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時代の転換期はこうして乗り切れ!薩摩藩,島津義久に学ぶ経営術

2017-10-21 00:00:33 | 鹿児島ゆかりの人

 

  10月21日(土)~22日(日)  妙円寺詣り行事大会 

 例年 妙円寺詣りは,10月の第4土から日曜日にかけて行われています。武者行列や郷土芸能が披露され,多くの市民らが参加します。その起源は,1600年の関ケ原の戦いで敗れた島津義弘が敵陣を中央突破して帰郷した勇猛さをたたえ,鹿児島城下の武士が義弘の菩提(ぼだい)寺の妙円寺(現在の徳重神社)まで往復40キロを歩いたのが起源とされます。
 昨年は,関ケ原町と兄弟都市盟約50周年記念事業により,関ケ原鉄砲隊による演武が披露されました。


・場所 : 徳重神社日置市伊集院町徳重1786 ‎ (JR伊集院駅から徒歩5分)
・駐車場 : 1000台(無料)


◆「第64回妙円寺詣り行事大会実施要項」    http://www.city.hioki.kagoshima.jp
 
趣 旨: 郷土の誇る歴史的伝統美風の伝承を図るとともに,スポーツを通して県民(市民)の健康・体力づくりに貢献し,ぬくもりと活力に満ちたまちづくりの輪を広げる。
期 日: 2017年10月22日(日)
 〔奉納行事は,10月21日(土)〕 空手道競技は, 年 月 日( )伊集院総合体育館で開催
会 場
 弓道,相撲競技:徳重神社内
 剣道競技:伊集院総合体育館
 柔道競技:伊集院小学校体育館
 銃剣道競技:伊集院武道館
 ゲートボール競技:伊集院総合運動公園チェスト小鶴ドーム及び日置市伊集院
奉納行事 10月21日(土)
 ア 徳重太鼓踊り(鹿児島県指定無形文化財) 13:30~14:00 保存会

 イ 伊作田踊り 14:00~14:30 保存会 

 ウ 吉利北区太鼓踊り 14:30~15:00 保存会 

 エ 伊作太鼓踊り(鹿児島県指定無形文化財) 15:00~15:30 保存会

 オ 妙円寺詣りの歌暗唱披露 15:30~15:50 児童生徒 

 カ 大田太鼓踊り(鹿児島県指定無形文化財) 15:50~16:20 保存会 

 キ 薬丸野太刀自顕流 16:20~16:50保存会


武者行列参拝
 (1) 10月21日(土)
  ・ 鹿児島市学舎連合会  17:25~18:00
  ・ 伊集院町妙円寺詣り武者行列保存会  18:00~19:00
 (2) 10月22日(日)
  ・ 美山少年隊 13:30~14:00
  ・ 伊集院町妙円寺詣り武者行列保存会 14:30~15:00
  ・ 永吉南郷会 16:30~16:50
  ・ 日置責善舎 16:50~17:10
  ・ 吉利妙円寺詣り保存会 17:10~17:30
  ・ 市来猶興舎 17:30~17:50

 

 


>>> 時代の転換期にあって!  薩摩藩,島津義久に学ぶ経営術
          出典:「飲食業界で生きる人」のための情報サイト   http://www.tenpo.biz/tentsu/entry/2015/12/14/090000

皆さんは島津義久(しまづよしひさ)という人物をご存知ですか?戦国時代,薩摩(現在の鹿児島県)・大隅(現在の鹿児島県)・日向(現在の宮崎県)の三州の守護職を務めた武将です。


島津義久には戦国最強と謳われる3人の弟(義弘・歳久・家久)がいました。幼少期,いずれも勇猛果敢で優秀な弟に比べ,義久は大人しく目立たない子供でした。


しかし,祖父の忠良から叱咤激励を受けた義久は九州を席巻しやがて鎌倉時代から続く名門島津家の最強にして最高の政治家へと変貌を遂げました。


そんな島津義久は時代が大きく変化した戦国時代をどのように生き抜いたのでしょうか?めまぐるしく時代が変化する現代を生きる経営者の皆様に島津義久の経営術を紹介します。

○部下を適材適所に配置し仕事を任せる

幼少の頃は優秀な弟たちと比べると見劣りしていた義久ですが,戦を重ねるごとに当主として成長し,圧倒的に不利な戦でも部下の器量を見抜き絶妙な陣配置で勝利を重ねていきました。


三州(薩摩・大隅・日向)を制圧した後,弟の家久を肥前(現在の佐賀県)に派遣し龍造寺隆信を滅ぼし,豊後(現在の大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)を滅亡寸前まで追い詰めました。


戦においては部下を適材適所に配置した後は部下のやり方に任せ,自ら動かずして勝利を収めていた義久ですが,部下の言いなりになってばかりいた訳では言いなりになってばかりいた訳ではありません。ここぞという時はどんなに部下が反対しても自分の意見を押し通しました。


○豊臣政権下での出来事
本能寺の変により織田信長が自害に追い込まれ政権は織田から豊臣へと移りました。勇猛果敢で知られる弟・義弘は,時の人豊臣秀吉に気に入られようと朝鮮出兵に力を入れます。


戦況が不利になる中朝鮮にいた義弘は再三義久に援軍の要請をしますが,義久が兵を朝鮮に派遣することはありませんでした。朝鮮出兵が失敗に終わると予想した義久は必要以上に出兵する事をせず,義弘にも秀吉に近づき過ぎるなと警告します。


結果,朝鮮出兵は失敗に終わり多くの藩の国力が減少する中,島津藩は国力の消耗を避ける事ができ,やがて来る天下分け目の関ヶ原の合戦に万全な体制で臨むことができました。

◆時代の空気を読む

島津家は関ヶ原の合戦で毛利輝元率いる西軍として戦いました。結果は徳川家康率いる東軍が勝利し政権は豊臣から徳川へと移ります。


関ヶ原の合戦に勝利した家康は戦後西軍として戦った武将を厳しく処罰しました。多くの藩がお取り潰しや所領削減に追い込まれる中,島津藩だけは誰も処分される事無く所領も安堵されます。

※安堵(あんど)とは,古代末期から近世にかけて日本の土地私有制度において,主君(もしくは支配者)が家臣(もしくは被支配者)に対して所領知行(土地権利)や所職の存在・継続・移転などを保証・承認する行為を指す。

なぜ島津藩だけ処分を免れる事ができたのでしょうか?それは,義久に先見の明があったからこそです。

義久は西軍として戦いはしていましたが戦後を見据えどちらが勝利してもいいように兵力を温存していました。西軍が敗れた後,家康は戦犯として弟の義弘の出頭を要求しましたが,義久は義弘を隠しのらりくらりと答えを先延ばしにします。


兵力を温存しておいたお蔭で,関ヶ原の合戦で疲弊していた徳川軍は島津藩を攻め切る事ができず,最終的に義久は義弘を差し出すことなく守り通し,所領も削減される事はありませんでした。この事により『この人(義久)の為なら何でもやる』という部下が増え島津家の団結をより一層強固なものにしたと言われています。


島津義久から学んだ経営術
・平常時は部下に仕事を任せ,ここぞという時は誰になんと言われようと自分の意志を貫き通す。
・何が何でも部下を守り通し,先の先を読み行動する。

参考文献
 桐野作人 島津義久 九州を席巻した知将 PHP文庫
 森村誠一 忠臣蔵〈上〉〈下〉 徳間文庫















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