教師☆学校心理士のセルフカウンセリングルーム

学校心理士によるつぶやき。教師の悩み・試行錯誤に寄り添うブログです。

なるほどメモ

2009年04月28日 | Weblog
今日は天気はまあよかったけれど、気温が低く寒かった。
こことのところ寒いなぁ。。暖房つけてしまっています。。

今日は最近授業でひっかかった、なるほどと思ったことをメモしておきたい。
※ただ正確に聞き取れていなくて、私が勝手に変えてインプットしてしまっているかもしれない。


1.「学校は知識の熟達者を育成するところである」
「学びと指導の学習科学」の授業でなるほどと思った言葉。
子どもが知識をただ記憶するのではなく、既有知識と新しい知識を関連づけて考え、応用(転移)できるように授業づくりを進めることが重要である。「熟達者」というのは、「大工の棟梁」をイメージしたような言葉。「2+3=5」の計算のしくみをつかみ応用し「4+5=9」もできるのが熟達者という感じである。
また、「子どもは素朴概念や誤知識にとらわれやすい。」という言葉も学んだ。子どもなりの思いこみで、学習内容理解が妨げられることがある。なるほど、それを理解しておくことは大事だと思った。

2.「甘えさせてもいい。甘やかさない」
「学校教育相談特論」の授業で学んだ。この授業では教育カウンセリングの考えを学んでいる。子どもを「甘やかす」というのは、迎合してなんでもよしにしてしまうこと。それでは子どもは何も学ばない。自分の課題には自分で責任をとることを学ばさなければならない。「甘えさせる」というのは子どもが困って助けを求めたら正面から受けとめてあげるということ。「甘えさせる」と「甘やかす」。区別することを考えてもいなかったので衝撃をうけた。そして、目の前が明るくなるような感動があった。「なるほど」である。

3.「教師が子どもを変えるのではない。子どもは自分で変わる。教師はその環境をつくってあげるのが仕事」
「学級集団心理学特論」の授業のまとめで聞いた言葉。ハッとした。教師は子どもを自ら変えようとしている。そんな意識はあると思う。しかし、人は他者が変えることはできない。人は自分で変わらなければ変わることはない。教師にできることも自分の影響の輪に働きかけることだ。
ピグマリオン効果(教師期待効果)を学んだ時間であった。教師の期待とそれが影響した働きかけは、こどもの意欲にも大きく関わってくる。教師は自らの責任と影響を自覚して教育活動を行わなければならない。ただ、ピグマリオン効果の影響はゼロにはできない。だから私はできるだけ教師のから子どもに学級運営の主導権を委譲し、子どもがお互いによい影響を与えあえるような学級づくりを目指したいと思う。


いじめの構造

2009年04月26日 | Weblog
この週末、寒い。風も強い。
北海道では雪が降っているらしい。
風邪引かないように気を付けなければ。
豚インフルエンザとやらが、メキシコあたりで流行り、死者も出ているらしい。怖い。


『いじめの構造』内藤朝雄 (講談社現代新書 2009)

「いじめ」はなくならないのか。
自分と考え方や波長が合う人と合わない人、生理的に好ましいと感じる人とそうでない人はいるだろう。でも、それがいじめにつながっていくのはおかしい。島国で外国の方との関わりもまだ少なく、「空気を読め」「世間様に顔向けできない」などと語られる日本は、いじめのおきやすい風土なのかもしれない。でも、自分が自分の子孫が生きていく世界がいじめが起きて当たり前の世界だなんて、恐ろしい。
いじめによる自殺の報道がなされるたびにいじめ問題が大きく取り上げられ、学校現場には指導強化の働きかけがなされる。現場の先生方がきめ細かな指導を日々積み重ねているがゼロにはなっていかない。でも、学校の役割は大きい。学校のあり方や制度の見直しをする部分もあるだろうけれど、学校は担っている役割の大きさを自覚し、あきらめてはいけないと思う。いじめの構造を知り、効果的な指導をすることができれば自由な社会実現に少しでも近付くのではないだろうか。

学校というところが「いじめ」の発生しやすい構造になっていることがわかる。学校では「群生秩序」という、「いま・ここ」のノリがその集団の秩序になってしまいやすい。そこでは、そのノリに乗ることができない者は攻撃の対象となってしまうのである。内藤さんは「学級制度の廃止」を提案している。閉じられた空間に閉じられた人間関係ができあがってしまい、凝集性や同調圧力が異常に高まることが問題だとしている。私は中学校以上の学校での学級制度の廃止はいいかもしれないと思った。中学生はものの見方・考え方といったライフスタイルがほぼ確立している。学級という枠を取っ払って、開かれた状態に身を置き、自分で人間関係を築くことはできないどろうか。いろいろな人と折り合いをつけながら生活できる力をつけることにもなるだろう。中学校、高校を卒業すると囚われの人間関係から抜け出すことができてホッとするといったような話も聞く。大学でのいじめというのもあまり聞かない。ただ、これまで脈々と続けられてきた学級制度にもメリットと理由があるのだろうから、そっち側の意見にも耳を傾け、双方を自分の中に入れて考えていかなければならないと思う。
 とはいえ、私は小学校では学級制度を支持したい。児童の人間関係づくりの基礎となる力を育成するという側面があるからである。また、様々な人と関わってうまくおりあいをつけていくスキルをそこで身につけていくことも必要だと考える。共同体の一員として、みんな仲良くべったりではなく、お互いの違いを認め合い尊敬できるようにし、人間関係づくりのスキルを身につけた上で、中学校に進学することができればいい。そうすれば、もしそこに学級制度が無くても、そこで身につけたことを実践することができるだろう。

少し難しかったが、自分にとって有用な話題、衝撃的な内容で、とても考えさせられた。

行儀よく

2009年04月22日 | Weblog
 今日は暖かく穏やかな一日であった。春だなぁ、と思った。
ただ話を聞いているだけだと眠くなってくる。。。そんなお昼寝日和でございました。

『行儀よくしろ。』清水義範 ちくま新書(2003)

子どもの教育に携わりながら、この「行儀」や「礼儀」「作法」などというものについて無頓着だったと思う。
辞書を引いた。
【礼儀】社会生活をするうえで、相手に対して失礼にならないようにするための態度や作法。
【行儀】他人からみてどう感じられるかという点での、ふるまいかたやあいさつのしかた。(ともに「例解新国語辞典」三省堂)
こうしてみると、今さらではあるが改めて「礼儀」も「行儀」も相手、他者を意識していることがわかる。相手を不快にしないように、みんなが気持ちよく生活できるように、という意識だと思う。相互尊敬の心のあらわれとも言える。そう考えると、この「礼儀」も「行儀」も共同体感覚の育成にとって大切なものだ。意識しないでいいわけがない。
個人の欲求の充足ばかりを求める国の風潮にあって「礼儀」や「行儀」はうっとうしいものと捉えられるものかもしれない。そして今急に社会を変えることは難しいだろう。とはいえ、社会をよりよい民主主義社会にしていくには教育の力によるところは大きい。共同体の一員、一人一人がそうした社会を形成していく上で他の人とつながることができなくてはならないと思う。「礼儀」や「行儀」は他者とつながって社会をつくっていくうえで、重要なものなのだと考える。

また、筆者の清水さんは
「ある国や民族にとって重要な教育は、そこにある生活文化、それは生活習慣の美と言いかえてもいいものだが、それを伝承することなのだと述べた。(略)そして我が日本だって、もともとあった文化が崩れてしまっては国民の美しさが失われるだろうと考えた。(p.189)」
と言っている。日本という国の文化、国民の美しさという側面からの「行儀」の大切さを感じずにはいられない。

「どんな人でもこの国の文化の中で美しく生きていければ、誇りの人生なのだ。(p.202)」
この国の美しさを継承していくことは大人の重要な責任なのだ。「国民の美しさ」を次世代へ伝える継承者としての誇りや生きる意味が私たちにはあるのだと思う。

「日本の文化のよさや美しさを伝える役割がみんなにはあるんだよ。それはみんなとつながる上でもとても大切なものなんだよ。」
といった言葉で子ども達に学ぶことの「意味」が伝わるだろうか。「礼儀」や「行儀」の授業実践を考えてもいいかもしれない。それとともに日常の生活の中で学びを積み重ねていきたい。
そしてまず何より...子どもに背中を見せる大人として自分自身の「国民としての美しさ」を見直し反省しなければならない。

「違い」を認め合う

2009年04月21日 | Weblog
『LD(学習障害)とADHD(注意欠陥多動性障害)』上野一彦(2003 講談社+α新書)

 『友だち幻想』に引き続き、LDそしてADHDについて学ぶことで、改めてはっきり認識したことがある。
 それは「違いを認め合うことの大切さ」である。
 「違い」を認め合い、それを喜ぶことができるような学級づくりをしたい。
 これはひとりひとりの居場所づくりの基本かもしれない。
 みんなと同じじゃなくていい。違う意見だっていい。
 みんなと違う遊びをしたくたっていい。
 でもみんなお互いを認めてる。ひとりひとりはみんな違う。
  
 LDやADHDはその子の特徴である。
 誰にでも得意なことや苦手なことはある。好きなものや嫌いなもの、考え方や感じ方も違う。LDやADHDの子ども達は苦手なことがたまたまみんなの目に付くようなことであるだけ。同調圧力(ピアプレッシャー)の強い同年代の子が集まる教室においてパラダイムの転換が必要なのだろう。そして、きっかけづくりと徹底・継続をしていく。
 相互信頼と相互尊敬の心で認め合ってカバーし合うことが、きっと学級のため、その子のため、その他のみんなのためになる。

 「違って当たり前なんだ。」「違いってうれしい。」「違うからみんなで伸びたんだ。」
 そんなことが実感できる授業とその日常化の実践を考えたい。

 みんなが安心して自分を出せる、失敗できる、意見を出せる学級、いいと思う。

自律と他律

2009年04月21日 | Weblog
暖かい風が強く吹く一日だった。
マスクはまだ欠かせない。
でも、学校の周りの人はほとんどマスクをしていない。丈夫な人たち。

今日は「道徳教育特論」の授業で「自律」と「他律」にひっかかった。
難しく頭がいつもながらこんがらがってしまった。。
テキストは『道徳教育論』新井郁男 犬塚文雄 林 泰成 放送大学振興会である。
ピアジェ、コールバーグをはじめ多くの論者が「他律」から「自律」へという道徳性の発達を唱えている。それは事実なのか。そして、それが事実だとして、自律した人間を目指すのに、道徳教育では他律的なアプローチをしていることは正しいのか。他律的アプローチの結果身につけた道徳性は、究極の「他律」なのではないか。
こういった矛盾をイギリスの教育哲学者ピーターズは「道徳教育のパラドックス」を唱えている。
つまり「自律」と「他律」にはあいまいな部分があるということである。難しい。

さらに「アメリカの教育哲学者P.H.フェニックスは、無道徳、自律、他律、目的律という順番で説明を行っている。」(p.55)
「イギリスの宗教教育学者ノーマン・ブルは「社会律」という段階を加えた発達段階を唱えている。(略)さらに興味深いのは、ブルは、他律はどの段階でも残っていると考えていることである。(p.55)」ともテキストにある。様々な考え方があり、専門的に全ての考え方を深く追求することはできないが触れておくことは大事だと思った。
 そして、自分でそうかもな、と感じたのはノーマン・ブルの「他律はどの段階でも残っている」という点である。そこから私が考えたのは自律的な人の育成を目指すが、その「自律」は半他律というイメージである。私は子どもの共同体感覚の育成を目指したい。それを身につけることを目指すと言うことは、共同体の一部であり、共同体とその成員に関心をもつことが大切である。自らを律するとき、共同体を意識して律することは「自律」であり「他律」ではないかと考えてみた。もちろんそれが同調圧力であってはならない。共同体の成員と同じでなければいけないのではなく、信頼感や貢献感をもって自ら判断するものである。

 また、ちょっと外れて「7つの習慣」の重要な考えである「原則中心」の生活を送るにも「道徳」は大事なのではないかと考えた。
 「万有引力といった法則が自然界に存在しているのと同じように、人間の生活にも自然の法則があるということだ。それは地球上どこでも普遍であり、時間を超えて不変であり、つまりそれは絶対的なものである。」(p.29)
「原則は、永続的な価値を持っており、人間の行動に正しい方向性を与えてくれるガイドラインとなる。」(p.33)
「道徳」よりも大きな概念で普遍であり不変のものとされる「原則」は自分の心の声、旅の地図となるものである。その原則は放っておいても自分の中に取り入れることができるものなのだろうか。野生児は人間らしい能力を発達させることが難しかったという。「原則」も幼児期の家庭教育が重要な出発点となり、学校も含めた生活の中における相互行為によって内在化するのではないか。道徳教育を通して「原則」中心の生活の基礎を養うことができるのではないかなと考えた。

授業が始まり、様々な分野に触れこれまでの学びとのつながりやひっかかりを感じる。はっきりしないところも多く、今回のように混乱状態であるが、まだまだ貪欲に学んでいきたいと思う。

花冷え

2009年04月15日 | Weblog
今日は肌寒い。
あれ、昨日も少し寒かったかな。花冷えですね。
ギリギリ暖房のスイッチを入れない感じである。
暖かかったり寒かったり。。春の天気は不安定。。
花粉対策のマスクが風邪引きのマスクにならないように気を付けないと。

菅野仁『友だち幻想』(ちくまプリマー新書 2008)

高校生か、もう少し上の若者向けに書かれた本であるが、非常にわかりやすく勉強になった。(私のレベルはこのくらいがちょうどよいのかもしれない。。)
これまで少し積み重ねてきた学びとつながる点も多く、自分の哲学のヒントとなるすばらしい1冊である。

「相手を他者として意識するところから、本当の関係や親しさというものは生まれるものなのです。」(p.40)

 学校では「みんななかよく」が当たり前のこととして指導される。同質であることが暗黙の内に求められ、「違う」ことが攻撃の対象になってしまう。「人は誰ひとり同じ人はいない」「みんな違ってみんないい」という指導はなされる。「ムラ文化」を引きずる日本の社会の影響もあり、浸透がなかなか難しい現状があるような気がするが、それで仕方ないとしたらおしまい。学校教育の役割として自覚し、日々の指導の積み重ねと継続、習慣化を目指して徹底したい。
そしてさらに考え方や価値観はそれぞれ違うしそれがすばらしいことなのだという文化を教室に生み出したい。
筆者は「それが私がとくに強調したい「同質性」から「並存性」へという考え方です。(p.59)」「価値観が百パーセント共有できるのだとしたら、それはもはや他者ではありません。自分そのものか、自分の〈分身〉か何かです。」(p.128)という。
「7つの習慣」にもあったが「違い」を認めるにとどまらず「喜ぶ」ことができる関係、価値観をつくりたいと思う。

「ルールというものは、できるだけ多くの人にできるだけ多くの自由を保障するために必要なものなのです。」(p.86)「逆にいえば、自由はルールがないところでは成立しません。」(p.86)

ルールの中でひとりひとりが自由に考え行動し、そして他者と折り合いをつけて生活できるように学級づくりを進められたらよいと思う。クラスの仲間を「他者」と認識しながらも、学級という共同体をいっしょにつくっている仲間だ、自分はその共同体の一員でそこに貢献したいという「つながりの感覚」はしっかりもてるようにしたい。
 

春☆元気玉

2009年04月14日 | Weblog
新年度、授業もスタート。
若者わんさか。
大学は活気に満ちている。
元気玉にいっぱいエネルギーを送ることができそう。

でも外は薄暗く、小雨が降っていた。
早く花見をしないと散ってしまうなぁ。。


今期、単位取得に関係なく教育心理学に関する授業をいくつか聴講して学ぼうと思う。
自分が大事だと思ったもの何でも学ばせていただくという姿勢。
心理学の分野は様々な立場や考え方があるし、内容も難しいものが多い。
心理学についてほとんどわかっていない。
しかし、心理学者やカウンセラーになろうとしているのではない。
学級づくりという集団に対するアプローチ、子ども一人一人という個人に対するアプローチ、そしてそれぞれの開発的アプローチ、治療的アプローチに引き出しが増えたらいいと思っている。自分の教育実践に理論の裏付けができる。そこから哲学づくりのヒントが得られるかも知れない。
知らない人たちの中に入って学ぶのもなかなか悪くない。
安全領域からすっ飛びだして学ばないと!です。


学級づくりの柱を「ルール」「リレーション」「自分磨き」の3本で漠然と考えてきたが、修正が必要だと思った。
学級づくりの原理原則をアウトプットすると考えたとき、果たして「自分磨き」は入れるべきなのか。それが確立していない学級は健康な状態といえないのか。
そんなことはなさそうだ。「自分磨き」のある学級は少し上のレベルであるように感じる。
 (学級が健康な状態とは、子どもひとりひとりみんなに居場所があり安心して失敗できる状態と考える。)

学級づくりの成立、健康状態のアセスメントにも「ルール」と「リレーション」がすっきりしていいように思う。
では「自分磨き」はどうなのか。必要ないのか。
そうではなく、大事な要素である。自分磨き、お互いに磨き合う学級は目指す学級の姿だ。でも、原理原則となると少し外れる。うまくいかなくて困っている学級に対して、改善の手を考えるのはまずは「ルール」と「リレーション」の確立だろう。
「自分磨き」「自己コントロール」は学級づくりと無関係ではないが、原理原則の必要要素というよりも、目指す児童像に近い。「ルール」と「リレーション」のある学級では安心して自分を磨くことができるのだ。その児童像に近づけるための手だても学級づくりの要素として考えてしまったところがズレた原因だ。


大体複雑な要素が絡み合っている学級づくり。
それを単純にそしていっぺんにコレとコレと言おうとしているところが間違い。
もう少し、思考を整理しなければならない。



失敗学に学ぶ

2009年04月10日 | Weblog
『失敗学のすすめ』畑村洋太郎(講談社文庫 2005)

「恥や減点の対象ではなく、肯定的に利用することが、失敗を生かすコツ。」であるという。
 自分を振り返ってみると、失敗しないようにしようという意識が強いように思う。そういう教育を受けてきたからか、日本の社会が失敗は避けるべき恥ずかしいものとする風土であるからか。
「成功は失敗のもと」とは昔から言われてきたことであるが、果たして自分の生きてきた庶民のレベルでそれが歓迎されてきただろうか。失敗には、何度も繰り返す失敗や、わかっていてやってしまう失敗などの悪い失敗と、学びや次の成功につながるよい失敗があるが、その後者、よい失敗についてでさえ、歓迎されていないような気がする。

 自分自身が、失敗は避けるべき恥ずかしいものではなく、そこから学び前に進んでいくのだというように、パラダイムの転換を図る必要がある。子どもの教育に携わるものが失敗を恥ずべきものであると考えていたら子どもは失敗を避けるようになるだろう。そしてそこから学ぶことはないだろう。そして、成功例やうまくいくやり方だけを真似して、自ら考えることをしなくなるだろう。仲間の失敗を笑うようになるだろう。いいわけがない。

失敗について次のような言葉を覚えている。 
 「失敗をしないのは成功することしかしていないからだ。」
 「成功の反対は失敗ではない。何もしないことだ。」

 まずは自分が安全領域を飛び出し失敗から学んでいくこと。そして、学級を安心して失敗できる心のつながりのある場にし、子ども達が失敗しながら自分で考え成長できるようにしていけたらいいと思う。

社会力

2009年04月09日 | Weblog
昨晩、同じM2の現職の方々と飲む機会を得た。
なかなか一緒に飲むことのできない方々との飲みだったので新鮮。
アットホームな焼鳥屋さん。
勉強にもなり楽しかった。
二日酔いもなんとか回避。ギリギリってところだったと思う。
いやいや、よかった。

先日読み終わった本
門脇厚司 『子どもの社会力』 岩波新書(1999)
門脇氏によると「社会力」とは、既にある社会に適応する側面が強い「社会性」から一歩進んだ、社会をつくり維持運営する資質や能力のことを言う。現代の若者には社会性が欠けているといわれるが、氏は社会性はあるが社会力がないのだという。確かにそうかもしれない。そしてそれは若者、子どもだけでなく大人にも言える。わが国の国民には社会力が足りないのだ。
「社会力」は「共同体感覚」と通じる。共同体の一員としての所属感、信頼感、貢献感、共感。これを育むことは自分の所属する共同体をよりよいものにしていこうという「社会力」につながると思う。

 また、ヒトの赤ちゃんが高い能力を持って生まれてくることもこの本から知った。母親をはじめ、周りの大人と相互行為を繰り返しながらその能力を高めていくのだそうだ。そうした中で愛着や信頼を感じることができるのも大切であるという。
 学校は家庭での親子の関わりや、過去の育て方に手を入れることはできない。目的論に立って、学校としての「社会力」「共同体感覚」の育成という役割を自覚し、意図的に教育活動を積み重ねることが大切だと思う。家庭のせいにしてあきらめたらそこでおしまいである。

 著者は「学齢期にある子どもたちの社会力形成の主要な場が学校であるというのはあたらない。この時期の子どもたちにとっても、彼らの社会力を育むもっとも重要な場は地域社会である。(p.175)」と言っている。多様な他者との相互行為ということを考えると、近い年齢の児童生徒の関わりが中心となる学校よりも地域社会が最も重要な場となるのはわかる。ただ、学校での学びが重要であることは否定できない。学校で学んだことを地域社会で生かし、地域社会で学んだことを学校生活で生かすような相乗効果が理想的だと思う。しかし、地域活動を活発化し、子どもを積極的に参加させることはなかなか難しくなっていないだろうか。今の子ども達は非常に忙しい。塾に習い事スポーツ教室。中学生になれば土日は部活動である。もちろん地域社会の大人もそれぞれの仕事で手一杯である。したがって根本的な社会の改革、地域住民である大人の意識改革が必要になってくると思う。現実的には、地域社会を学びの場とする総合学習の取り組みや、地域コミュニティ、公民館と学校との連携による取り組みが可能性として考えられる。
 学校が子どもの「社会力」育成において中心的役割を果たす立場であることを自覚して、意図的に教育活動を展開していくことは重要であると思う。


いや~、実にいい天気~♪
マスクしないでお花見したい。

そもそも①

2009年04月07日 | Weblog
 そもそも「なぜ」やるのか。

子どもの「なぜ」に対して答えを持っていなければならない。
それは正解な答えではないかもしれないし、明日にはまた変わるものかもしれない。
でも、それを考えて自分なりに持っているのとそうでないは大きな違いがある。
ブレのない教育実践のために自分なりに考えていきたい。

まずは「なぜ学校に行くのか」である。
師匠は「背伸びするため」M先生は「意味を変えるため」とおっしゃっていた。

 それを踏まえつつ私は『自分を変えるため(違う自分になるため)』としたい。

 今日の自分が昨日とほんの少しでも違う自分になるため。
 1時間の授業後、授業前の自分とは違っているように。

 どう変わるのか。
教育基本法 第一条
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」
とある。民主主義社会を形成しよりようしていこうとする国民の育成を目指すものである。
 上記の教育の目的を踏まえつつ、目指すのは、共同体感覚を身につけることである、と考える。
学級、学年、学校、また地域や家庭、その共同体の一員として共同体とそのメンバーの関心に関心をもち、所属感、貢献感、共感、信頼感をもてるよう、その能力を身につけられるようにしたい。
そのためにも自他を「勇気づける」ことができるように変わることも大切だと思う。

 私の学校に来るのは『自分を変えるため(違う自分になるため)』はまだまだ薄っぺらである。
 共同体感覚や民主主義、社会性など、根本となるような言葉や理論について学びを積み重ね、『自分を変えるため(違う自分になるため)』をもっともっと分厚くしていきたいと思う。