明日,8月15日は「終戦の日」。第二次世界大戦(太平洋戦争)終結から75周年を迎えるにあたり『ビルマの竪琴』を読み返えしてみた。
『ビルマの竪琴』のあらすじ
ビルマの戦線で英軍の捕虜になった日本軍の兵隊たちにもやがて帰る日がきた。が、ただひとり帰らぬ兵士がいた。なぜか彼は,ただ無言のうちに思い出の竪琴をとりあげ,戦友たちが合唱している ”はにゅうの宿”。の伴奏をはげしくかき鳴らすのであった。戦場を流れる兵隊たちの歌声に,国境を越えた人類愛への願いを込めた本書は,戦後の荒廃した人々の心の糧となった。
帰ろうよ水島上等兵よぶ声のこだまに耐えてつれだてる二羽
玉井清弘『屋嶋』(出所:角川短歌2016年8月号 p80)
『ビルマの竪琴』p7~p8
われわれは三日ほどこの町に駐屯して毎日合唱しました。その曲は「春高楼の」だの「菜の花畠に」のようなむかしなつかしいものから、賛美歌の肝もあり、くだけたものでは「パリの屋根の下」、それからもっとむずかしいドイツやイタリアの名曲まであるという風でした。
ここの湖のほとりで、隊長はうれしそうに指揮棒をふりました。われわれも胸の底から声をだして、自分たちの合唱にききいりながら、この絵のような湖にむかって歌をうたいました。
それから、わが隊のお得意の 「はにゅうの宿」を、三重唱四重唱にしてくりかえして練習しました。
「はにゅうの宿」 - この故郷の家をおもう歌は、いっさいでも心にしみ入るような曲です。
われわれはうたいながら、この目の前の景色を故郷の家の人たちに見せてやりたい、この歌の声をきかせてやりたい、と思いました。
合唱が終ると、隊長はいいました。
「よし、きょうはこれだけにする。あしたはまたこの時間に、今度はあたらしい歌を練習する。分れ」
そして、隊長は一人の兵隊をよびました。
「おい、水島、伴奏はできたかね」
水島とよばれたのは上等兵です。中背のやせた人で、ひきしまった体は日にやけてほとんどまっ黒ですが、大きなきれいに澄んだ目が町んでいます。
この人はこの隊に入ってからはじめて音楽を知ったのですが、元来天分があったとみえて、みるみるうちに非常な上達をしました。自分でも夢中で音楽にこって、寝てもさめても歌のことを考えていました。ことに、自分で楽器をこしらえて合唱の伴奏をするのですが、それがすばらしい腕前で、さまざまの曲にさまざまの伴奏を立ちどころに作りました。
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「ビルマの竪琴 (新潮文庫)」
水島上等兵モデル 僧侶の中村一雄さん
小説「ビルマの竪琴 (新潮文庫)」の主人公,水島上等兵のモデルだったとされる僧侶の中村一雄さんは,2008年12月17日,老衰のため群馬県川場村の病院で死去された。92歳だった。
徴兵でマニラ,ビルマ(現在のミャンマー)など東南アジア各地を転戦し,ビルマ戦線で敗戦を経験した。仲間と合唱隊を結成し,捕虜収容所などを回り,「荒城の月」や「さくら」などを合唱して日本兵を励ました。戦後,合唱隊のことを聞いた竹山道雄が「ビルマの竪琴」として出版。
復員後,雲昌寺の住職に。ビルマ戦線の体験を童話にした「ビルマの耳飾り」などの著作も残した。
福井県の寺院で修行を積んでいた昭和13年に招集され,東南アジアを転戦し,20年,ビルマ(現在のミャンマー)で終戦を迎えた。
捕虜収容所では,帰国のめどさえつかない日々の中で,消沈する仲間に声をかけ,コーラス隊を結成。「荒城の月」など祖国の歌で,日本兵を激励し続けた話が,作家の竹山道雄氏(故人)に伝わり,戦争の悲劇を後世に伝える名作「ビルマの竪琴」が誕生した。
復員後は学生時代から関心の高かった児童教育に邁進(まいしん)し,33年には住職に就いた雲昌寺(群馬県昭和村)の敷地内に保育所を設置した。さらに,児童文学作品の執筆にも取り組み,講談社児童文学新人賞を受賞した「ビルマの耳飾り」では反戦の信念を表現した。
当時,仕事を共にしていた女性保育士は「登園時間には決まって門に立ち,『御利益があるぞ』と園児たちの頭をなでて,うれしそうにしていた」と住職中村氏の思い出を語る。本当に子供が好きな人だった。
photoの出所:Google Map
▼雲昌寺
住所 〒3791205 群馬県利根郡昭和村大字川額1175
最寄駅 岩本駅(JR上越線)