(とても真似できたものではないが)
 学んだことを生かし、何が大切なのか、どうすべきなのか、なぜそうなのかを自分で考え自分の哲学を持ち自分の方法で実践するのである。その哲学を形づくっていく上での最上のイメージを見させていただいたと思っている。
 すごかった。
 その後の飲み会でもすごかった。
 
 とにかくお腹いっぱいである。



対話を考える

2009年03月08日 | Weblog
 この週末は読書とswimmingで過ごした。
ちょっと息切れ気味で、気分転換が必要だと感じたのでのんびりした。
コーヒー飲み過ぎです。

中島義道『〈対話〉のない社会』(1997)PHP新書
北川達夫×平田オリザ『ニッポンには対話がない』(2008)三省堂

沈黙する学生たち。
日本には〈対話〉がない。
日本は対話の教育をしてきていない。だからうまくできない。
人と意見をぶつけ合うことを避ける国民性である。
優しさ・思いやりが前面に出て、言葉が圧殺されている。

中島「私は、言葉を〈対話〉を圧殺するこの国の文化にあと数パーセント西洋的な言語観を採用すれば、もっと風通しのよい社会が、弱者が泣き寝入りすることのない社会が、個人が自律しみずからの責任を引き受ける社会が実現するのになあ、と思うだけなのだ。」
いきなり社会をガラリと変えることは難しいだろう。確かに自分も対話ができていないように思う。

「対立や選択による痛みを通過して生まれる対話の場には、ほんとうのやさしさがある」『ニッポンには対話がない』
言葉の持つ力、光と影、そして発した言葉に責任をもつ姿勢を子どもたちに伝えていかなければならないのだと思う。

 人の意見に対して自分が少しでも違う考えがあるのならそれを言えるようにしたい。それがその場に対話を生む。言わないことは、直接文句を言って当人を傷つけなくても、対話を生み出さないという意味では集団に対する加害者となっている。新しい視点であった。
 対話のある教室をつくっていくのは難しい。まずは温かなコミュニケーションによる人間関係づくりであろう。対話はその先にある、レベルの高い段階だと思う。温かな関係ができていなければ対話ではなく侵害的な言葉の暴力の飛び交う教室になるだけだ。
 教室における対話はどうあるべきなのか。そのイメージをもたなければならない。そして意味を子どもと分かち合い、スキルを共有し、行動に移していく。Win-Winの対話ができるよう場を設定し、経験を積ませていくことが大事だと思う。実現はかなりハードルが高いなぁ。。でも、理想・目的地を思い描かなければ高いところには到達できないもんな。具体化する方法も考えていきたい。

 そして、自分が対話のできる日本人にならなくては。
しかし、対話が苦手という意味では日本人の中の日本人だ。胸を張れる。
自分になかなかできないことを子どもに「ホレ、やれ。」と簡単に言えない。
だから難しさはちゃんと理解しておかないと子どもたちを追い詰めてしまう。
一歩一歩だ。
アサーティヴなコミュニケーションを心がけ、少しでも対話ができるよう、機会をみて試みていきたい。



アウェイで学習

2009年03月05日 | Weblog
 自分にとって居心地がよい場所での活動だけで満足していた感がある。
 7つの習慣に「快適ゾーン」で過ごしているだけではなく「勇気ゾーン」に飛び出すことが自分の可能性を広げる。とあった。
また、「打たないシュートは100%入らない」
 「リスクのない人生があらゆるリスクの中でも最大のリスクなのです。」 
という言葉も心に残っている。
 これまでの自分に足りない部分であった。
 居心地の悪さを避けていた。
 ホームで勝つのはいわば当たり前。アドヴァンテージもある。
 ホームでもアウェイでも勝負できなくてはホンモノとは言えない。
 自分を変えることは簡単なことではないが、自分にとって何が大切かを考え、新しい習慣を身に付けなくてはいけないと思っている。

 今日は午後、普段関わることのない修士課程のゼミに参加してきた。
師匠がどうですか、とブログで参加を呼びかけてくれたのを読んだため。

 「学級経営」がメインテーマであったが、話題は小中連携、教師個人の哲学と教師集団としての哲学、職員室の情緒的つながりと対話など多岐にわたった。
 しかも机上の空論、きれいごとの羅列ではない、「現場」が意識されたリアルな話し合いだった。困難な現状をふまえた意見交換だったように思う。

 自分で本を読んで学ぶことも大事。
 こうやっていわば「アウェイ」の場に出かけていって意見交換することもとてもよい学びになることを痛感。また、狭く縮こまっていた自分の視野が広がるのも感じた。

 しかし、ああいった場面で意見を求められたとき、満足な発言ができない。
それは自分の発言に自信がないからだと自己分析。
自分の情報量が絶対的に少ないこと、自分の意見の理論的裏付けの弱さの自覚が奥底にあるからだと思う。
知識と情報のインプットをすること。そして意見を語るアウトプットの経験を積み重ねることで少しでも自分で納得できる発言ができるようになりたい。



花粉日和

2009年03月05日 | Weblog
いい天気。春だ。。
柔らかな日差しのもと昼寝でもしたい。
しかし、そんなことをしたら大変。
ああ、花粉症さえなかりせば春は心穏やかに過ごせただろうに。。
今年も桜が早く咲きそうである。
全国の桜祭りやお花見はどうなってしまうのか。。葉桜祭りになる。


 『強育論』宮本哲也 携書Discover(2008)を読んだ。

 中学校受験界のカリスマ塾講師、宮本氏の教育論「強育論」は力強かった。
自分の信念のもと、結果を出している方の言葉には重みがある。
 

 東京の中学受験の実情などほとんど知らない私にとっては、それを垣間見ることができただけでも勉強になった。学校より塾で勉強、公立よりも私立といった流れがある。都内ではそれが顕著であろう。
 では、それでよしといして、または仕方ないとして公立の学校は何もしないのか。「学校」の果たす役割とは。。様々な問題を抱えて今後日本の教育はどうなっていくのだろう。。自分にできることは。。そんなことを考えながら読んだ。

 宮本氏の指導は塾での指導であって、学校にそのまま持ち込めないものもある。しかし、「睡眠、食事、運動が最優先で、学習は四番目でなければならないし、そうしなければ学習もうまくいかない。」(p45)という基本的な生活習慣を大切にする考え方や、子どもの「自立」を重視しているところ、学習場面で甘やかさずじっくり自分で考えさせる指導方法などは参考になる点が多い。

 自分の考えにひっかかったものよいなと感じたモノは参考にしたい。
鵜呑みにするのではなく、なぜよいと思ったのかをはっきりさせ、ひっかかりを自分の哲学と関連させどう生かすのかを考えたい。


March

2009年03月01日 | Weblog
 3月になった。早い。
 この間正月で酔っぱらったところなのに。。と、去年もこんなこと思ったな。
 2月は「逃げる」3月は「去る」なんてうまいこと言う。
 ほんと1年あっという間。
 どう過ごすかは自分が決める。
 
 インフルエンザは回避できたが、花粉は避けられずくしゃみ連発。。
 例年に比べ飛散量は少なめということを聞いたけれど、本当か。。
 量が少なくても今年は発症が早いからな。。
 体調管理をちゃんとしたい。


池田修『教師になるということ』ひまわり社(2007)

 教師を目指す人、また教師になって間もない人を対象に書かれた、わかりやすくそして楽しく教師の仕事や教育について学べる書。それを自分が読んでいるのが少し恥ずかしいが、今はがむしゃらに学ぶときだ。

 とても勉強になった。池田先生の哲学があふれている。自分は「教育とは」「教師とは」「学力とは」と、問われたとき、先生のようにズバリこうだ、とわかりやすく自分の言葉で語ることができない。

 命を守ることを土台にして、心と体と学力を児童・生徒の身に付けさせる。このことで、人間的な成長を促し、生きていくための基礎体力をつけさせることが、学校教育の役割です。そこで中心になって指導をしていく役割を担うのが、教師という仕事だと私は考えています。(pp19-20)

 教育はビジネスではありません。人格の完成を目指して丁寧に行うものです。また、人類のいままでの営みを受け継ぎ、これからの社会をより良くすることを目指して、人類に貢献できる力を付けるために行われる公的な使命を持った営みなのです。(p21)

 子どもが好きだから教師になるというのは、ま、正しいのでしょうけど、それだけでは駄目なような気もしています。子どもが好きな教師は、子どもを子どものままにしてしまいがちです。子どものよさを受け入れつつ、子どもを大人に育てる仕事に就きたいと思える教師になるのがいいのではないでしょうか。(p63)

 もし、私が、学力を定義するならば、「人格を完成の方向に導く力」「いまの社会を良くすることができる力」としたいのです。/私たちはいろいろなものを受け取ってきました。悪いものを取り除き、良いものを受け取り、私たちの世代で少し良いものを増やし、次の世代の子どもたちに伝えて行く。それが教育を担う教師の仕事なのだと思うのです。(p181-182)


その通りだな、と思うことが多く頷きながらあっという間に読み終わってしまった。何度も読み直したい本である。自分の哲学を形作る上で重要な1冊となった。