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篤姫 総集編2  小松帯刀の功績

2008-12-27 00:10:20 | 小松帯刀
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 波乱に満ちた篤姫の物語は,終わりました。回を追うごとに視聴率は上昇。関東地区では年間平均24.5%,第48回は29.2%を記録しました。
 ドラマでの篤姫は,島津斉彬,井伊直弼,西郷,和宮,滝山,幾島,・・・と篤姫と立場や価値観の違う人たちを,次々と説得し味方に引き寄せる,あるいは理解を取り付けていってしまいました。そして,難問,危機を見事に克服していく篤姫に,喝采を送りました。

▼小松帯刀の経歴
 小松帯刀は21歳の時江戸で奥小姓として第11代藩主島津斉彬(なりあきら)に仕え,斉彬の強く影響を受けました。斉彬亡き後,後継の島津久光に才能を見出され,28歳で側詰兼家老となり,勝手方掛,軍役掛,琉球掛,産物方掛,唐物取締役掛,製薬方掛,蒸気船掛などを双肩に担い,島津久光の懐刀として活躍。

 その後,ほとんどを京都で過しています。京都では,朝廷や江戸幕府,諸藩との連絡・交渉役を務めました。京都で薩長連合に奔走する中,土佐藩士の坂本龍馬と親しくなり,坂本龍馬がお龍を妻として迎えたとき,その世話役も務めています。寺田屋事件で坂本龍馬が負傷した際には,妻・お龍と共に鹿児島に招き療養に務めさせました。〔ちなみに坂本龍馬のこの旅行は日本で始めての新婚旅行と呼ばれている。

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 小松帯刀は,鎖国という状況のもとにあって,掟破りとも言える発想で,西洋の技術や文化を積極的に採りいれた。藩主島津成彬の意をうけて1861年には長崎で洋水雷、砲術の知識を学ぶとともに,オランダ艦船に搭乗し軍艦の操縦術を習得。
 家老就任後には,生麦事件に端を発した薩英戦争(1863年)でイギリスと戦火を交え,その科学技術力の高さを身をもって体験したことから,講和成立後は一転して英国との親交を深め,留学生を派遣するなどして先進技術の導入に取り組んだ。

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