飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

良い授業の基準

2022年11月16日 13時32分02秒 | 授業論
齋藤喜博、大村はま、東井義雄、有田和正、築地久子氏など、戦後を代表する実践家たちの授業実践、実践スタイルは様々ある。
しかし、授業のあり方については共通していたという。
それは次のような考え方だ。

個人が問いをもつ。そして、他者と対話をしたり、資料を用いたりして、はじめにはなかったものの見方や観が方に気がつく。
その上で、個人が新たな問いをもつ。

この考え方に異論をとらえるつもりはない。
なぜなら、自分も子どもを主体とした討論の授業に憧れ、常に目標としてきたからだ。

良い授業かどうかの判断ポイント。

1 表層的な知識を伝えるだけでなく、結果に至るまでの思考プロセスを鍛えるような活動が多い。
2 子どもたちから問いが生まれ、子どもたちに新たな気付きやものの見方が生まれる。
3 子どもたちの問いから、教師自身にも新たな気付きやものの見方が生まれる。

ここで少し気になるなるのは、子どもたちから問いが生まれるということ。
どんな場合にも子どもたちから問いが生まれることはない。
時に教師から問うこともあり得るし、教師と子どもの問いが一致して、結果的に子どもの問いとなる場合もある。
無から有は生まれないように、子どもたちの問いがうまれる前には、教師の何らかの働きかけがあり、伏線があることを忘れてはならない。

まれに教師の範疇や予想を超えた子どもたちの問いや解釈が示されることがある。
教師の方が、背筋がゾクゾクしたり、鳥肌がたったりする状況である。
自分も年に数回ある。
子どもたちの限りない可能性や能力を実感しているつもりでも改めて、子どもたちの力はすごいと感心する。
しかし、これもたびたびあってはならないことだ。
それは、教師の教材研究不足や子どもたちの思考予想が不十分であることの裏返しだからだ。

授業は、子どもたちとの闘いである。
その気概をもって、授業することがプロの教師とも言える。

saitani



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