窓際日記・福島原発

窓際という仕事の雑感

・放射線量コントロール44 ・継続情報フォローアップ

2025-03-10 09:39:51 | Weblog

2019年スタート

・原発事故の和解、打ち切り1.7万人 東電が相次ぎ拒否<--リンク

結局は被害を受けた方が泣きを見る、というお決まりのパターンですか。

このような「誠意のない対応」では「原発反対」に住民は傾く事になります。

PS
・原発訴訟、国に5度目の賠償命令 横浜地裁、避難住民に約4億円<--リンク

152人に42000万円、一人当たり276万円、とても満足できる額ではないでしょう。

そうでありますから、「原発事故は起こされたら住民の負け」なのであります。

PS
・泊原発「活断層否定できず」規制委が見解 審査長期化へ<--リンク

一度大失敗をやらかした。

それはつまり「2度目の失敗は許されない」ということだよ、北電さん。

PS
・甲状腺がん検査「発見率の上昇なし」 福島医大が研究結果報告<--リンク

報告には政治的な思惑なしで、できる限りの客観性が求められています。

PS
・福島汚染土、県内で再利用計画 「99%可能」国が試算<--リンク

『同省は有識者会議で16年6月、「全量をそのまま最終処分することは処分場確保の観点から実現性が乏しい」として、再利用で最終処分量を減らし、県外での場所探しにつなげる考えを提示。
▽「指定廃棄物」(1キロあたり8千ベクレル超)の放射能濃度を下回ったり、下げたりした汚染土を再利用・・・』

下回ったり、下げたりした汚染土

どうやって下げるのでしょうか?
汚染されていない土とまぜあわせることで、1キロあたり8千ベクレル超ではなくなる、つまり「放射能をうすめてしまえばいい」と。

ゴミはごみ箱にいれる、のではなく、うすめてそこいらじゅうにちらして埋めてしまえば問題ない、そういうことでありますね、環境省さん。

PS
・原発被災地の学校、再開1年で休校 若い世代にためらい<--リンク

やはり元通りになるには長い時間が必要の様です。

PS
・小中学生、震災前の1割=バス送迎、合同授業も-福島の避難解除10市町村<--リンク

『住民の帰還率は約4割だが、60代以上が4分の3を占め、「子育て世代は避難先の学校で子供の友人関係ができたり、家を新たに建てたりして生活基盤を移している」(町教育委員会)という。』

一度壊れたものはなかなか元には戻りませんよ、東電さん。

PS
・津波事故「予見可能性なかった」旧経営陣3人、無罪主張 東電強制起訴公判<--リンク

物事には結果責任と言うものがありますよ、東電さん。

PS
・原発事故、国の賠償責任否定=避難者訴訟で2件目-千葉地裁<--リンク

どうやら裁判所は行政である国の支配下にある模様です。

PS
・除染土8割「再利用可能」 環境省試算 福島県内には抵抗感<--リンク

毎度毎度のつじつま合わせ、その場しのぎの対応、これがこの国の得意技であります。

PS
・あつまれ!げんしりょくむら<--リンク

『 同サイトは今月8日、原子力関連企業などでつくる業界団体・日本原子力産業協会(JAIF)が開設したものだ。・・・』

この方たちの考え方には本当にあきれるばかりであります。

http://archive.fo/ouP3o

PS
・テロ対策施設未完成なら原発運転停止 原子力規制委が方針<--リンク

いままでは規制当局と電力会社は「なあなあ」でやってきました。

これからは「そうではない」という「けじめ」はつけないといけませんね。

PS
・行き場のない「核のごみ」 国内最終処分、議論も始まらず<--リンク

電気は欲しい、核のゴミはいらない、というのでは話が通りません。

政府にはそこのところ、しっかりと押さえていただかないといけませんね。

PS
・原発処理水「放出しかない」 原田環境相が発言

ゴミ水は希釈してしまえば海に捨てても良い、という事の様ですね。

さて、海洋汚染を防ぐため、と称して「レジ袋有料化」を進めた方の、同じ口からこのようなコトバが出てきます。

そうでありますから「政治家と言うものは信用できない」と言われる事になるのですよ、原田さん。

PS
・初入閣で露見した、小泉進次郎の原発汚染水に関する「勉強不足」
不用意な発言だった


この方のあの発言に対しては当方も「本当にわかって発言しているのかな?」という感触がありました。

この件については今後の推移を見守りたいと思います。

・トリチウム「海洋放出」の実際

さてそうしてこの部分の情報については一考の価値がありそうです。

PS
・判決に一礼、表情緩める=無罪にどよめく傍聴席-避難者怒りの声・東京地裁

法律に違反していなければ、どんなことが起ころうとも「無罪であって責任はない」というのでは、人々は安心して暮らす事などは出来ないでしょう。

つい最近もトラックに衝突した電車の事故がありました。

電車を運行している会社は「法に反していないから無罪で、責任はない」のでありましょうか?

非常に疑問を感じる所であります。

・朝日「腑に落ちない」産経「冷静な判断」 東電旧経営陣「無罪」各紙はこう論じた

法に触れなければどのような経営をやってもよい、というものではありませんよねえ、経営者さん。

PS
・関西電力会長らに1億8000万円 元高浜町助役から

ずぶずぶの関係であります。

有罪ですね。

・経産省が関西電力に調査命令

PS
・関電、低いコンプラ意識 金品受領報告せず 禁止内規もなし

この程度の方々が原発の運転を行っている日本の現状。

そうして事故を起こしても裁判所から「あなた方には責任はない」=>「あなた方には責任をとれるほどの能力がない」として「無罪放免される国」。

なんともはや、日本という国は本当に大変な国でありますなあ、安倍さん。

PS
・ビキニ被ばく「労災」請求を棄却 高知と宮城の元船員ら11人

国のやる事はいつも同じ。

そうであれば「放射能から身を守るのは本当に大変な事」なのですよ。

PS
・東電、展望なき原電支援=東海第2再稼働見通せず―破綻回避を優先

狂気の沙汰としか思えませんが、原子力村の存続が第一優先の様です。

2020年

・福島原発の避難指示、未除染でも解除へ 国の責務に例外

こうやって「人の都合が優先され安全は後回し」となります。

・除染せず避難解除、政府が方針初提示 土地活用策も説明

説明によると、地元の強い意向があり、年間線量が20ミリ以下であることが前提。日常生活は営まず、工場や物流施設などの事業用地や近くの住民向けの公園として活用する場合は、除染にこだわらずに解除できるとした。今後、出入りする人に線量計で個人の被曝線量を測ってもらうなどの対策も示すという。

↑:危険な事を人間は後先考えずにやりたがります。

2021

・原子力規制委、東電立ち入り検査 テロ対策不備、情報共有問題か

↑ ようやく規制委はお仕事をする気になった模様ですね。

PS:・国と東電に10億円賠償命令 帰還困難巡る福島原発訴訟の判決

↑ ようやく裁判所はお仕事をする気になった模様ですね。

 

2025年

: https://archive.md/jQxOl :

・・・「県民健康調査」で見る健康への影響
福島県では2011年から「県民健康調査」を実施してきた。同年3月11日から同7月11日まで「いつ」「どこに」「どのくらいいたか」という問診票によって外部被ばく線量を推計する「基本調査」をするとともに、必要に応じて一般健診の「健康診査」、18歳以下の「甲状腺検査」、「こころの健康度・生活習慣に関する調査」、「妊産婦に関する調査」(2020年度まで)という詳細な4調査を行うというものだ。

2024年度版の同「報告」で、回答率は27.7%。放射線業務従事経験者を除いた約46万7千人の外部被ばく線量の推計で99.8%の人が5ミリシーベルト未満、最高値は25ミリシーベルトだったと公表。次のように評価している。

<この結果については、これまでの疫学調査により、100ミリシーベルト以下での明らかな健康影響が確認されていないことから、4か月間の外部被ばく線量推計値ではありますが、放射線による健康影響があるとは考えにくいと評価されています>

2012年1月、福島県二本松市に置かれた線量計

この県民健康調査を疫学的な観点で担当してきたのが、前出の安村氏だ。安村氏も放射線による直接的な健康被害はないとしつつ、次のように語る。

「放射線による直接的な影響で重大な事例はありませんが、事故による間接的な影響はあります。原発事故の影響で、福島県では二十数万人が避難しなければならなくなりました。この避難の過程で、もともと病気を抱える方や高齢者など県民の方々には多大な影響がありました。放射線による健康影響はありませんが、原発事故による影響はそれなりにあったということです」

県民健康調査で2ミリシーベルト未満が93.8%
そもそも、原発事故で大気中に放出された放射性物質は人体にどのような影響を与えるのか。環境省や各種医学的知見によると、こういう仕組みだ。

セシウムやヨウ素といった物質は放射線(ベータ線、ガンマ線など)を出す。その放射線が一定の線量で生体を通過すると、細胞内のDNAに影響を及ぼす。DNAが放射線の電離作用で直接的に広範囲に切断されたり、放射線のせいで発生した活性酸素によって間接的に損傷されたりするのだ。DNAは自然に修復されるものもあり、自然現象としての細胞死で健康に影響を与えない場合もあるが、不完全な修復のまま異常な細胞がつくられると、がんなどの原因となることがある。

では、具体的にどのくらいの放射線を浴びたら危険とされるのか。国際放射線防護委員会(ICRP)の2007年勧告によると、累積の被ばく線量が100ミリシーベルトを超えると、がんの発症率が増加することが確認されている。長年の調査研究から世界的に信頼されている基準だが、もとはといえば、広島と長崎の原爆による被ばくの研究が土台だと安村氏は言う。

「広島・長崎の原爆データから推計された線量効果関係は、線量が増えると健康影響の確率が上がるということでした。もちろん、100ミリシーベルト以下なら確実に安全と言い切るつもりはありません。それでも、100ミリシーベルトを超えると集団の中で影響が検出されるレベル、という理解でいいと思います」

前述の県民健康調査では約210万人いた県民全員を対象にしたが、調査に回答したのは約47万人。2ミリシーベルト未満が93.8%で、5ミリシーベルト未満では99.8%、15ミリシーベルトを超えた人は323人だった。

「私たちが調査した範囲では最大でも25ミリシーベルトで、100ミリシーベルトを超えて浴びた人が一般県民の中にいたという報告はありません。国際機関もその点を認めています。外部被ばくについては直接的な健康影響は考えにくい状況です。内部被ばくについても、いろいろな推計を行っていますが、100ミリシーベルトを超える線量の被ばくがあったという報告はないと理解しています」(安村氏)

放射線による風評被害をなくしたいと語る安村誠司センター長

国のほうも調査や評価を進めてきた。国は福島第一原発事故後の健康管理について、医学的な見地から検討が必要として、2012年に調査をするよう法的に整備した。2013年、環境省に「東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う住民の健康管理のあり方に関する専門家会議」を設置し、医師や放射線など17人の専門家により、14回にわたって会議を開催した。

この会議では、2014年12月に「中間取りまとめ」が発表されたが、そこではこう報告されている。

<今回の事故による放射線被ばくによる生物学的影響は現在のところ認められておらず、今後も放射線被ばくによって何らかの疾病のリスクが高まることも可能性としては小さいと考えられる>

国連科学委員会の報告書
一方、こうした報告に違和感を抱いている人もいる。2011〜2019年度に行われた県民健康調査で、事故当時18歳以下だった人を対象に甲状腺検査をしたところ251人(うち7人は25歳)が甲状腺がんかその疑いがあると診断された。専門家でつくる評価部会は過剰診断であって、被ばくとの因果関係は認められないとしたが、納得がいかない人たちはいた。

2022年1月、事故発生当時、福島県内に居住していた17〜27歳(当時6〜16歳)の6人が、小児甲状腺がんを発症したのは福島第一原発事故が原因として東京電力を相手に、総額6億1600万円の損害賠償を求めて提訴した。2人は甲状腺の片側を、4人が再発で全摘したとしている。

ただ、欧米などの科学者で構成される団体は、こうした因果関係を否定している。

国連の「原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)」は2021年に報告書を公開、この中で福島第一原発事故と放射線の被ばくの影響について詳細に科学的な知見で調査、甲状腺がんとの因果関係についても「放射線被ばくに帰因する甲状腺がんの過剰リスクは、どの年齢層においても識別できる可能性はほとんどないことが示唆されている」(同報告書83ページ)と述べている。

「福島第一原発事故による放射線被ばくでの健康被害の影響は考えにくい」と語る国連科学委員会の事務局長(YouTube国連のチャンネルより)

環境省や復興庁もこうしたUNSCEARの報告書をもとに「現時点では、放射線の被ばくによる健康被害は認められていません。事故後の被ばく線量を鑑みても、今後の健康影響は考えにくいと評価されています」という立場をとっている。

県民健康調査は現在でも続けられているが、安村氏は続けることのデメリットも懸念している。

「たとえば、事故後『福島で赤ちゃんを産むのは危険だ』という風評がありました。ですが、10年に及ぶ調査結果では、先天奇形率や早産率は全国平均よりも低いくらいでした。この結果をもとに妊産婦調査は終了しました。調査を続けることで『何か問題があるから続けているのでは?』という誤解が生じることを防ぐためです」

原発作業員は大丈夫だったのか
2011年3月15日、福島第一原子力発電所1〜4号機(出典:東京電力ホールディングス)

一方、原発事故の作業にあたった人たちに健康被害はなかったのだろうか。安村氏は言う。

「所管が違うためすべてを把握しているわけではありませんが、作業員が重大な健康被害を受けたという情報は特に入っていません」

福島第一原発事故後の作業に従事した人のうち、被ばくとの因果関係を認めた労災認定が出た疾患は、これまでに白血病5件、真性赤血球増加症1件、咽頭がん2件、甲状腺がん2件、肺がん1件がある。そこで東京電力に取材したところ、次のような回答を得た。

「当社は、法令を順守し、線量限度はもとよりALARA(注:as low as reasonably achievable。合理的に達成可能な限り低く抑えるべきである)の考えに基づき、線量低減に努めているところであり、UNSCEAR報告書にあるように『被ばくによるがんの発生率の上昇が識別可能となるであろう可能性は低い』と認識しています。一方で、被ばくとがん症例との因果関係が科学的に証明されたことを意味するものではありませんが、事故後の作業従事者のがん症例が10件以上労災認定されていることも事実です」

2025年2月、大熊町役場前の線量計

東京電力が公表する資料によると、事故のあった2011年3月には108人が月間100ミリシーベルトを超える被ばく、このうち6人は月間250ミリシーベルトを超えていたという。しかし、翌月以降は100ミリシーベルトを超えた従業員はおらず、50ミリシーベルトを超えた従業員も累計で8人しかいないという。

こうした被ばく線量の把握も踏まえ、東京電力は原発作業員への健康管理について次のような見解を示した。

「IAEA(国際原子力機関)及び各国の専門家からなる調査団のレビュー(放射線防護の観点も含む)を継続的に受けており、当社の取り組みが基本的に妥当と評価いただけたものと認識しています」

死者はゼロでも、風評被害との闘いは続く
現状から見て、放射線による健康被害がゼロだったと断ずることはできない。それでも医学的および科学的な知見から見て、放射線被ばくによる死者はゼロではあり、当初懸念されていた健康被害が大きく抑えられたのは確かだろう。

安村氏はその原因をこう語る。

「レベル7という最悪の『深刻な事故』という評価を受けたため、福島第一原発事故はチョルノービリ(チェルノブイリ)と同じような事故と誤解されがちです。しかし、実際の放射性物質の放出量はチョルノービリの5分の1程度であり、避難も早期に行われました。また、チョルノービリでは放射性物質を含む食物を摂取したことが甲状腺がんの原因でしたが、福島では当初から飲食制限が行われ、被ばくの経路は限られていました。そのため、福島で同様の健康影響が出る可能性は非常に低いと考えられます」

また、住宅や道路、農地などの除染も徹底して行い、除染事業が完了した地域から帰還が始まった。それでも、福島に依然「汚染されている」といった印象を持つ人もいる。

安村氏は今後そうした風評被害をなくしていくのが重要だと言う。

「作物や海産物で安全なレベルであるにもかかわらず、根強い誤解が残っています。そうした風評被害を減らすためにも、私たちは引き続き正確な情報を発信していく必要があります。県民の健康を守るために行ってきた調査や検査の結果をもとに、福島の現状を正しく伝えていくことが大切だと考えています」

原発事故から14年、福島は復興に向けてまだ道半ばである。その復興を後押しするには、多くの人が「福島の現状」を理解していくことが重要だ。

小川匡則(おがわ・まさのり)
ジャーナリスト。1984年、東京都生まれ。講談社「週刊現代」記者。北海道大学農学部卒、同大学院農学院修了。政治、経済、社会問題などを中心に取材している。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

PS
「放射線量コントロール一覧」はこちらから入れます。

特集記事一覧にはこちらから入れます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日米軍事協定

2025-03-10 09:10:12 | Weblog

日本の軍事面における極端な対米従属構造。また、世界でおそらくほかに韓国しか例のない、あまりに巨大で異常な駐留米軍のもつ法的特権。

ずっと「なぜ日本だけ、こんなにひどい状況なんだ」と思い続けてきたその原因が、指揮権密約の歴史をたどることで、はっきりわかったということです。

一言でいうと、その原因はすべて朝鮮戦争にあったということです。

朝鮮戦争というのは、日本でもアメリカでも「忘れられた戦争」といわれており、私自身、あまり具体的な印象がありません。しかし、じつはそれは、戦後世界の行方を決めた大戦争で、とくに「戦後日本」にとっては、まさに決定的といえるほど重要な意味を持つ戦争だったのです(朝鮮戦争は現在も休戦中で、法的にはまだ戦争は終わっていません)。

振り返ってみれば、日本の独立をちょうど真ん中にはさんだ前後3年(1950〜53年)のあいだ、アメリカはすぐとなりの朝鮮半島で激戦を繰り広げていたわけですから、それが安保条約や行政協定の内容に影響を与えていないはずがありません。

けれども私もなぜか、安保条約や行政協定の条文を読むときに、これまで朝鮮戦争のことを関連づけて読んだことはありませんでした。

しかし、もちろん当然のことながら、朝鮮戦争の戦況は、ひとつひとつの条文にも非常にダイレクトな影響を与えていたのです。

危機に陥った米軍
1950年6月25日に始まったこの戦争で、日本から出撃していった米軍(朝鮮国連軍)は当初、徹底的に負けるわけです。それはマッカーサーの判断ミスで、北朝鮮が南に攻めてくることなど絶対にないと考えていたため、敵を迎え撃つ準備がまったくできていなかったからでした。

そのため米軍は開戦からわずか1ヵ月余りで、朝鮮半島南端の釜山周辺の一角まで追いつめられてしまう。あやうく対馬海峡にたたき落とされそうな状況にまで陥ってしまったのです。

しかし、それでも米軍は負けなかった。それは対馬海峡の対岸にある日本から、どんどん武器や弾薬や兵士たちが送りこまれていたからで、「兵站が続けば戦争は負けない」という軍事上のセオリーの、まるで教科書のような戦況だったわけです。

そして有名なマッカーサーの仁川上陸作戦(9月15日)もあって、一度、中国国境近くまで押し返したものの、中国軍が参戦したことでまた38度線あたりまで後退させられる。

米軍にとってそれは、「歴史上もっとも困難をきわめた戦争のひとつ」だったのです。

さまざまな戦争支援
そうした状況のなか、連合国軍という名のアメリカ陸軍に占領されていた日本は、さまざまなかたちでこの戦争への協力を求められることになりました。敗戦時にポツダム宣言を受け入れていた日本は、連合国軍最高司令官であるマッカーサーに対して、その要求を拒否する法的権利を持っていなかったからです。

そのため、朝鮮半島への上陸作戦で機雷を除去するための掃海艇の派遣や、米軍基地に配備するための警察予備隊(7万5000人)の創設、さらには米兵や軍事物資の輸送、武器や車両の調達や補修など、まさに国をあげての戦争支援を行ったのです。

おかげで「朝鮮特需」といわれる巨額の経済的利益がもたらされ、まだ復興の途上にあった日本経済を大きく潤すことになりました。

そして、朝鮮戦争の開戦から7ヵ月後(1951年1月)に始まった、日本の独立に向けての日米交渉のなかで、日本は当時、朝鮮戦争に関して行っていた、そうしたさまざまな米軍への軍事支援を、「独立後も変わらず継続します」という条約を結ばされてしまうことになったのです。

それが1951年9月8日、平和条約や旧安保条約と同時に交わされた「吉田・アチソン交換公文」という名の条約です。でもおそらく読者のみなさんは、どなたもそのことをご存じないでしょう。もちろん当時の国民も、その取り決めが持つ本当の意味について、だれひとりわかっていませんでした。

解説 吉田・アチソン交換公文
写真:現代ビジネス

このきわめて重大な取り決めは、サンフランシスコ平和条約や旧安保条約と同じ1951年9月8日に、アメリカのサンフランシスコ市で結ばれました。「交換公文」とは、政府の責任者間で書簡を往復させたという形をとった広義の条約のひとつです。

旧安保条約と同じく「吉田・アチソン交換公文」もまた、事前には日本国民にいっさいその内容が知らされない「事実上の密約」として結ばれたものでした(アチソンとは平和条約にも旧安保条約にもサインした、当時のアメリカの国務長官の名前です)。

というのも、日本の占領を終えるにあたって、米軍の駐留継続(旧安保条約)や、米軍への軍事支援の継続(吉田・アチソン交換公文)を交換条件とすることは、ポツダム宣言にも国連憲章にも違反する行為だったからです。そのため平和条約によって独立を回復した日本が、あくまで自由な意志に従ってそれらの取り決めを結ぶというフィクションが、アメリカ側の交渉責任者であるダレスによって作られていたのです。

ですから、サンフランシスコの豪華なオペラハウスで平和条約が結ばれた9月8日午前の時点では、まだそれらの文書は存在しないことになっていました。ところが実際には、もちろん条文は用意されていて、その日の午後5時からサンフランシスコ郊外の米軍基地内で、吉田首相ひとりの署名によってこの2つの取り決めが結ばれたわけです。

そもそも当初の日米交渉の段階で、アメリカ側から提案された「吉田・アチソン交換公文」の原文は、次のようなものでした。

「〔平和条約と旧安保条約が発効したときに〕もしもまだ国連が朝鮮で軍事行動を続けていた場合は、日本は、国連が朝鮮の国連軍を以前と同じ方法で、日本を通じて支援することを認める」(1951年2月9日)

詳しくは『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』を読んでいただきたいのですが、ここで最も重要なポイントは、右の傍点部分にある「朝鮮の国連軍」も、それを日本を通じて支援する「国連」も、その実態は米軍そのものだということです。

つまりは朝鮮戦争の開始以来、占領軍からの指示によって行っていた米軍への兵站活動(後方支援)を、独立後も変わらず続けるというのが、この「吉田・アチソン交換公文」の持つ本当の意味だったのです。

その後の日米交渉のなかで、この取り決めはさらに改悪され、「朝鮮」という地域的な限定も、「国連」という国際法上の限定も、ほとんどなくなってしまいました。

その結果、現在に至るまで日本は、米軍への戦争協力を条約で義務づけられた世界で唯一の国となっているのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アメリカは「国」ではなく、「国連」である
こうして指揮権密約の歴史をさかのぼったことで、戦後、日米のあいだで結ばれた無数の軍事的な取り決めの、大きな全体像が見えてきました。その重要な手がかりとなったのが、朝鮮戦争のさなかにつくられた、米軍が自分で書いた旧安保条約の原案だったのです(1950年10月27日案)。

この原案の中にあった指揮権に関する条文については、すでにお話ししました。

では、基地権については、そこではどのように書かれていたのでしょう。

「第2条 軍事行動権」と題されたその条文を見てみると、左のようにそこには日米安保の本質が、やはり非常に明快に表現されていたのです(以下、同2条から要点を抜粋。〔 〕内は著者の解説。https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1950v06/pg_1337)。

「米軍原案」の基地権条項
○ 日本全土が防衛上の軍事行動のための潜在的地域とみなされる。

〔これがいわゆる「全土基地方式」のもとになった条文です。米軍が日本国内で、どこに基地を置こうと、どんな軍事行動をしようと、日本側は拒否できないということです〕

○ 米軍司令官は必要があれば、日本政府へ通告したあと、軍の戦略的配備を行う無制限の権限を持つ。

〔他国(日本)への軍の配備について「無制限の権限を持つ」とは、スゴい表現です。この条文とその前の「全土基地方式」の条文が「アメリカは、米軍を日本国内およびその周辺に配備する権利を持つ」という旧安保条約・第1条のもとになっています〕

○ 軍の配備における根本的で重大な変更は、日本政府との協議なしには行わないが、戦争の危険がある場合はその例外とする。

〔核兵器の配備など「重大な変更」については、米軍は日本政府との「協議なしには行わない」と書かれています。しかしこの表現は「合意なしには行わない」とは違って、日本の意向だけでは拒否できないという意味でもあるのです。さらに戦争の危険があるときは、核の地上配備だろうとなんだろうと、日本側と協議などまったくしないという方針が、はっきりと書かれています。

これが日米安保の本質です。そしてその本質を国民の目から隠すために、これまで多くの日本の首相たちが、アメリカとの「核密約」や「事前協議密約」を結び続けてきたのです〕

○ 平時において米軍は、日本政府へ通告したあと、日本の国土と沿岸部で軍事演習を行う権利を持つ。

〔戦争の危険性がまったくないときでも、米軍は日本政府に一方的に「通告」すれば、日本全土とその沿岸部で自由に軍事演習を行うことができるということです。「協議」をする必要もない。この条文こそが、まさに2020年以降、日本全土で始まろうとしている危険なオスプレイによる低空飛行訓練の正体なのです〕

日本の戦後を貫く方程式
このように、米軍が書いたこの旧安保条約の原案には、指揮権についても基地権についても、非常にリアルな日米安保の本質が記されています。

そしてこの「米軍原案」と、第5章でお話しした「密約の方程式」を組みあわせれば、その後70年近くのあいだに日米間で起きた無数の軍事上の出来事を、すべてひとつの大きな流れのなかに位置づけることができるのです。

思い出していただきたいのですが、戦後の日米間の軍事上の取り決めを貫く基本法則は次のとおりでした。

「古くて都合の悪い取り決め」=「新しくて見かけのよい取り決め」+「密約」

そして1950年10月の「米軍原案」が、その後わずかな訂正だけで正式な日米交渉の場に提出されたという事実を考えあわせると、戦後、日米間で結ばれたすべての条約、協定、密約を、具体的な条文レベルで次のように整理することができるのです。

「米軍自身が書いた旧安保条約の原案」=「戦後の正式な条約や協定」+「密約」

この式にあてはめてみると、これまで不思議でしかたがなかった、ほとんどの謎がスッキリ解けてしまいます。軍事面からみた「戦後日本」の歴史とは、つまりは米軍が朝鮮戦争のさなかに書いたこの安保条約の原案が、多くの密約によって少しずつ実現されていく、長い一本のプロセスだったということができるでしょう。

そのもっとも典型的な例が、2015年に大問題となった安保関連法でした。前章で述べたとおり、この1950年10月の「米軍原案」に書かれていた海外派兵についての条文が、なんと65年もの時を経て、ついにあのとき、オモテの国内法として成立してしまったわけです。

もちろん、歴代の首相や大臣、官僚のなかには、この大きな流れに抵抗しようとした人もいれば、積極的に推し進めることで個人的な利益を得ようとした人もいたでしょう。

しかしその無数の人間ドラマもまた、軍事面から見れば、この米軍原案が長い時間をかけて少しずつ実現していくプロセスの一コマでしかなかった。それが日本の戦後史だったということです。

悲しい現実ですが、事実はきちんと見たほうがいい。事実を知り、その全体像を解明するところからしか、事態を打開する方策は生まれてこないからです。反対運動でその違法なプロセスの進行を遅らせているあいだに、その法的な構造を体系的に解明し、根本的な解決策を考えださなければならないのです。

じつは安保条約での集団的自衛権を拒否し続けていたアメリカ
たとえば2015年の安保関連法案の国会審議のとき、大きな焦点となった集団的自衛権の問題があります。あのとき国会前のデモでは、若い学生のみなさんが中心となって、

「憲法まもれ」

「安倍はやめろ」

といったコールを連日繰り返していました。私も何度か行って声を張り上げましたが、

「集団的自衛権はいらない」

というコールだけは、一緒に言えませんでした。

なぜなら1951年1月末から始まった日米交渉のなかで、旧安保条約をなんとか国連憲章の集団的自衛権にもとづく条約にしようと、必死で交渉していたのが日本側のほうで、それを一貫して拒否しつづけていたのがアメリカ側だったことを、私はよく知っていたからです。

そしてその両者の関係は、のちの安保改定においても、基本的に変わることはありませんでした。

NATOと「日米同盟」の違い
写真:現代ビジネス

いったいそれは、どういうことなのか。

事実、肥田進・名城大学名誉教授(日本におけるジョン・フォスター・ダレス研究の第一人者)の分類を見ると、かつてアメリカが集団的自衛権にもとづく安全保障条約を結んだのは、彼らにとって死活的に重要な意味をもつ中南米(米州機構)とヨーロッパ(NATO)の、しかも多国間の条約に限られていて、それ以外の「相互防衛条約」は、基本的にすべて個別的自衛権にもとづいて協力しあう関係でしかありません。

「そんな話、はじめて聞いたぞ」という方もいらっしゃるかもしれませんが、アメリカが各国と結んでいる条約の条文を見れば、それは疑いようのない事実なのです。

たとえばNATOの条文(北大西洋条約)には、ある加盟国が攻撃を受けた場合、それを全加盟国に対する攻撃と認識して、

「個別的または集団的自衛権を行使し、兵力の使用を含んだ必要な行動をただちにとる」

と書かれています(第5条)。これが「集団的自衛権」にもとづく相互防衛条約です。

一方、日本の新安保条約(第5条)などアジア地域の条約には、特定地域(たとえば太平洋地域など)内での加盟国への攻撃が、

「自国の安全を危うくするものであることを認め」

「自国の憲法の規定と手続きにしたがって、共通の危険に対処する」

としか書かれておらず、必ず相手国を守るために戦うとは約束されていません。それがあくまで「個別的自衛権にもとづいて協力しあう関係」でしかないことは、明らかなのです。

安保改定交渉の真っ最中だった1959年6月に、本国の国務省からマッカーサー大使に送られた電報には、この「自国の憲法の規定と手続きにしたがって」という表現について、「〔われわれ国務省が〕長期にわたる慎重な研究の結果、到達したものだ」と書かれています。つまり「相互防衛条約」とはいいながら、相手国への最終的な防衛義務は負わない条文を、意図的に考えだしたということなのでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする