季節外れの曲が始終、頭の中を駆け巡る。
1980年代前半に流行った、ワムのXマスソングだ。
古いね! ( ^^) _U~~
でも、私が何かしようとするときの、自分のリズムに、一番合っている曲なのだ。
きっと、鼓動というか、脈拍の動きと同じテンポなのかもしれない。
一番、しっくりする。
そうそう、SMAPの曲もそうだ…。
あのリズムも、テンポも、私の体にはマッチしてる。 (⌒▽⌒)アハハ!
季節外れの曲が始終、頭の中を駆け巡る。
1980年代前半に流行った、ワムのXマスソングだ。
古いね! ( ^^) _U~~
でも、私が何かしようとするときの、自分のリズムに、一番合っている曲なのだ。
きっと、鼓動というか、脈拍の動きと同じテンポなのかもしれない。
一番、しっくりする。
そうそう、SMAPの曲もそうだ…。
あのリズムも、テンポも、私の体にはマッチしてる。 (⌒▽⌒)アハハ!
茨城県に住む友人から、嬉しい小包が届けられた。
箱の中には、色とりどりのお菓子がいっぱい。
畑の恵みを…と言って、梨やら、ブドウやら、柿やら、メロンやら…。
最近は、キィウイまで送ってくださる。
彼女の心遣いを感謝しつつ、美味しくいただいてるのだが…。
今回の贈り物は、ちょっと、意味合いが違うようだった。
ご主人様の病気が悪化して、彼女の毎日は看病で明け暮れているらしい。
彼女とは、もう、30数年前に、内田康夫氏の浅見光彦出版パーティで知り合った。
軽井沢のプリンスホテルで、同じテーブルに座ったのが縁だ。
その後、生涯の心の友となる、金沢の親友を紹介してくれたのも、彼女だ。
茨城に遊びに行くたびに、彼女のご主人が車を出してくれて、筑波山や、笠間稲荷など
行ったものだった。
中でも、土浦の予科練に行った時の戦車と桜の光景は、今でも目に焼き付いている。
仕事がうまくいかない時、この予科練の展示室で、無念にも若く散っていった同胞を
想い、「小さなことでくよくよしてる自分」に叱咤激励をするんですよ…と、苦笑いしていたご主人の姿を覚えている。
そのご主人が糖尿を患い、車も手放し、会社も義弟(彼女の弟)に譲り、闘病生活を送ってる由、伺っていたけれど…。
今度は、パーキンソン病に罹患し、食事も一人ではできない体になってしまわれたとか…。
金沢の亡き親友のお墓参りに、一緒に行きたいから連れて行ってね…と、お願いしたけれど、無理になったから…と、彼女は詫びた。
週3回の透析に加え、パーキンソン病では…。
とても、留守はできないから…と、彼女の手紙には悲壮感が漂っていた。
なんと、言葉をかけていいのか、わからなかった。
若い日の颯爽としてたご主人の姿が浮かんできて…。
すぐに、メールを出した。
「玉手箱のような贈り物。 すごく、嬉しい。 ひょっとして、私、愛されてる…?!
ご主人様と一緒に行った、いろいろな場所やお姿。
しっかり、覚えているよ! 忘れられないよ♪」
即、返信メールが。
「アハハ♬ あなたは大切なヒトよ❤」
嬉しすぎるよ♪
今日は、生きていれば、母は103歳となる。
今は、元気な老人が多くなったから、母も…と思わずにはいられない。
62歳で亡くなったから、もう、そろそろ、記憶も乏しくなってくるか…と思っていたけれど。
どっこい! 母のことは忘れたことがない。
愛用してた着物の柄のこと。
酸っぱい果実が大好きで、口をすぼめて食べていた顔。
始終、明るく、歌を口ずさんでいた母。
私は、本当に母が好きだ♪
母は6歳の時実母を亡くした。
祖父は、子供のため…と言って、のち添えはもらわなかったそうだ。
母の実家は、小さな魚市場を営んでいたそうで、経済的には困らなかったし、古くからのばあやさんもいて、人並みの少女時代を送ったそうだ。
でも、母親がいないということは、何か、欠けてるものがあったらしい。
私たち子どもを育てるときも、わからなかったことが多かったようだ。
「私は、ある意味、片輪で育ったから、あんたたちを育てるのに、何か、欠けていることもあるかもしれない。
ごめんね!」
が口癖だった母。
そして、19歳の時、父を亡くした。
家族縁に薄かった母だ。
いつも、自分の家族を守るために、がむしゃらに働いていた母を想うと、なぜか、涙がこぼれる。
働き者の母は、体を壊し、40代後半くらいから、ベッドでの生活が多くなってきた。
実家の父が営んでいた非鉄金属の商いも、母が要となって働いていたのに…。
明るかった働き者の母は、人が変わったようになってしまった。
病というのは、恐ろしいものだと、母を見ていて思った。
今、私が曲りなりとも、幸せに暮らしていられるのは、両親のおかげ。
感謝してもしきれないほど、大きな慈愛をいただいている。
私には4歳違いの妹がいる。
が、私が早生まれなので、学年は5年の開きがある。
私が6年生になったとき、妹は、やっと1年生。
だから、姉妹と言えども、共通の話題もなく、冷ややかな関係だ。
ましてや、妹は姉よりも資質的に上だし、出来損ないの姉を、苦々しく感じていただろう…。
一族の中で、姉の私は唯一の「女の子」だったから、親戚中にちやほやされたし…。
出来の良い妹が姉の後塵を拝するのは、彼女にとっては我慢できなかったことだろう…。
妹は成人してから、外資の会社に勤務し、長いこと海外で暮らしていた。
帰国して拠点を日本に移したのは、わずか、10年前のこと。
浦島太郎状態の妹は、珍しく姉を頼った。
生まれてから、初めて、姉妹らしい生活が続いた。( ^^) _U~~
お芝居を見に行ったり、旅行をしたり、美味しいものを食べに行ったり…。
が、そんな蜜月時代も長くは続かなかった…。
主人の義姉問題が持ち上がってきたのだ。
主人にとっては親ほども年齢に開きのある義姉。
異常なほど、大事にしている。
独り住まいの生活に終止符を打ち、ホームでの生活を選んだのだが…。
何かにつけて、実家(弟の家)を当てにする。
ある年のお正月のこと、例年ならば、私の妹が滞在するはずだった。
そこに、急遽、割り込んできた義姉。
ホームから我が家に帰省すると言う…。
弾き飛ばされた妹。
プライドの高い妹のことだ。
それ以来、我が家の敷居をまたぐことは無い。
季節ごとに、安否のメールを出すが、滅多に返信もしてこない。
その妹から、珍しく連絡が…。
貸金庫を解約したから、代理人カード(私名義)を銀行に返却しに行ってほしいとの依頼だ。
もともと、私の縁で、取引した銀行だ。
わざわざ、遠くの銀行で口座を開かなくても、近間にも銀行はいくつもあるだろう。
早速、出向き、ミッション終了。
銀行からの受領書を郵送する旨、妹に連絡した。
すると、
「有難う♪ 感謝です! ……」
という返信メールが届いた。
妹にしたら、かなりの長文。
あれまぁ~、こりゃぁ、「驚き・桃の木・山椒の木」だわ!! ( ^^) _U~~
夜干しがいけないことだ…なんて、今時、誰も言わないことだろう。
でも、我々、昭和の人間は、姑から、夜干しはいけないと、口が酸っぱくなるほど言われたものだ。
多分、夜、干すと、夜露が洗濯物を濡らす。
特に子供のものなどは、昼間、お日様の光をたっぷりと浴びさせたい…と言う親心からの言い伝えなのかもしれない。
亡くなった人のモノは夜干しをするから、それで、忌み嫌ったのかも…。
昨今、我が家の近所はお若い世帯が増えた。
それで、特に目に付くのかもしれないが…。
右も左も夜干しだらけ。
昔と違って、ママたちも働きに行ってるし、日中は干せないこともあるだろう…。
世の中の仕組みが変わってきたというのに。
昔人間の石頭の主人は、文句、たらたらだ。
姑の言うことを、素直に聞いていた若い嫁だった自分が、なんか、いとおしい♬
アハハ♬( ^^) _U~