後藤新平賞に黒柳徹子さん ユニセフ大使や聴覚障害者支援で
地域や国の発展に寄与した人をたたえる「第13回後藤新平賞」に黒柳徹子さん(85)が選ばれ、14日に授賞式が行われました。
第13回後藤新平賞を受賞した黒柳徹子さんは国連児童基金・ユニセフの親善大使として世界中を奔走しながら、聴覚障害者の支援を進めてきたことなどが評価されました。この賞は関東大震災からの復興を担うなど、日本の近代化に貢献した後藤新平の生誕150年を記念して2007年に創設されました。これまでに細川護熙元総理や建築家の安藤忠雄さんらが受賞しています。
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◆このブログでの黒柳徹子さんの記事-バックナンバー
・「トットちゃん!」こと,黒柳徹子さんのこと -精神の核- 2017-10-04
・黒柳徹子さん 沢村貞子さん宛ニューヨークからの手紙-「日本,東京都,渋谷区,沢村貞子様」 2016-05-23
・黒柳徹子さん-トットひとり 2015-07-22
黒柳徹子さん著の『トットひとり』 。
戦中戦後の少女時代の体験をつづった自伝的物語「窓ぎわのトットちゃん」がベストセラーになってから30余年が過ぎた。今また傘寿にあって,森繁久弥,向田邦子,沢村貞子,渥美清,井上ひさし,つかこうへい,高橋昌也,杉浦直樹,山岡久乃,賀原夏子,森光子-.....と,「自分と同じ匂いがする仲間」の生き方と別れ方を鮮やかに綴っている。トットちゃんの記憶から,あの人,この人の楽しくてもの悲しいエピソードが全編にあふれている。
向田邦子さんの20回忌での森繁さんの挨拶がふるっていた。「向田君と私があやしい,などと言う人がよくいまうが,これは誓って言います。私と向田君とは何もありませんでした」
テレビ草創期を共に過ごした森繁久彌さん。森繁さんは,最初に会ったころから,「1回,どう?」が口癖で,それが50年も続いた。そんな森繁さんが88歳の時,「徹子の部屋」の収録中に黒柳は声を張り上げた。「森繁さん,ちゃんとやって頂かないと困るんです。森繁久弥という俳優が,どんなに魅力的で,ステキな方か,という事を知って頂きたいのに(後略)」
すると森繁さんは居住まいを正して,萩原朔太郎の「利根川のほとり」という詩を朗々と,感情を込めて,暗唱し始めた。
きのふまた身を投げんとおもひて
利根川のほとりをさまよひしが・・・・・・・・・
圧巻だった。涙が出た。胸がつまった。
黒柳さんが留学と称して,一年ほど,ニューヨークで休養に行っていた時,森光子さんから届いた手紙。そこには,「お小遣いに困っていませんか。いつでも言ってね」。
夫に先立たれた沢村貞子さんは,87歳で『老いの道ずれ』という著書を出版した直後,「徹子の部屋」でこう語った。「人間て,一生懸命やると後悔しないものよ。だって,出来るだけの事,やったもの。(中略)これで,さらりと,おしまい!」
兄ちゃんと慕う渥美清さんは,いつも「お嬢さん」と呼んでいる妹分をよくからかった。その兄ちゃんの最後となった留守番電話のメッセージは,「お嬢さん,お元気のようですね。私は,もうダメです。お嬢さんは元気でいて下さい」。
2011年の秋の初めに,杉浦直樹さんが死んだ。これで,私の芸能界における<家族>は本当に,みんな,いなくなってしまった。母さんとよんでいた沢村貞子さん,お兄ちゃんの渥美清さん,お姉さんの山岡久乃さん,そして,セイ兄ちゃんと呼んでいた杉浦さん,これで全部。
家族とも思っていた大事な人,大好きな人,自分と同じにおいのする人たちが,一人また一人と亡くなった。そんな人たちの思い出とともに,自身の結婚未遂事件や,現在の心境までを熱く率直に綴ったエッセー集である。
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2016年4月からNHK総合テレビで放映された黒柳徹子さんの自伝エッセー「トットひとり」「トットチャンネル」を原作にしたドラマ「トットてれび」。その5月21日放送の第4話では,ニューヨークから黒柳徹子さんが,沢村貞子さんあてに出した手紙の宛名が,
「日本,東京都,渋谷区,沢村貞子様」
脇に,「住所録忘れました,郵便屋さん,よろしくお願いします。黒柳徹子」
町名,番地無しであったが,郵便屋さんが,ちゃんと届けてくれた,とのエピソードが取り上げられていました。
この手紙の一件と黒柳さんと沢田さんの交友を,沢村貞子さんのマネジャーを永く務めた山崎洋子さんが,自著『沢村貞子という人』で,次のように書いています。
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「日本,東京都,渋谷区,沢村貞子様」
脇に,「住所録忘れました,郵便屋さん,よろしくお願いします。黒柳徹子」
海外からの手紙である。
町名,番地無しだが,黒柳徹子さんにお願いされた郵便屋さんは,ちゃんと届けてくれた。
沢村さんは,「チャックって,ほんとに,おもしろい子だわねえ」 と,言い,ひとしきり,みんなで笑わせていただいた。
黒柳さんは,地方からはもちろん,海外からも必ず,手紙や絵葉書をくださり,夫妻は,それを,たのしみにしていた。
地方公演は,毎日のように移動があり,途中で,「徹子の部屋」等の収録のため,東京に帰る,といった,大変なスケジュールのはずである。
「チャックが送ってくれたのよ」
と,地方のめずらしいお菓子など,私も,よく御馳走になった。父さん母さん(黒柳さんは,大橋さん沢村さん夫妻のことをこう呼んでいた)に食べさせたいと思ってくださっただけでも,うれしいが,送る手配をすることって結構めんどうなことなのに。
海外でのスケジュールはさぞかし大変なものだろうと想像され,私はいつも,よく書けるものだと,不思議に思っていたが,黒柳さんの著書『小さいときから考えてきたこと』を読み,やはり,そうだったんだと納得した。
「私は,この四十年間,外国に行った時,必ず,二枚の絵葉書は,出した。どんなに苦労しても,出した。それが,母さんと(* 沢村貞子さん),兄ちゃん(渥美清さん)だった。この秋,仕事でニューヨークに行き,絵葉書屋さんの前で,私は立ち止った。唇をかんだまま,しばらく動けなかった」 簡単にポイと出した絵葉書では,なかったのだ。 ・・・・・・・・・(以下略)
『沢村貞子という人』 p167~p168 山崎洋子著・新潮社刊
小さいときから考えてきたこと (新潮文庫) | トットひとり | わたしの献立日記 (中公文庫) | |||||||
562円 | 1620円 | 741円 | |||||||
◆後藤新平(ごとう しんぺい)
安政4年6月4日〜昭和4年4月13日(1857年7月24日〜1929年4月13日)
父は水沢藩士。須賀川医学校卒。明治14年(1881)愛知県病院長兼愛知医学校長となる。16年内務省衛生局に入る。ドイツ留学をへて25年衛生局長に昇進。31年児玉源太郎台湾総督により民政局長に抜擢、のち民政長官。36年貴族院議員に勅選。第2次、第3次桂内閣で逓相、鉄道院総裁、寺内内閣では内相、外相等を歴任し、シベリア出兵を推進。大正9年(1920)東京市長となる。第2次山本内閣内相兼帝都復興院総裁として、大震災後の東京復興計画を立案。ソ連との国交樹立にも関与した。
出典:国会図書館サイト https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/79.html
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内容紹介
授業中にちっともじっとしていられなくて、どうやらLD(学習障害)だった(?)子供時代。ロボット犬グレーちゃんとの愉快なテレビ出演、沢村貞子や渥美清等かけがえのない人々との出会い、そしてユニセフの親善大使としてコソボやアフガニスタンの子供たちに出会ったときのこと。どんなときも「ほんとうの幸せ」を考えてきたトットちゃんの言葉が心にあたたかく響くエッセイ。
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内容紹介
女がひとりで生きていくのは大変だってわかったのは、三十八歳の時だった――。私が好きだった人たち、私を理解してくれた人たち、そして私と同じ匂いを持った人たちへ――。「ザ・ベストテン」の日々、テレビ草創期を共に戦った森繁久彌、毎日のように会っていた向田邦子、〈私の兄ちゃん〉の渥美清、〈母さん〉の沢村貞子、そして結婚未遂事件や、現在の心境までを熱く率直に、明朗に綴った感動のメモワール。