教師☆学校心理士のセルフカウンセリングルーム

学校心理士によるつぶやき。教師の悩み・試行錯誤に寄り添うブログです。

体罰

2009年05月30日 | Weblog
今日は暑かった!
そして空は青く気持ちがよかったなぁ。。

先日たまたま見たTV番組で体罰に関する内容が放送されていた。
コメンテーターの中には「愛のある体罰」は行われるべきという人もおり、VTRには体罰は必要と訴える塾の方、賛成する保護者の方のコメントも流された。
また、視聴者アンケートでは「体罰がないことへの怒り」が「わかる」という数が「わからない」という数より圧倒的に多かった。

衝撃的な内容である。まともに受けとめてしまってはまずい風潮が生まれかねない。マスコミの影響は大きいのだ。

若者の規範意識の低下を感じている世間の方の「しつけ」や「教育」への目が厳しくなっているということなのだろうか。しかし、体罰容認の世の中になって本当によいのだろうか。

学校での体罰は以下の通り法律で禁止されている。
「学校教育法第11条
 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」
法律で禁止されていようとそうでなかろうと「罰」ましてや「体罰」は教育の手段としてあってはならない。家庭のしつけでも同様だと私は考える。

それはなぜか。

暴力で物事を解決することを正しいこととして学んでしまうからである。
体罰で行動を変えるよう教えられた子どもは何を学ぶのか。
行動を変えるには体罰、すなわち言うことを聞かないものには暴力をもって解決すればよいということを学ぶ。子どもは友達同士でもその解決方法を用いるだろう。兄弟の関係でもその解決方法を正しいこととして用いるだろう。そして、その子が大きくなったら当然のこととして自分の子どもにも同じようにするだろう。そういう世の中になっていく。

また、体罰があるから不適切な行動をしない子は、体罰がなくなった場面ではどうするか。行動の動機は体罰の恐怖から逃れることだ。ぶたれるのがいやだから、殴られたくないから不適切な行動をしないのだ。体罰があるときだけ言うことを聞くようになる。子どもが小さいときはいいだろう。大きくなってきたらどうなるのか。


今も昔も子どもの長期的な成長を考えたとき「罰」「体罰」は教育の相応しい方法ではないと確信している。

ワンフレーズ

2009年05月26日 | Weblog
 金曜日は、地元の小学校の先生方を相手に水泳実技の講習会。
 初の講師体験であった。
 専門家に何度も相談して準備を進め、なんとかやりきった。
 だから内容は私のオリジナルではないのだけれど。。
 経験とミックスさせてお伝えして実際に動いていただいた。
 
 小心者の私はお話をいただいてからずっと緊張してた気がする。。

 やはり説明は短く簡潔にしなければならない。どうしても長くなる。
 これもプレゼンの実力。わかりやすくワンフレーズでずばっと言えるようにしたい。
 実によい勉強をさせていただいた。ありがたい。

 ワンフレーズといえば。。。
 ゼミ学習会で「君の学級では子どもは何を身に付けるのか、ワンフレーズで答えよ」と問われた。過去の学級経営案を持ち寄って話している中でのこと。私の経営案は「コレ」というものがない(そう、哲学がない) そこで、問われた。その時であっても現時点であってもよいから答えよ、と。

 難しかった。
 他の先生方は「思いやり」や「リーダーシップ」といったもの。
 私はワンフレーズで言えるほどまとまっておらず、おどおどしてしまった。ただ、そういった自分を把握することができてよかった。
 そのとき「貢献」と答えたが、ここで更新する。
 「2R(Rspect&Rsponsibility)」つまり「尊敬と責任」である。
ワンフレーズではないのかもしれないが、この2つをまず身に付けさせる。これを成長させていくと「貢献」も身についていくと思う。大きなミッションはその先にある。

「共同体の仲間と尊敬し合うこと」「自分の課題自分たちの課題に責任をもつこと」これを身に付けることのできる学級をまずは目指そうと思う。


 まだまだ学び足りないということです。
 日々勉強なり。

作戦会議

2009年05月19日 | Weblog
 今日は実に気持ちのいい天気だった。
 久しぶりに布団を干してみた。寝るのが楽しみである。

 夜、薬局に行ったらマスクが売り切れとのこと。
 新型インフルエンザの影響がここまできているのか~、と驚いた。
 マスクほしかったけれど、ウィルスは弱毒性とのこと。
 あわてずに冷静な判断と行動をしたいと思った。
 

 子ども達に自分たちの活動を振り返らせ、課題を次に生かせるようにしたい。
どうしたらよいか。

 教師が「ここがよくなかった。次はこうしなさい。」というのは簡単。子どもの中には同じことに気付き反省点として考えていた子もいるかもしれないが、こうすることで、それは教師から与えられた課題になる。子どもの活動の責任は子どもにある。子どもに学ばせたい。
 
 だから、課題を自分たちで出し合って、それを次に改善するようにしたい。そうすればそれは子どもたちの考えた自分たちの課題だ。

 ただ、課題を出し合う際、欠点あげつらい大会、ダメな人探しになっては相互尊敬の学びにならない。特に話し合い活動に慣れていないクラスではマイナスの効果しか生まないかもしれない。

 ではどうするか。みんなの作戦会議にする。できなかったところ、ダメなところを次々に出していくのではなく、「どうすれば改善するのか」を出し合う。よくできたと思うか、あまりよくできなかったと思うかを聞き、全員に意思表示をしてもらう。そして、よくできなかったという意見が大半であれば、改善する必要があるということがみんなに共通理解される。そこで、改善するための作戦を出し合う作戦会議の話し合いを進める。そうすれば、個人名をあげられてイヤな思いをする子はでないし、否定的な意見ばかりでクラスが覆われるはない。前向きな目的思考の話し合いがなされると思う。よくできなかったという意見が少数出会った場合、その理由を聞き、それがみんなで話し合う問題かどうか、それを解決するかどうか、どう解決するかを話し合えばよい。

 もちろん、学級それぞれにカラーと特徴がある。課題を出し合う話し合いがうまくいく学級、その方が子どもが伸びる学級、その他の手法がしっくりくる学級もあるだろう。当然それはそれで認められるものだ。子どもの学びと成長を目的としているところはどうちらにしろ揺るぎない。

これは「相互尊敬・認め合い・協力原理の学級づくり」という根本の考えの上に出てきたちょっとした心がけ、枝葉である。

いのちの教育

2009年05月16日 | Weblog
 暑くなったり涼しくなったり気まぐれな天気が続く。。
いい天気の日には、ちょっと遠出したくなるなぁ。。

 近藤卓『死んだ金魚をトイレに流すな』(集英社新書 2009)
びっくりするようなタイトルであるが、「いのちの教育」の本である。
飼っていた金魚が死んでしまった後、どうするか、という問いに対して、庭の土に埋めてあげると答える人が大半であるという。だが、中には集合住宅住まいで庭など無く、「トイレに流す」と答える人がいるのだそうだ。そこから引いてのこのタイトルである。それを見る子どもは何を学ぶのだろう。
 自殺の増加、無差別な殺人事件、傷害事件などが報道を通して、日々耳に入る。命が大切にされない世の中になっていってしまっている傾向はあると思う。

 自分の命、そして他者の命、自分を取り巻く動植物の命、「命」を大切にする教育が大切なのは言うまでもない。学校教育への社会からの要請も強いと言える。

筆者は10~12歳くらいの「いのちの体験」が重要であると言う。
「いのちの体験」とは「人間はなぜ死ぬのか」「いつか自分の死んでいくのか」という疑問にぶつかり恐怖と不思議さが頭から離れなくなるような体験のことである。どこにも答えのないこの恐怖、不思議さ、挫折感をだれかと共有することができるかできないかで、その後の「いのち」の捉え方に大きな差が出るのだという。
こうした恐怖を感じているのは自分だけではないんだ、と感じることができたとき、それを一端棚上げして自分の生活に戻っていくことができるのだそうである。
ここからも子どもにとって、両親の存在がいかに大きいかを感じる。子どもを無条件で受けとめ、感情を共有してくれる両親の存在は何物にも代え難いものだと改めて思う。
その子どもにとって最も大事な両親とのかかわりが十分である子どもも不十分である子どもも学校にはやってくる。学校でも10~12歳の子ども達と、もちろん実態をよくみた上でであるが、「いのちの体験」の共有をしてあげたい。ただ、いのちは大切だ、大事にしようと道徳の授業で言っただけでは子どもの心の底には届かないのだと思う。「先生も同じように恐くなったよ。」と言ってあげたい。そして答えのでない問いをいっしょになって考えてそれでも生きていくっていいね、という気持ちを共有したい。
また、「いのちの教育」は特別な1時間の授業、打ち上げ花火で終わるものではないと考える。もし「いのちの教育」を実践しようと思うなら、すべての教育活動で行っていくのだと思う。「生きていることを喜びに思う」「自分を大切に思う」「友だちと認め合う」みんな「いのちの教育」だ。教師の「いのちの教育」をしようという意識が、学校生活の全てにおいて徹底されればいいのだと思う。日常の小さな働きかけと「いのち」を考える道徳授業の実践、それを積み重ねていくことで子どもはいのちの大切さをわかりそしていのちを大切にする生き方を身につけていくのだと思う。

 「いのちの教育」なんて当然大切だ、と思ってはいたが、どうするか何が重要なのかまで深く考えたことはなかった。これからも考え続けていかなければならないことだとも思う。そのきっかけを与えてくれた学習会とこの本に感謝したい。

なぜなぜ①

2009年05月16日 | Weblog
 授業中、発言している子どもの方へ、聞き手である他の子どもが顔を向けて(できるようであればへそも向けて)聞くようにしたい。もちろんただ顔を向けるだけでなく、話の内容を聞いて理解し、自分の考えと照らし合わせて聞けるようにしたい。そして求められたら感想を自分の意見を言えるようにしたい。質問もできるようにしたい。

 なぜ「話をしている人の方を向くのか」
人間は社会的生き物で一人では生きていけない。人と関わりながら生きていく。
そのかかわり、つながりで大切なのは同じ共同体の人を尊敬すること。大切にすること。それは自分を大切にすることでもある。
 つまり、話をしている共同体の仲間に尊敬の気持ちをもってそれを表し、そして自分を大切にするためである。

みんなが大切にされている共同体ではひとりひとりの違いが輝き、創造的な力が発揮されると考えている。

お仕事

2009年05月13日 | Weblog
 先日の「学級集団心理学特論」の授業で聞いた言葉「教師が子どもを変えるのではない。子どもは自分で変わる。教師はその環境をつくってあげるのが仕事」

 では、教師がつくる環境とはどんなことをさすのか。
まず、教室や学習用具、設備などの環境の整備はまずあげられる。
次によく言われることであるが、教師そのものが環境である。子どもは教師の一挙手一投足、表情をよくみている。教師の言葉をよく聞いている。つまり、教師の言語的、非言語的行いが子どもにとって大きな影響を与える環境になっている。
そして、授業デザインによる環境づくりがあげられる。子どもが自ら変わることができるよう、学習形態や教材、活動、など学びをデザインするのも環境と言える。

 子どもたちが自分たちで関わり合って学ぶ学びのスタイルが注目されている。教師は授業の目標を示したら、授業の主導権を子どもに委譲するのである。

 私もそういった学びができる集団を目指したいと思っている。教師の顔色を見て正解を言おうとするのではない、クラスの仲間に関心をもち、自分たちで高め合うことのできる集団である。

 どういった集団ならそれができるのか。それは相互尊敬、相互信頼のある学級だと思う。協力原理の上に立った、お互いに存在を尊敬し、認め合う学級である。または、その価値観を共有している集団であれば、学級集団をつくりながら実施していくことも可能だと思う。では、その価値観、または「7つの習慣」で重要な概念となっている、原則中心の生き方、道徳、人間関係におけるルールはどう学ぶのか。そこには教師の指導が入るのではないだろうか。

 子どもは自ら変わる力を持っているし、お互いによい刺激を与え合い学んでいくことができるだろう。そして、小学校入学までに家庭によって、生きていくうえで、人間関係で大切なこと、してはいけないことなどをしつけられ、身につけてきているであろう。それを子ども達が自分たちで自覚しながら、軌道修正しながら学んでいくことができるのであれば最初から教師のガイダンスは必要ないのだろう。しかし、それは可能なのか。
 
 地域や家庭での教育力の低下の問題に加え、私はテレビやインターネット、雑誌など様々なメディアからの刺激に子どもは日夜晒されていることを無視してはいけないと思う。受動的な強い刺激に対して子どもの脳は思考停止になってしまうというし、毎日、テレビが送り届ける、価値観に教育されているといってもいい。もはや避けることのできないそんな生活環境にある現代社会下にあって、子どもは原則中心の生き方、相互尊敬、相互信頼の人間関係づくりを自らを律しながら友だちと律し合いながらつくりあげていくことができるのか。
 また、教科の関わり合い学習であれば、塾に通っている子どもが小さな先生になることができ、成立することはわかる。では、人間関係について生き方についての塾に行っている子どもは果たしているのか。

 私は、教師の適切なガイダンス、フィードバック、フォローが行われるべきであると考える。児童、学級の成長につれ、関わり合いの学びにシフトしていくことは取り入れたいと思う。
 社会学者エミール・デュルケムのことばを引用する。
「社会の道徳観が十分なら法律は要らない。不十分であれば法律を作っても意味がない。」
学級で考えれば
「学級における価値観が十分に共有されていればルールは要らない。不十分ならルールを作っても意味がない。」ということになるだろう。
お互いを認め合うという、価値観を理解、共有できていない集団で、ルールもなければどうなるのであろうか。教師の介入なしに関わり合いの学びができる集団は、大事なことが理解されている集団なのだと思う。
 学級活動での価値観を共有する授業、スキルトレーニングやSGEを取り入れた授業が必要と考えるならそれもいい。また、そういった特別な授業ではなく、日々の授業実践の中で「思いやり」や「仲間への関心」「感謝」の学びを積み重ねるのもいい。ただ、社会の形成者として成長していく上で大事なことを教師のガイダンスによって学ぶことは必要なのではないだろうか。

 「教師が不要になるの状態が理想だ。」という言葉は心の中にしっかり持っている。不要になる状態にするために仕事をしなくてはならないと思っている。


  

そもそも②

2009年05月13日 | Weblog
 そもそも学級づくりをなぜするのか。なぜする必要があるのか。 

 学級づくりを「居場所づくり」だと考える。
マズローの欲求階層説によると、人間はまず生理的な欲求の充足を求め、次に安全・安定を求める。そして所属を求めさらに、承認を求める。その上で、自己実現への欲求、なりたい自分への意識と意欲とが高まるという。
つまり、居場所がなければ自分を高みにもっていこうと学ぶ気持ちはなかなか出てこないのだ。
「居場所づくり」は「所属」と「承認」の欲求の充足を目指すものである。それを土台として子どもは自分の目標に向けて失敗をおそれず学びを積み重ねられるのだと思う。一人一人に居場所がある学級、つながりのある学級は「相互尊敬」「相互信頼」のある教室だと捉えている。
しかし、「居場所づくり」をしたらそれでおしまいではない。自分たちで高め合う自治的な民主主義集団をつくり、共同体感覚を育むことが学級づくりの一歩ステップアップした目的だと考える。

 人間は社会的な生き物であり、一人では生きていくことができない。共同体感覚を育み、社会の一員として民主主義社会をよりよいものにしていくことに貢献できるような人間を育てたい。そんなことを学ぶことができる環境をつくるのが学級づくりだと考えている。 

教育カウンセリング

2009年05月12日 | Weblog
 今日は午後から曇ってきて今はどんよりだけど、昨日に引き続き暑い。
午前中は半袖でした。夏がくる~
花粉の季節はようやく過ぎ去ったようでマスクなしの生活になりました。
いや、でも新型インフルエンザの流行の仕方によってはまたマスク生活かも。。


『学校教育相談』の授業で、「教育カウンセリング」(学校カウンセリング)について学ぶ。
教育カウンセリングの基本的な考え方は、児童個人への対応はもちろん、学級づくりにも非常に有効であると思う。授業では以下のようなポイントを学んだ。
 ・受容と共感が基本姿勢
  「先入観をもたず、評価せず、比較せず、価値観を押しつけずに受け入れる」  という受容の姿勢と「相手の心のフレームにそって物事を見ること」を基本姿  勢とする
 ・ガイダンス機能(介入する)を取り入れる
  ただ受容し共感するだけではなく、情報や考え方を提供していく
 ・現状のアセスメント、目標の設定、目標を目指すストーリーの構成という発達  モデルを採用する(治療ではなく育てることに主眼)
 ・個別対応だけでなく、集団活動を重視する。
 ・圧力をかけて話させない。
 ・子どもの問題は親、教師の問題ではない。
     代わって解決することはできない・してはいけない。
 ・原因論に立った治療ではなく、「どうすればよいか」目的論に立つ。
 ・支持(よいしょ)・保証(やればできる)をあたえることではない。

なるほど、そうだな、と思いつつ、どれも、どこかで聞いたような気がするのである。そう「アドラー心理学」の考え方と重なるところが実に多かったのである。また、「7つの習慣」の内容との関連していると思った。

 アドラー心理学の「勇気づけ」「共同体感覚」「相互尊敬」「相互信頼」「目的論」「責任」などの考えがやはり、子どもの教育において重要であり、また有効であることを改めて感じた。また、教育カウンセリングの技術を学ぶことは、目的地にもっていく方法としてのツールを豊かにする意味でも自分にとって大切だと思う。

 教育実践として授業、テキストで取り上げられているのは「ピア・サポート」である。教師一人が30人もいる子ども一人一人に対して関わるには限界がある。それよりも仲間同士でカウンセリングの基本姿勢を身につけて、協力し学び合った方が効果が大きいという発想である。子どもの自治的能力も高められるだろうし、その考えに賛成である。ピア・サポートそのものの取り組みではなくても、「協力原理」の教室をつくることは重要だと思っている。


 まだまだだが、大事なことが少しずつ見えてきた気がする。
もっともっと学びを重ねたいと思う。
そして、今のままでは方法のレベルがあまりにも貧弱である。
理論や考えだけでは実践できない。
根本を太く太くしつつ、枝葉の方法についても情報を集め、現場で実践できるように準備していかなければならないと思っている。

まだ根本の学びの段階であると思うけれど。。


 

尊敬する姿勢

2009年05月08日 | Weblog
 連休が明けたと思ったら、週末♪
エンジンがなかなかかからない生活に。。 
甘えず自分に厳しくいきたいものです。
今日はいい天気。長袖じゃ暑いくらいです。


『「話を聞ける子」が育つ魔法のひと言』 星一郎 (青春出版社 2008)

 子育て真っ最中のお母さん向けの書である。
アドラー心理学に基づく話の聞き方、言葉のかけ方がわかりやすく具体例とともに書かれている。対象はお母さんであっても、アドラー心理学に基づく子どもへの働きかけを学ぶという点では教師にとっても、大変参考になる。「魔法の言葉」そのものを追試するだけでなく、アドラー心理学の考え方を自分のものとしたい。

大切なのは、子どもを一人の人間として尊敬すること。子どもに自ら考えさせて選択させること。選択したことには責任をとらせること。
横の関係で関わること。命令したり、物事を決め付けて押しつけるのではなく、質問する形で考えさせる、Iメッセージで言葉をかける。ルールを一緒に決め、一緒に守る。
改めて学んだ。

子どもに対して、上から見下ろして関わるのではない。
大人に対してしないことは子どもに対してもしないということが基本だと思う。
そういった根本の考え方・哲学を押さえた上で、子どもがやる気を出すような、話を聞けるようになるような言葉のかけ方や聞き方などの枝葉の技術を参考にすべきだと思う。

「「にっこり笑って、ばっさり」方式でいけば、怒らずにすみ、子育てはぐんとラクになります」(p.67)
「にっこり笑ってばっさり」方式とはダメなものはダメ。子どものわがままに対して笑顔で徹底して譲らないやり方である。その場から離れるのも有効だとある。「ちょっとだけ」や「じゃ、あと一回」、「しょうがないな。。」では、ごねれば要求が通ることを子どもは学ぶ。なぜダメなのか、意味を学んだ上で、また、ルールを自分たちで決めさせた上で、笑顔で頑として徹底したいものである。

「何でも親がガードしていると、転んでも起き上がる方法を自分で学ぶチャンスを失います。すると、ちょっとしたことでつまずいたり、傷つきやすくなります。/いたずらに杖を差し出すことと、かわいがるのとでは大きな違いがあるのです。/そこで、親自身が子どもに「聞く」必要があるのです。何か手助けしてあげたいときは、子どもに、「してほしいかい?」と聞いてみてください。」(p.139)
失敗から学ぶ機会をしっかり用意すること。自然の結末からの学びの機会の保証が大事である。命に関わる重大な危険は杖を差し出してガードする必要はもちろんある。だが、なんでもかんでも先回りして、子どもが学ぶ機会を奪ってはいけない。その際のフォローも教師にとっては大事に仕事だと思う。また、教室が安心して失敗できる場になっていなければならないだろう。
「私はこう思うけれど、どう思う?」と、子どもに問い、子どもに考えさせて選択させる。そしてその行動の責任を自分できっちりとらせる。
失敗したら「なぜ?」で問い詰めるのではなく、「どうしたらよかったと思う?」「失敗しないようにどうしたらいいと思う?」と子どもに問い、自分で解決方法を考えさせる。学級の問題であれば学級全体に問い、解決方法を考えみんなでルールづくりをする。

大切なのは大人が「正しい」「当たり前」を一方的に決め、押しつけないこと。
子どもに考えさせ、選択の余地を与え、責任を学ばせたい。
それは共同体感覚の育成につながる。
「尊敬」というキーワードを常に意識し、個々への働きかけ、学級への働きかけ、学級づくりを揺るがない哲学のもと積み重ねたいと思う。


GW♪

2009年05月02日 | Weblog
 新年度が始まったと思ったらもうGW。
なんとまぁ、時間の流れが早いこと。。
ただ、ここで一息つきなさいよ、ってことなのかもしれませんな。


『回復力 失敗からの復活』畑村洋太郎 (講談社現代新書 2009)
『失敗学』に続き、畑村さんの著書を読んだ。『失敗学』では失敗に対するパラダイム転換を学び、自ら行動して失敗し、それを生かすことのできる自分になろう、失敗ができる学級づくりをしようという気持ちをもつに至った。
今回の『回復力』では失敗からの復活ということで、失敗はするもの、だから失敗した自分、その生命をまずは大切にすることをメッセージとして受け取った。

「つまり、失敗によって自分が失ったエネルギーを、まず回復する方向にいかに向かわせるか、それが失敗にうまく対処するための、はじめの重要なポイントになるのです。」(P.51)
「逃げる」「他人のせいにする」「おいしいものを食べる」「眠る」等が方法としてあげられている。エネルギーを失った状態では、前を向いて「次」を考えることなどできない。自分にあった方法でエネルギーを回復させ、失敗から学ぶ体勢を整えることが大事だと思った。

また、失敗を記録してそれを生かすことを『失敗学』から学んだが、今回も記録することについての記述があった。
「だから、「どのようなことを考え」「どのように決断し」「どのような行動をとったか」といったプロセスだけでも控えておくことをおすすめします。」(p.113

どうも私たちは記憶をすり替えたり、自分を正当化するために都合のいいシナリオを頭の中で無意識につくってしまい、失敗を生かせないということがあるようである。回復するためには必要なことだろうけど、そのままではダメなのである。失敗を生かすために記録するとはいっても、日常の仕事に追われる中でなかなか時間がないのも事実。でも、この「どのようなことを考え」「どのように決断し」「どのようなこうどうをとったか」の記録は現実的で、失敗から学ぶ有効な記録となりそうである。

そして、今回、「失敗を想定する」ということを学び、これは大事だと思った。
参考にしたいのは「逆演算」という方法である。
「まず具体的にどんな失敗が起こるかという結果を思い浮かべて、そこから遡りながら、その失敗を誘発する原因を検討していくのです。(略)自分が最も起こってもらっては困ると考える致命的な失敗をまず検討できるのです。まず重大な失敗を想定し、それが起こり得る状況をつぶさに検討することで、仮に失敗した場合でも被害を最小限に抑えることも可能なのです。」(pp125-126)

もしかしたら成功している人たちはみんな、このように失敗を想定し、それを防ぐための対応と起きたときの対処法を当たり前のように考えてから物事に取りかかっているのかもしれない。自分に全くもって足りないところであった。こうした丁寧な取り組みをしていかないと、失敗も成功も積み重ねていくことができず、常に行き当たりばったりになってしまう。こうした上で起きた失敗を記録してデータベース化してこそ失敗を生かすことができるのだと思う。
学級づくり、授業づくり、子こどもとのかかわり等を、考えていく上で「失敗を想定する」ということを新たに取り組みたい。さんざ経験して今になって「新たに」ってところが情けないがやるしかないのでやります。


実にいい天気。
GWに相応しい行楽日和でござんす。
高速道路は渋滞で大変みたい。。
大きな事故が起きませんように。