森信三の言葉。
読書ということは、われわれの修養の上では、比較的たやすい方法だと思うのです。
したがってそれさえできないような人間ではてんで問題にならないわけです。
つまり真の修養というものは、単に本を読んだだけでできるものではなくて、書物で読んだところを、我が身に実行して初めて真の修養となるのです。
それゆえ書物さえ読まないようでは、まったく一歩も踏み出さないのと同じで、それでは全然問題にならないのです。
引用終わり。
読書には、ストレス軽減の効果もある。
気持ちが落ち込んでいたり、なにか心配事があったりすると、本を読む。
そうするとなぜか心が軽くなるのである。
ある意味読書をする行為というは、瞑想に近いのかもしれない。
単調で同じリズムを繰り返す動作は、癒やしの効果もあるのと同じかもしれない。
また、教師という専門職であり、知識を切り売りするような仕事の一面もある我々が月に一冊も本を読まないということがあり得るだろうか。
それは、どんな理由をつけようとも恥ずべきことだし、子どもたちに対する誠意のなさの現れでもある。
人間が一日たりとも食物をとらないではいられないことは周知の事実である。
よく学校の図書室に貼られている掲示物。
「本は心の栄養です」
まさに、これは真実である。
少し厳しいかも知れないが、森信三は次のようにも言っている。
以下引用。
そこでわれわれとしては、仮に日日善行はできないとしても、せめて書物だけは、毎日多少でも読むように努めねばならなぬと思うのです。
ところが食物ですと、一食食べなくてすぐに体にこたえます。
否、一食どころか、一時間遅れても大不平でしょう。
おそらく諸君も、食堂をあけるのが十分遅れても文句たらたらでしょう。
ところが肝心の心の食物となると、何日抜けよう、一向に平気な人が多いようです。
しかし、人間も、読書をしなくなったら、それは死に瀕した病人がもはや食欲がなくなったのと同じで、なるほど肉体は生きていても、精神はすでに死んでいる証拠です。
ところが人々の多くは、この点がわからないようです。
それというのが、人々は、欲をもって心と誤りを考えているからでしょう。
だから、「お前の心はもう死んでいるぞ」と言われても「何、そんなことがあるものか」と一向平気でいるのですが、心が生きているか死んでいるかは、何よりも心の食物としての読書を欲するか否かによって、知ることができるのです。
これこそ自分の心の死活をはかる、何よりのバロメーターと言ってよいでしょう。
引用終わり。
「お前の心はもう死んでいるぞ」こんな風に言ってくれる先生はいるのだろうか。
今の時代では「死」という言葉を軽々しくつかってはいけない。
もちろん時代は変わるが、いつのときにも軽率につかうべきではないと思うが。
しかし、ことの良し悪し、引用の仕方がどうであれ「死」という言葉を教室で口にしただけで問題になる。
こんな状態で、生命の大事さをどうして教えるのだろうかと考えることもある。
どんなに慎重に言葉を選んでも、受け取る側の考えの浅さや思慮の不十分があれは、真意が伝わることはない。
曲解されて、言いがかりをつけられるのが関の山だ。
読書をしない人間は魂が死んでいるのと同じだと言ってくれる教師に出会えることはある意味幸せなことかもしれない。
厳しいかもしれないが、これは真実と私は痛感する。
あれこれ迷う前に、もっと本を読んで多様な価値観を学び、人生の選択肢を広げるべきだ。
多くの人物の考え方にふれ、自分の考えの浅さを痛感すべきだ。
世の中には多くの人間がいて、自分が抱えている苦しみや悲しみは自分一人だけのものではく、多くの人間も同じように悩む続けていることに気づくべきだ。
早い学校は、今月末には夏休み明けの授業が再開される。
この時期は教師も子供も1年間で一番精神が不安定になる時期だという。
だからこそ、残された10日間だけでもいい、読書をしてみてはどうだろう。
気持ちが前向になることは確かである。
saitani
読書ということは、われわれの修養の上では、比較的たやすい方法だと思うのです。
したがってそれさえできないような人間ではてんで問題にならないわけです。
つまり真の修養というものは、単に本を読んだだけでできるものではなくて、書物で読んだところを、我が身に実行して初めて真の修養となるのです。
それゆえ書物さえ読まないようでは、まったく一歩も踏み出さないのと同じで、それでは全然問題にならないのです。
引用終わり。
読書には、ストレス軽減の効果もある。
気持ちが落ち込んでいたり、なにか心配事があったりすると、本を読む。
そうするとなぜか心が軽くなるのである。
ある意味読書をする行為というは、瞑想に近いのかもしれない。
単調で同じリズムを繰り返す動作は、癒やしの効果もあるのと同じかもしれない。
また、教師という専門職であり、知識を切り売りするような仕事の一面もある我々が月に一冊も本を読まないということがあり得るだろうか。
それは、どんな理由をつけようとも恥ずべきことだし、子どもたちに対する誠意のなさの現れでもある。
人間が一日たりとも食物をとらないではいられないことは周知の事実である。
よく学校の図書室に貼られている掲示物。
「本は心の栄養です」
まさに、これは真実である。
少し厳しいかも知れないが、森信三は次のようにも言っている。
以下引用。
そこでわれわれとしては、仮に日日善行はできないとしても、せめて書物だけは、毎日多少でも読むように努めねばならなぬと思うのです。
ところが食物ですと、一食食べなくてすぐに体にこたえます。
否、一食どころか、一時間遅れても大不平でしょう。
おそらく諸君も、食堂をあけるのが十分遅れても文句たらたらでしょう。
ところが肝心の心の食物となると、何日抜けよう、一向に平気な人が多いようです。
しかし、人間も、読書をしなくなったら、それは死に瀕した病人がもはや食欲がなくなったのと同じで、なるほど肉体は生きていても、精神はすでに死んでいる証拠です。
ところが人々の多くは、この点がわからないようです。
それというのが、人々は、欲をもって心と誤りを考えているからでしょう。
だから、「お前の心はもう死んでいるぞ」と言われても「何、そんなことがあるものか」と一向平気でいるのですが、心が生きているか死んでいるかは、何よりも心の食物としての読書を欲するか否かによって、知ることができるのです。
これこそ自分の心の死活をはかる、何よりのバロメーターと言ってよいでしょう。
引用終わり。
「お前の心はもう死んでいるぞ」こんな風に言ってくれる先生はいるのだろうか。
今の時代では「死」という言葉を軽々しくつかってはいけない。
もちろん時代は変わるが、いつのときにも軽率につかうべきではないと思うが。
しかし、ことの良し悪し、引用の仕方がどうであれ「死」という言葉を教室で口にしただけで問題になる。
こんな状態で、生命の大事さをどうして教えるのだろうかと考えることもある。
どんなに慎重に言葉を選んでも、受け取る側の考えの浅さや思慮の不十分があれは、真意が伝わることはない。
曲解されて、言いがかりをつけられるのが関の山だ。
読書をしない人間は魂が死んでいるのと同じだと言ってくれる教師に出会えることはある意味幸せなことかもしれない。
厳しいかもしれないが、これは真実と私は痛感する。
あれこれ迷う前に、もっと本を読んで多様な価値観を学び、人生の選択肢を広げるべきだ。
多くの人物の考え方にふれ、自分の考えの浅さを痛感すべきだ。
世の中には多くの人間がいて、自分が抱えている苦しみや悲しみは自分一人だけのものではく、多くの人間も同じように悩む続けていることに気づくべきだ。
早い学校は、今月末には夏休み明けの授業が再開される。
この時期は教師も子供も1年間で一番精神が不安定になる時期だという。
だからこそ、残された10日間だけでもいい、読書をしてみてはどうだろう。
気持ちが前向になることは確かである。
saitani