飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

練習問題の丸付け

2021年07月05日 09時35分46秒 | 授業論
以前のブログに教室内で行われる教育的行為にはすべて意味があると書いた。
その行為の意味を理解できる教師は力量があがり、理解できない教師は、現状のままか退歩する。
優れた授業をみても、あれども見えずの状態なのである。
「なぜ、あのときあの指示をしたのか」「なぜ、あのとき視線を移したのか」等、細部にいたるまでその行為の意味を追求する。
そのことにより、優れた授業の原理原則が見えてくる。
ただ漠然と優れた授業を参観しても、まったく意味がない。
「子どもたちが生き生きと活動していましたね」程度の感想しかコメントできない。

例えば、どの教室でも行われている練習問題の丸付け。
答えを見て、子どもたちが丸をつける。
教師が解説しながら丸をつけさせる。
間違ったところを答えをみて直させる。
この程度のことはやっているだろう。
さらに、練習の問題のできたできないを記録させる、練習問題の番号に○×をつけさせせることをやっている教師もいる。
できなかった問題だけをやらせる。
これは大原則である。

丸付けの段階。
まず、第1段階。
答えを見ながら正確に○×をつけて、×には正しい答えを書いている段階。
最低限、このことをきっちりをやらせないと全く時間の無駄となる。
となりどうしで確認させるくらいのことは必要だ。

第2段階。
×の問題を計算途中にまで遡り、間違いを見つけ、そこまで直している。
自分の計算途中の間違いを自分で見つけられれば、次に同じ問題で間違う可能性は低くなる。
だから、教師は計算途中の過程を消さないように指導するのである。
教師はノートチェックをするならば、計算途中が直っているかどうかを見る
ただ、答えが書かれているかどうかをみてもまったく意味がない。

第3段階。
間違った問題をもう一度解き直してみる。×をつけるだけではなんで自分が間違えたのかが全く理解できない。ただ、ノート作りのために作業をしているだけになる。
そして、間違いを自分で理解できないかぎり、また、同じ間違いを繰り返すことになる。
練習をあんなにさせたのに、テストができないという理由はこのあたりにある。

第4段階
自分の間違いの原因を言葉で書かせる。
言葉にすることは時間もかかるし、面倒な行為ではある。
しかし。思考は話したり、言葉にすることで明確になるのである。
すべてをそうすることは時間的にも難しいならば、とくに子どもたちが弱点としている単元だけでもその活動をさせるべきだ。

saitani