飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

ノーサイド

2005年05月04日 01時08分46秒 | 学級経営
教師2年目に初めて学級担任をもった時の学級通信のタイトルが「ノーサイド」だった。
その第1号に「発刊に寄せて」という題でこんなふうに書いている。

ラグビー、そうあの楕円形のボールを敵、味方15人ずつに分かれて奪い合うスポーツです。
そのラグビーの試合終了を告げる言葉、それが「ノーサイド」です。
新学年が始まったばかりなのに、もう終わりだなんてと思われるかもしれません。
しかし、もともと教育とは「別れを目的とした営み」なのです。
教育とは「もはや教育を必要としない人間」に育てることを目的としているのです。
だから、教師にとって教え子との別れは必然的なことだと思います。
来年の3月、どの子もたくましく成長し、胸をはって5年生になれるよう、私は日々努力をしていきます。

「ノーサイド」を選んだ理由を、これから書きます。
第1の理由は、私がラグビー本来の精神が好きだからです。
ONE FOR ALL,ALL FOR ONE
これがラグビーの基本精神です。
だから、喜びを分かち合い、失敗の責任も分かち合うのです。
ラグビーのプレイヤーはトライを決めたときにも、絶対に高校野球やサッカーのように派手なガッツポーズをとったりしません。
それは得点できたのは自分の力だけの力ではなく、自分にパスをした仲間、タックルされて倒れそうになった仲間、キックせずにパスを回した仲間、たくさんのプレイヤーの手を経て、初めてトライが成立することをよく自覚しているからです。
こういったふうに、何かをやりとげるとき「個人のプレーや個人の手柄はあり得ない」というこの精神が私は好きだからです。

第2の理由は、この言葉がスポーツマンシップ、友情を表す言葉だからです。
試合終了を告げる言葉は、スポーツによって異なります。
バスケットボールでは、タイムオーバー、テニスや野球ではゲームセット。
しかし、どの言葉も、すべて終わりを意味します。
ただ、「ノーサイド」だけは、たとえゲーム中は敵、味方であっても、試合が終われば同じスポーツマンとしてたたえ合うといった考えに基づき、敵サイド、味方サイドもない、すなわちひとつの仲間であるということを意味しています。
これから1年間、子どもと私、子ども同士、ぶつかりあい、鍛え合います。
でも、根底にあるものは「ノーサイド」の精神であってほしいと思うのです。
私は、技量も未熟で、力量も不足しています。
しかし、教育に対する謙虚さと誠実さはもっているつもりです。
これからの日々に夢は果てしなく続きます。

今読み返してみると本当に恥ずかしい、できれば記憶から消してしまいたいほどの稚拙な文章である。
何の技術も方法論ももっていない駆け出しの時代の自分に何が出来るかも分からずに書いた文章である。
若いと言うことは、何事もおそれない、自分の限界を意識せずに新しいことに挑戦していく純粋な心を持っていると言うことである。

SCENE19(saitani)


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