国内初期の鉄筋アパートを建設し、
その後の住宅事情に様々な影響を与えた同潤会の仕事の中で、
あまり知られていない一般の住宅をアップしています。
画像に写る建物は殆どが改築されていますが、
エリア的には十条普通住宅街の、
ひとつの中心地的な位置に当たる場所です。
→Mapion
Mapionをご覧になるとわかる様に、五叉路を広め造られています。
少し東へ行くと、同様に広く造られた交差点がありますが、
これらは、単に交差点としての機能以上に、
街の集会所的な使い方をするエリアとして、
意図的に設けられたスペースでした。
建設費の約10パーセントを福祉施設費に当てた同潤会の、
ただ家を建てるだけではない、福祉や教育まで視野に入れた、
街作りの発想の名残だと思います。
そういった街作りを見越した同潤会の住宅地ですが、
木造住宅が密集する場所は建物が接近し、
極めて細い路地を形成しています。
さらに、今でこそ23区内のエリアですが、
当時は郊外と呼ばれ、不便さを感じた地域でもあり、
初期に造られた木造の賃貸住宅は、
それほど人気がでなかったそうです。
住宅地の最奥地には、
こういった使われなくなった建物も残っています。
木造住宅が一段落した同潤会は、その後、
一連の有名な鉄筋アパートを建設し始めますが、
最終的には当初予定した木造と鉄筋アパートの戸数より、
木造は少なく、鉄筋アパートは多く造られたのは、
こういった賃貸木造住宅の不人気が原因だったと言われています。
奇麗に手入れされた大八車を見ると、
今でも使われているのかと思います。
同潤会の住宅は木造戸建てと鉄筋アパートともに、
当時の相場よりはかなり安く、
採算度外視の家賃だったと言われています。
これは羨ましい話ですね。
このお宅は随分と改修を施していますが、
やはり側面を見ると木造2階建家屋の名残が見てとれます。
戦後、十条の普通住宅は満州鉄道からの引揚者の方々によって、
おもに使われる事になったそうです。
エリアの住民の方にお話を伺うと、
かつては一帯が全部木造長屋だったが、
いまではすっかり様変わりしたそうです。
ちなみに話をうかがった方は、
このエリアが同潤会によって造られた街だったことを、
ご存じないようでした。
◆
同潤会は、鉄筋アパートの建設が一段落すると、
再び木造家屋の建設に着手しますが、
今度は賃貸ではなく分譲で、
その規模も賃貸よりは大きく、
一戸建てが多かったようです。
やがて戦争の色が濃くなりだすと、
住宅も質より量が求められる様になり、
昭和16 (1941) 年、同潤会は幕を閉じます。
■参考資料■
『同潤会十八年史』(同潤会1942)
その後の住宅事情に様々な影響を与えた同潤会の仕事の中で、
あまり知られていない一般の住宅をアップしています。
画像に写る建物は殆どが改築されていますが、
エリア的には十条普通住宅街の、
ひとつの中心地的な位置に当たる場所です。
→Mapion
Mapionをご覧になるとわかる様に、五叉路を広め造られています。
少し東へ行くと、同様に広く造られた交差点がありますが、
これらは、単に交差点としての機能以上に、
街の集会所的な使い方をするエリアとして、
意図的に設けられたスペースでした。
建設費の約10パーセントを福祉施設費に当てた同潤会の、
ただ家を建てるだけではない、福祉や教育まで視野に入れた、
街作りの発想の名残だと思います。
そういった街作りを見越した同潤会の住宅地ですが、
木造住宅が密集する場所は建物が接近し、
極めて細い路地を形成しています。
さらに、今でこそ23区内のエリアですが、
当時は郊外と呼ばれ、不便さを感じた地域でもあり、
初期に造られた木造の賃貸住宅は、
それほど人気がでなかったそうです。
住宅地の最奥地には、
こういった使われなくなった建物も残っています。
木造住宅が一段落した同潤会は、その後、
一連の有名な鉄筋アパートを建設し始めますが、
最終的には当初予定した木造と鉄筋アパートの戸数より、
木造は少なく、鉄筋アパートは多く造られたのは、
こういった賃貸木造住宅の不人気が原因だったと言われています。
奇麗に手入れされた大八車を見ると、
今でも使われているのかと思います。
同潤会の住宅は木造戸建てと鉄筋アパートともに、
当時の相場よりはかなり安く、
採算度外視の家賃だったと言われています。
これは羨ましい話ですね。
このお宅は随分と改修を施していますが、
やはり側面を見ると木造2階建家屋の名残が見てとれます。
戦後、十条の普通住宅は満州鉄道からの引揚者の方々によって、
おもに使われる事になったそうです。
エリアの住民の方にお話を伺うと、
かつては一帯が全部木造長屋だったが、
いまではすっかり様変わりしたそうです。
ちなみに話をうかがった方は、
このエリアが同潤会によって造られた街だったことを、
ご存じないようでした。
◆
同潤会は、鉄筋アパートの建設が一段落すると、
再び木造家屋の建設に着手しますが、
今度は賃貸ではなく分譲で、
その規模も賃貸よりは大きく、
一戸建てが多かったようです。
やがて戦争の色が濃くなりだすと、
住宅も質より量が求められる様になり、
昭和16 (1941) 年、同潤会は幕を閉じます。
■参考資料■
『同潤会十八年史』(同潤会1942)
十条の画像にびっくりしています。
一番最初のお店があって分かれ道のような画像。
正面から見てお店の右に駄菓子屋さんがありました。
祖母がこの正面の道沿いに住んでいました。
祖母の家は無くなりましたが知っている方の家が写っています。
偶然でしたがとても懐かしいです。
そうでしたか!よくご存知の場所だったんですね!
ここを訪れたのも、かれこれもう10年近く前。
それ以来訪れていないので、
もう随分変わったんではないかと思っていました。
当時は、最先端の居住空間だったんではないかと思います。
貴重な体験をされたおばあさまだったんですね。
亡くなってしまった祖父は
以前、横浜駅近くの
同潤会アパートに住んでいたので
懐かしくブログを読ませていただきました。
屋上一面に物干しができる造り、
地上の踊り場?にあたる場所に
確か石造り?の共同手洗い場みたいな
ものがあったような。
50年くらい前の記憶ですが、、、
そうですか、おじいさまは山下同潤会にお住まいだったのですね。
同潤会アパートの多くには石のように見える人造石製(研ぎだし人造石)でできた共同水場があったので、
山下の同潤会もおそらく、それではないかと思います。
同潤会の鉄筋アパートはもう1棟も残っていません。
大切な記憶ですね。