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飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

逆上がりへの挑戦

2005年05月12日 18時09分49秒 | 体育科
逆上がりのポイントは次の二つ。

体を後ろに倒すことができる。
腰を鉄棒に近づけ、鉄棒の上に載せることができる。

このポイントは重要ではあるが、ポイントが分かったからといってすぐに出来るようにはならない。
それぞれの運動にはそれをささえる基礎感覚、基礎技能があるからだ。
まず、基礎感覚、基礎技能づくりをしっかり行うことが重要である。

基礎感覚には次のようなものがある。
そしてその感覚を育てる運動がある。

逆さ感覚   ブリッジ、足うち、倒立
高さ感覚   ジャングルジム、跳び箱、うんてい
回転感覚   ゆりかご、よこまわり、前転、後転
振りの感覚  こうもり振り、あしかけ振り、懸垂振り
平衡感覚   平均台歩き、片足ずもう

この感覚の中でも逆上がりにとくに必要になってくる基礎感覚は、逆さ感覚、高さ感覚、振り感覚である。
では予備運動として効果があるものは、正面支持、ふとん干し、前方回転下り、だんご虫である。
特に、ふとん干しから正面支持の状態になる運動は、逆上がりの終末局面を体得する運動なので、中心的行う。

次に基礎技能を身につける運動である。
この技能につながる運動は、ジャングルジム逆上がりやまわりなどである。
回りは、逆上がりに必要な後ろへ倒れる感覚、逆さ感覚、回転感覚を育てることができる。
逆上がりに比べて体を引き上げるという動きが小さいため、やりやすい。
できれば連続何回というようにしたり、複数ならばリレーに形式にするなどして、楽しみながら基礎感覚・基礎技能を育てられるといい。

次は実際の課題運動づくり。
ここで効果的なのが「段階別台付き鉄棒」である。
この指導には時間が必要になるが、効果的な言葉がけが大切である。
子どもの動きが変化する指示である。
さらには運動をイメージしやすい言葉と言ってもいい。

鉄棒の高さは、おへそから胸のあたりにする。
踏み切りと腰の落ちをいかに改善していくかもポイントとなる。

踏み切りに関しては、「ポンと音がなるように踏み切り板を強く蹴りなさい。」と支持し、強くけることを身につけさせる。

腰が落ちる子には「磁石のようにおへそを鉄棒に近づけなさい。」と支持する。
しかし、ここでは筋力も関係してくるので、腰を持ち上げる補助も必要だろう。

振り上げ足の方向がおかしい子には、「鉄棒の上に太ももをのせなさい。」と指示し、少しずつ鉄棒に太ももがのるようにする。

体を反らせてしまう子には、「最後まで自分のつま先をみてやりなさい。」と指示する。

目安としては、10日間で出来ない子の7割が成功することを目指す。
子どもたちのモチベーションを持続させるには、長時間の指導は逆効果である。
1回の指導時間は、長くても15分程度。
これ以上ながくすると手や足が痛くなり、鉄棒をいやがるようになる。
短い時間で、継続して行うことがポイントである。

SCENE26(saitani)



あるエピソード

2005年05月10日 00時32分58秒 | 教育論
生徒がいた。
中学3年生だ。
小学校時代から登校したことがない。
いまの担任の先生も顔をみたことがない。
でも、他の生徒と同様に扱うことにした。
毎日学級ノートを自宅に届けた。
届けるのはクラス全員が交代して協力してくれた。
朝の回収は近所に住む生徒に頼んだ。
もちろん本人は玄関にも出てこない。
母親を通しての受け渡しだった。
ノートには、返事を書く欄があった。
「よかったら書いてください。」
その生徒の分はいつも白紙だった。

なにしろ会ったこともない生徒だ。
「何を書いたらよいか。」
先生は毎日苦労した。
たまたまサッカーのW杯開催中だった。
一行書いた。
「応援している国は?」
短い返事があった。
「フランス。」
先生はインターネットを駆使した。
フランスチームの情報を集めた。
それをノートにべたべたと貼り付けて届けた。

その後、生徒は相変わらずだった。
やがて夏休みに入る。
「絶望とは愚か者の結論だ。」
先生はこう思ってノートの継続を決意していた。
それでも一方で「ムダか」という思いもあった。

1学期最後の朝だった。
回収されたその生徒のノートを開いた。
先生は驚いた。
何と返事が書いてあるではないか。
見たとたん先生は涙があふれて止まらなかった。
いつの間にかノートを握りしめ、心の中で叫んでいた。
「教師でよかった。この仕事をしてよかった。」
その返事とは、たった一行。
「先生、ありがとう。」だった。

討論的授業の構想2

2005年05月09日 01時12分24秒 | 国語科
討論の授業は、プロの技術を必要とする。
単なる意見発表や自分の主張のみをするのならそれは簡単である。
授業を見ていて、子どもたちが切れ目なく発言する場面を見る。
確かに、クラスの中にどんな意見も受け入れる雰囲気があることは素晴らしいことだが、討論とは全く異なる授業形態である。
子どもの意見が絡み合わないのである。
用意された自分の主張を繰り返しているに過ぎない。

誰かが根拠をもって自分の立場を主張する。
それに対して、相手の根拠の正当性の是非をふまえて反論を加えるのが討論である。
この力を育てるには時間が必要である。
きちんと出来るまでには半年以上の時間を必要とする。
そこに至るまでスモールステップを考え、一段一段階段を上っていく。

その一番最初にしなければならないのは、「事実」と「意見」を区別することである。
事実は10人の人がいたら10人が肯定するようなことがらをさす。
それに対して、意見は人それぞれ考えが異なるものである。
このことを授業に授業にかけるときには次のようにする。
「○○選手は、優秀なプレイヤーである。」
これは考えがわかれる。
例えば、打率は低いがチャンスに強い打者がいる。
優秀の定義がひとそれぞれ異なるからだ。
これに対して、「○○選手は、3割バッターである。」
これはきちんと数字で表されるので全員の意見が一致する。
これを事実と言い、前者を意見と区別する。

これが討論への第一歩である。SCENE24(saitani)

最後の切り札

2005年05月08日 19時03分31秒 | 人生論
2005年5月8日付け朝日新聞の「ひと」の欄に以前紹介した「福島孝徳さん」が掲載された。
以下、引用。

文字通り、手術に明け暮れる。
教授を務めるデューク大学など米国4病院。
日本の12病院を中心に年500件。
それも医師がためらう難しい手術ばかりだ。
「僕の力で助けてあげれるのがうれしい。
 でも脳の病気で手術ができるのは2割ほど。
 くやしくてねえ。」

福島さんも医学の中で壁を感じる。

37歳で三井記念病院の脳神経外科部長になった。
頭蓋骨にあけた硬貨大の穴から病巣を取り出すカギ穴手術を開発、世界的に著名になる。

医学は人の命をあずかる仕事である。
いいものはいいと認められて当然である。
人の命の救う最善の方法があるのならそれをみんなで学べばいい。
しかし、現実は違っていた。
国内の大学での教授選には連敗し、91年から頭脳流出した。
その理由は何か。
横並びの日本社会では、手術がうますぎるのは嫌われるからだという。
どこか学閥の壁の中で実力を認められず、海外に道をもとめた野口英世と重なる。

福島さんの言葉。
日本の脳外科医の経験不足をみて。
「自分が手術できないとなると、何もしない。
 セカンドオピニオンも嫌う。
 患者さんが可哀想で。」

「外来では親切に。
 『すべてを患者さんのために』が医師の務めです。」

米国では、福島さんは「ラストホープ(最後の切り札)」と呼ばれている。
SCENE23(saitani)


音読指導 3年生

2005年05月07日 21時48分50秒 | 国語科
3年生における音読ははっきりと明瞭に音読することが基本である。
まず、表現読みに入る前に音読の基礎を培うべきだと考える。
その上で、文章の内容を的確に表すことができる表現読みに移行すべきである。

物語文では、人物の性格や場面の情景を想像しながら読むことが必要になってくる。
かといって広い範囲を一度に表現豊かにと言われても子どもたちはとまどうだろう。
そこで音読する段落の中心になるキーワードをまず見つける。
子どもたちに指摘させてもいいし、教師が示してもいいと思う。
多くの場合、会話文に注目するといい。
しかし、注意しなければならないのは会話文に表現されている短い言語は気持ちを端的に書いてあるもののその言葉だけでは意味を正確につかめないことが多い。

例えば、「つり橋わたれ」。
トッコが「ママーッ」と叫ぶ場面。
これだけではどんなふうによんだらいいのか情報が少なすぎる。
そこでその会話文の前後の地の文に着目させる。
「急にママがこいしくなりました。」
「トッコの家は東京ですが、お母さんが病気になったので、この山のおばあちゃん家にあずけられたのです。」
「来る日も来る日も、トッコは一人で遊びました。」
「重なり合った山に向かって、大きな声でよびました。」
これらの叙述を理解した上で表現読みを行う。
速さ、声の大きさ、「ママ」との違い。
ある程度の動作化も中学年なら可能だと考える。
両手を口にあてて読む。
視線をあげる。
悲しそうな表情をする。
視線を移動して、ためを作ってから読む。
細かい点を一つ一つ指導していく。
本来なら、子どもたちから出させるべきだろうが、気がつかない点は積極的に指導すべきだと考える。
一番大事なのは、子どもたちの最高の読みの姿が具体的イメージとして教師がとらえられているかということ。
国語の音読に限らず、子どもの教育活動すべては教師のイメージ以上の広がりをみせることはごくまれにしかないからである。

あと注意すべき点は、語尾をのばす癖(卒業式のよびかけに顕著に表れる)と言葉の頭にアクセントを子どもたちはもってきがちだということである。

以上のことに留意することが大切だと考える。SCENE22(saitani)





諸友に告ぐ

2005年05月06日 22時25分51秒 | 歴史
歴史上の人物で尊敬できる人物は限られている。
その一人が吉田松陰である。

あらゆる階層の物が集まった松下村塾では、塾生の身分差別がまず取り除かれたという。
松陰は縦割りにされた人間関係を崩し、すべてを対等な関係に置き換えただけでなく、自らも「先生」ではなく、「友人」として門下生に対した。
松陰が書き物で塾生に呼びかけるときは、「諸友に告ぐ」という表現を用いている。
その意図は、横の結合によって封建社会に希薄だった連帯の世界を創造しようとしたのだった。

侍の子と足軽の子が対等な友人として結び合うとき、封建社会では考えられなかった全く新しい友情が生まれ、変革を推し進める力となる。

安政5年6月、松陰は「諸生に示す」という一文を書いている。
「村塾が礼儀作法を簡略し、規則もやかましくいわないのは、そんな形式的なものより、もっと誠実 な人間関係を作りたかったからだ。
 諸君はこの方針に従って相交わり、病気のものがいれば互いに助け合い、力仕事が必要な場合は、 みんなが力を合わせ、家族同様に協力した。
 塾を増築したとき、大工の手を借りずにそれを完成させたのもその表れである。」

松下村塾は、上下関係はなく、それぞれが自由な立場学問に没頭していたと言える。
しかも、助け合いの精神も根付いている。
現代の学級経営に関しても、これらの方針は有効である。

音読指導

2005年05月05日 01時41分04秒 | 国語科
「音読」と「朗読」は、学習指導要領の中で区別がつけられている。
「音読」は、「理解」の力を高める活動として、1年生から4年生までに配列されている。
「朗読」は、「表現」の力を高める活動として、5年生と6年生に配列されている。
音読指導は、国語学力形成の基礎の基礎である。
そしてどんな場合にも、すらすら読めること、正確に音声化できるうように日常的に指導することが必要である。
大切なポイントをいくつか書いてみたい。

実際に音読指導をするとき、どのような点に注意して指導をするのか。
一つめは、地の文の読み方である。
地の文で大切なことは「正確に読む」ということである。
重要なポイントは次のことが考えられる。
1 口を十分に開く。
2 キーワードをつかんで読む。
3 点では止まり、丸では休む。
4 息を上手に吐きつつ読ませる。

二つめは、段落の変わり目の指導。
1 スタートは静かに始める。
2 話題が変わる場合は、気分もかえる。
3 同じ話題は、同じ気分で。
4 時間的な隔たりがある場合は、十分に間をあけてから、調子を落として読む。

三つ目は、読点がなくても、前後をあけて読むとき。
1 特に大事な言葉の前後はあけて読む。
2 繰り返し言葉の前後はあけて読む。
3 会話の前後はあけて読む。

固有名詞、鳴き声、音響、会話などは、それぞれほかとは区別されるべき特性を備えている。
それにふさわしい音読をするための一つの工夫が「前後をあける」ということである。
間の取り方が重要であるが、微妙な間であるため文章の持ち味を生かすよう工夫が必要である。

SCENE20(saitani)


ノーサイド

2005年05月04日 01時08分46秒 | 学級経営
教師2年目に初めて学級担任をもった時の学級通信のタイトルが「ノーサイド」だった。
その第1号に「発刊に寄せて」という題でこんなふうに書いている。

ラグビー、そうあの楕円形のボールを敵、味方15人ずつに分かれて奪い合うスポーツです。
そのラグビーの試合終了を告げる言葉、それが「ノーサイド」です。
新学年が始まったばかりなのに、もう終わりだなんてと思われるかもしれません。
しかし、もともと教育とは「別れを目的とした営み」なのです。
教育とは「もはや教育を必要としない人間」に育てることを目的としているのです。
だから、教師にとって教え子との別れは必然的なことだと思います。
来年の3月、どの子もたくましく成長し、胸をはって5年生になれるよう、私は日々努力をしていきます。

「ノーサイド」を選んだ理由を、これから書きます。
第1の理由は、私がラグビー本来の精神が好きだからです。
ONE FOR ALL,ALL FOR ONE
これがラグビーの基本精神です。
だから、喜びを分かち合い、失敗の責任も分かち合うのです。
ラグビーのプレイヤーはトライを決めたときにも、絶対に高校野球やサッカーのように派手なガッツポーズをとったりしません。
それは得点できたのは自分の力だけの力ではなく、自分にパスをした仲間、タックルされて倒れそうになった仲間、キックせずにパスを回した仲間、たくさんのプレイヤーの手を経て、初めてトライが成立することをよく自覚しているからです。
こういったふうに、何かをやりとげるとき「個人のプレーや個人の手柄はあり得ない」というこの精神が私は好きだからです。

第2の理由は、この言葉がスポーツマンシップ、友情を表す言葉だからです。
試合終了を告げる言葉は、スポーツによって異なります。
バスケットボールでは、タイムオーバー、テニスや野球ではゲームセット。
しかし、どの言葉も、すべて終わりを意味します。
ただ、「ノーサイド」だけは、たとえゲーム中は敵、味方であっても、試合が終われば同じスポーツマンとしてたたえ合うといった考えに基づき、敵サイド、味方サイドもない、すなわちひとつの仲間であるということを意味しています。
これから1年間、子どもと私、子ども同士、ぶつかりあい、鍛え合います。
でも、根底にあるものは「ノーサイド」の精神であってほしいと思うのです。
私は、技量も未熟で、力量も不足しています。
しかし、教育に対する謙虚さと誠実さはもっているつもりです。
これからの日々に夢は果てしなく続きます。

今読み返してみると本当に恥ずかしい、できれば記憶から消してしまいたいほどの稚拙な文章である。
何の技術も方法論ももっていない駆け出しの時代の自分に何が出来るかも分からずに書いた文章である。
若いと言うことは、何事もおそれない、自分の限界を意識せずに新しいことに挑戦していく純粋な心を持っていると言うことである。

SCENE19(saitani)


出口論争2

2005年05月03日 00時01分30秒 | 国語科
出口論争が収束し、時の流れと共に残された課題は何か。
それは次の三つが考えられる。
1 斎藤喜博が指導した「出口」授業は結局どう評価されるべきなのか。
2 「ゆさぶり」は果たして一般的な授業方法として、広く使われてもいいのか。
3 「ゆさぶり」が効果的なのは、どんな授業場面なのか。

一つめ、「出口」授業をどう評価するのか。
出口授業の概略は次の通り。

出口という言葉が問題になって、子どもたちは、出口とは境界線だと簡単に解釈した。
このままに通り過ぎると、浅い授業になると判断した斎藤喜博が介入指導して、別の解釈を示した。
出口とはもっと広い境界域である。
この考えを子どもたちに示し、子どもの解釈をゆさぶった。
子どもたちは活発に考えあい、話し合って、出口についての広く深い見方に到達した授業。

「ゆさぶり」の典型的な授業と評価された面もあるが、本当にそれだけの価値ある内容だったのか。
境界線と境界域に関しても、後に斎藤が語っているように、どちらも間違いとはいえない解釈である。
そう考えるとあえてゆさぶる必要性があったのか疑問は残る。
「ゆさぶり」を行うには、もっと重要な場面、子どもたちの考えや解釈が大きく妥当性とかけ離れているときに教師が介入すべきだ。

ふたつめ、「ゆさぶり」は教育の一般的方法となるのか。
この出口論争を通して、「ゆさぶり」という新たな方法概念が登場してきた。
「ゆさぶり」に関しては、肯定と否定の立場が鋭く対立してきた。

みっつめ、「ゆさぶり」はどんな授業場面で有効なのか。
この方法を使う場面は二つのことが考えられる。
1 子どもたちが、表面的な浅い解釈や、部分的な狭い解釈をしているとき。
2 子どもたちが重大な誤った観念をもち、それに固執しているとき。

1の場面では、それほど強いゆさぶりは必要ないと思われる。
2に場面では、この「ゆさぶり」という概念が広く教育界に理解される前に、「概念くだき」という言葉で戦後教育の中で行われてきた手法である。

SCENE17(saitani)





「かたちあるもの」

2005年05月01日 12時09分13秒 | 趣味
8月発売からロングセラーの大ヒットとなっている曲に、柴咲コウの「かたちあるもの」がある。
この曲はテレビドラマ「世界の中心で愛をさけぶ」の主題歌である。
私も最近知ったのだが、このドラマがヒットしたきっかけとなったのは、柴咲が雑誌「ダ・ヴィンチ」で原作小説にコメントし、その中の「泣きながら一気に読みました。」という言葉が小説の帯に載ったことだったという。
「かたちあるもの」は白血病で短い生涯を閉じる廣瀬亜紀の視点でかかれた歌である。

「夜空に消えてく星の声 儚げに光る鈍色の月 二人で泳いだ海は何故 束の間に色変えてゆくんだろう」

「もしもあなたが寂しい時に ただそばにいることさえ できないけど」

「泣きたいときや苦しいときは 私を思い出してくれればいい」

生涯を終えようとする亜紀が朔太郎への思いを悲しく表現している。
なぜ、「世界の中心で愛をさけぶ」が人気を集めたのか。
こんな言葉がある。
「純愛ブームだから」「携帯電話がなかった少し前の時代の話が若い世代に新鮮だった」。
どちらも大きな要因であると思う。

ヒット曲にも様々な形があるが、この曲に関しては、死にゆく女性の恋人への思いを歌ったヒット曲は非常に珍しいという。
「白血病でヒロインが死ぬのは安易だ」「ものがたりがあっさりしぎている」という批判もあるが、人生の中で一番多感であり、純粋な時代に、恋人がなくなるという経験をすれば、物語はリアリティに欠けたとしても共感できる部分はあると思う。

「世界の中心で愛をさけぶ」は、「死」の問題へのまっすぐな「模範解答」であると考える人もいる。

SCENE17(saitani)