以前にも書きましたけど、本好きの私にとって、一番の情報源は本屋さん。なかでも、東京堂(神保町)の新刊棚と、自宅から徒歩圏にある増田書店を頼りにしています。取り次ぎの言いなりにならず、店長(店主)のしっかりした眼と見識で選んだ本が、いつも揃っています。足を運ぶのも、買うのも、専らこの2店に限られます。
さて、書評も情報源として、大事にしなきゃいけないんですけど、なにしろ数が多いですからねぇ。日曜日に掲載される主要全国紙のそれを図書館でチェックするのがせいぜいで、その上、新聞の場合、取り上げられる本って、誰が読むんだろう、みたいなのが多い気がします。各紙の見識を競ってるようなところがあって、いまひとつ私にはフィットしません。
そんな不満を解消してくれそうなサイトが、最近、登場しましたので、ご紹介します。
ALL REVIEWS(オール・レヴューズ https://allreviews.jp)です。トップ画面の一部をご覧ください。
フランス文学者・作家の鹿島茂氏が、立ち上げたサイトで、「活字メディア(新聞、週刊誌、月刊誌)に発表された書評を再録するサイト」(同サイトから)です。
で、「明治以来活字メディアに発表されたすべての書評を閲覧可能にする書評の構築を目指します」(同)とあります。
使い捨てになりがちな古今の書評に光をあて、ひいては、古今の名著にも眼を向けさせようというなかなか気宇壮大で、意欲的な取り組みです。「書評界のグーグル」を目指してるのかな、と思わせるものがあります。
ご覧いただくのが一番ですが、どんなサイトかを、ざっとご紹介します。もう少し、お付き合いください。
まずは、ジャンル別。「文学・評論」、「人文・思想」、「社会・政治」、「ノンフィクション」など8つのジャンルがありますが、まあ、これは、基本中の基本ですね。「文学・評論」で約200本、私が関心がある「ノンフィクション」が10数本と、バラつきはありますが、今後の充実に期待しましょう。
なんといってもユニークなのは、書評家(多くが、作家、評論家を兼ねてますけど)を選んで、その書評が読めること。
現在登録されてるのは、50人ほど。中には、いずれも故人ですけど、澁澤龍彦、井上ひさし、米原万里など、私が愛読してきた作家の皆さんも、「書評家として」ラインナップされています(もちろん、鹿島自身も、ちゃっかり、名を連ねてますけど)。
好きな作家とか評論家が、一体、「どんな本を」、「どのように」評してるか、これは、興味をそそられます。例えば、澁澤龍彦の「銀河鉄道の夜」評は、短いですが、彼独特のユニークなものです。
さて、「読書日記/コラム/対談・鼎談」というコーナーもユニークです。
「本の雑誌」の「新刊めったくたガイド」とか、「週刊文春 私の読書日記」とかに枝分かれして、それぞれののバックナンバーが読めたりするので、なかなか便利です(バックナンバーといっても、現状では、最近のものが中心ですが)。活字媒体を幅広くカバーしようという看板に偽りはなさそうです。
そのほかにも、村上春樹の本の書評が読める特集コーナーがあったりと、あれやこれやの切り口で、書評が読める工夫がなされています。
実は、もうひとつ、私が注目しているのは、このサイトのビジネスモデルです。
書評で取り上げられてる本毎に、3つのネット書店へのリンクが貼ってあります。トップページではなく、その本のページへ直接リンクを貼ってますから、便利で、使い勝手はいいです。
このサイトを通じて、本が売れれば、アフィリエイトで、なにがしかの収入が、サイト側に入る仕組み(のはず)です。サイトの安定的運営のためにも、しっかり稼いでもらっていいと思います。
ユニークなのは、「書評家還元システム」と、このサイトが名付けてる仕組みです。
このサイトに再録している書評については、当然のことながら、通常の著作権処理を行っています。その上で、「書評の対象となっている本」を、このサイトを通じて購入すると、「書評家」に、購入価格の0.7~2.1%を還元すると謳っています。
本を買う気にさせた書評家にも、それなりのリターンを、というわけです。書評家の皆さん(作家と兼業の方も多い(鹿島氏も含めて)とは思いますが)にとっては、思わぬ収入の途が開けるわけで、なるほどなぁ、と感心しました。
古い本が、古い本として、流通している限りは、著者にはなんの実入りもありません。このサイトの書評が、きっかけになって、古い出版物に、日が当たり、再版、増刷で、著者にも還元され、出版界も活気づく・・・・・便利なだけじゃなく、夢のあるサイトじゃないでしょうか。一度アクセスしてみてください。
いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。
関西商法というと、百貨店でも値切る、と言われるほどの駆け引きの厳しさ・執拗さ、新奇なもの、珍奇なものへの飽くなきチャレンジ精神などなど、いろいろありますが・・・・
今回は、商売につきものの広告宣伝を切り口に、関西の商売人のありようを探ってみようと思います。
まずもって、「利用出来るものは、なんでも利用したろ精神」が旺盛なことを取り上げなければなりません。代表格がこれ

大阪市営地下鉄の駅の構内の階段を利用したもの。各段の垂直面を広告スペースに利用するというもの。まあ、確かに階段を登る時、いやでも目にするところには違いない。随分前からやってる手法で、初めて導入した時には、ニュースで取り上げられたのを記憶している。
慣れてなかったら、段を踏み間違えそうで、ちょっと怖い。東京でも、安売りチェーンの店内の階段なんかでは時折見かけるけど、公共的な場所で、これだけ堂々とやるのは、いかにも関西。
鉄道関係を中心に、エスカレータのハンドレールを利用したのがこれ。

じっと乗ってれば、いやでも目に入る仕組みだけど、関西人の場合、だいたいが、じっと乗ってないから、効果のほどはやや疑問。
昔、京都の市バスの回数券の各片(11枚綴りの一枚一枚)の裏面(!)に広告が入ってました。スポンサーは、確か、京都信用金庫でしたかね。今でも、名前だけは覚えてるくらいだから、広告効果はあったみたいです。
値引き分と印刷代を少しでも浮かそうという魂胆だったんでしょうね。京都もしっかりしてますわ。
そうそう、車内放送で、駅名を案内したついでに、「○×商店前」などと、コマーシャルを入れるのも、関西発祥のはず。首都圏でもバスなんかは、やってるのが多いですが、大阪だと、大阪市営地下鉄のような鉄道も負けずにやってるのが、かなりユニークです。品位とか乗客の反発とか気にせず「やったもん勝ち」といったとこでしょうか。
さて、「ムキムキに、分かりやすさ第一でいく」というのも特徴かもしれません。
真っ赤で、大きな字で「ぢ」とだけ。
大阪の人はみんな知ってますが、「痔疾」の薬を専門に扱う「ヒサヤ大黒堂」の看板です。客が恥ずかしがるのでは、と考えるのが普通ですが、「分かりやすいのがエエやん」と恥ずかしがりもせず、割り切るのが、関西人。
それから、関西のタクシーの行灯(あんどんー屋根の上に乗ってる社名の入った標識灯)にも、ちょっとした工夫があります。夜、客が乗って、メーターを入れたら、行灯が消灯する仕掛けになってます。
点灯してるのが空車ですから、夜、タクシーを拾う時に、客がムダに手を挙げる必要がないし、タクシーの方も、空車である事をアピール、宣伝できる、というわけです。
いかがでしたか?今回は、広告宣伝に絞ってお届けしましたが、機会があれば、関西商法を、別の切り口で取り上げてみようと思います。
それでは、次回をお楽しみに。
<追記>関西商法の話題を、その後、「立ち飲み編」(第257回)、「鉄道編」(第280回)、「えべっさん編」(第352回)としてアップしています。お立ち寄りいただければ嬉しいです。
私が、ヒトという「動物」に生まれてよかったなぁ、とつくづく思うのは、「移動する」自由があるから。
ヒトには、五感が備わっています。そのおかげで、「移動する」ことができます。
例えば、目の前の危険を察知して、避けたり、大きくは、生きるに適した環境を求めて、大規模な移動をしたりと、かなり自由度の高い生き方をしています。
そんな目でみると、「移動しない」という生き方を選んだ植物の存在は、不思議で、不自由至極に映ります。
雨や風、気温や日照の変化など、まわりの自然は過酷で、刻々変化します。外敵から補食されたり、踏みつけられたり、ヒトから摘み取られたりといった危険が一杯です。
それでも多くの植物が、「移動せず」、例えば、「アカザ」のようにたくましく成長し、花を咲かせ、実をつけ、子孫を残すという営み、言い方を変えれば、まわりの環境への「反応」(適応)を続けています。
人間も含めた動物の場合、「反応」のきっかけになるのは、五感という感覚ですが、果たして、植物にも、そのようなものはあるのでしょうか?
そんな疑問に、最新の研究成果も踏まえて、分かりやすく答えてくれるのが、「植物はそこまで知っている」(ダニエル・チャモヴィッツ 河出文庫)です。
植物は「見ている」、「匂いを嗅いでいる」、「接触を感じている」、「聞いている」、「位置を感じている」、「憶えている」の6つの章からなっています。いずれも興味深いのですが、「見ている」に絞って、ご紹介しようと思います。
植物が、日の当る窓際のほうに屈曲する(屈光性)のは、昔から知られた事実です。
光の中でも、青い光が、屈光性を引き起こすことを発見したのは、ダーウィンと同時代の植物学者のザックスです。
そして、ダーウィン父子も、イネ科のクサヨシを材料に、実験を重ね、光を感じているのは、先端の部分であること、3時間で、明らかに屈光性を引き起こしていることなどを発見しています。
「目」こそないものの、「視覚」の存在は確実になりました。さて、「色」の識別、記憶までは出来るのでしょうか。
20世紀の初め頃、植物には、「長日性」(日が長くなると花を咲かせる)と、その逆の「短日性」のものがあり、人工的に光を当てる時間を変えることで、開花時期を調整できることが知られるようになりました。
第2次世界大戦の頃には、更に研究が進みます。ダイズのような短日性植物の場合は、夜中にライトを数分あてるだけで、日の短い冬に開花が可能となる一方、アイリスのような長日性の植物に、夜中に数秒ライトを当てるだけで、通常は開花しない真冬に開花が可能になりました。見事に開花しているアイリスの花です。
結局、植物は、「昼の長さ」ではなく、「暗さが連続している時間」を測っていることが証明されたわけで、科学者の関心は、「色」 へ映ります。
植物の種類を問わず、夜間は、「赤色」ライトにのみ反応することが分かりました。夜中に当てる光で効果があるのは、「赤色」だけです。青や緑のライトを当てても、開花時期を操作はできませんが、「赤色」なら、数秒で効果がありました。青い光で、屈曲する方向を知り、赤い光で、夜の長さを測っていたのです。色まで識別しているのですね。
さらに、1950年代になって、驚くべき発見がなされました。
「遠赤色光」という「赤色光」より波長が長く、たそがれ時にかろうじて見える光があるのですが、これが「赤色光」の効果を打ち消す働きをするというのです。
両方の光を交互に当てるなどした場合、最後の光のほうを憶えている(!)、つまり、「赤色光」は、昼間の光であり、この光を感じた時が昼間の始まりと認識し、開花スイッチをオンにします。そして、「遠赤色光」は、夕陽であり、それを浴びた時を、(「赤色光」の効果を打ち消して)夜の始まりと認識し、開花スイッチをオフにする、という仕組みなんですね。
すごい能力です。朝までお酒、朝まで仕事、とかで、昼夜逆転になったりすることもあるヒトなんかより、よっぽどしっかりしてる。
視覚に限らず、植物にも感覚はあって、それに対して反応(適応)しているという「因果関係」の解明がかなり進んでいることは、本書で十分納得できました。その仕組みを、細胞レベル、遺伝子レベルで解明するのがこれからの課題のようです。
「動物」と「植物」に、本質的な違いってあるのかな?そんなことを考えました。
いかがでしたか?次回をお楽しみに。
若い頃、英語の勉強に本格的に取り組もうとした時、目標を「字幕なしで、映画を理解できる」というエラい高い所に設定しました。
で、面白そうなビデオを何本か借りて、チャレンジしたんですけど、ものの見事に、挫折しました。
まずは、英語の聞き取りに集中するんですけど、聞き取れなかったところなんかは、つい字幕を見てしまう。元の英語と、字幕の関係に注意を向けてると、その間に、英語のセリフはどんどん先に行ってて、追いつけない・・・・同時通訳並みのスキルが必要な学習法だというのが、(私なりの)結論でした。
先日、古本屋で「映画字幕の作り方教えます」(清水俊二 文春文庫 1988年)という本を見つけました。ほろ苦い想いを胸に読み出したら、ヘタな語学書より面白い面白い。著者は、昭和6年から、半世紀にわたり、映画字幕の作成一筋に携わってきた方で、映画字幕界の重鎮のひとりとして、洋画の普及に大いに貢献した人です。
字幕作りに関わる技術的なこと、戦前の検閲での苦労話、失敗談、裏話も興味尽きませんが、実際のセリフを教材にした字幕作成プロセスの「セミナー」が随所に登場する。自分ならこんな字幕を付けるかなぁ、などとシュミレーションしながら読めるのがなにより楽しい。
さて、映画字幕は、ただの翻訳とは違う、というのは、ご存知の方も多いでしょう。セリフの長さに応じた字数で収めないと、観客が字を追えませんから、大胆な意訳、省略、置き換えの工夫が必要です。また、登場人物のキャラに応じた自然な日本語にする技術も要求される仕事です。
論より証拠。同書から、実例を引いて来るのが一番ですね。是非、自分流字幕を考えながら、お読みになってみてください。
素材になっているのは、「エレファント・マン」。不幸にして大きな障害を抱えて生まれ、「エレファント・マン」と呼ばれた主人公を描いた作品です。DVDのタイトルです。
エレファント・マンの噂を聞いた医師のトレブス(以下、T)が、見世物小屋の座長(Proprietor)のバイツ(以下、B)を訪ねる場面です。カッコ内の数字は、使える文字数で、”/ ”は、字幕の切れ目です。
T:Are you the Proprietor?(4-7)
B:And who might you be,sir?(7-10)
T:Just one of the curious.I'd like to see it.(8-11)
B:I don't think so. NO,sir.We are…(9-12) /closed(4-7)
T:Now I'd pay handsomely for a private showing.(11-14)/
Are you the Proprietor?(4-7)
B:Handsomely? Who sent you?(7-10)
T:I beg your pardon? (このセリフの字幕は作成されていません)
B:Never mind.(4-7)/I am the…owner.(7-11)
いかがですか。そんなに難しい単語はないと思います。使えそうな字幕は思いつきましたか?
尊大な態度の医師が、ややお願い調になる後半部分。一方の座長も、儲かりそうな話だと気がついて、身を乗り出していく気配。
その辺りを、日本語のニュアンスとして、どう字幕化するかもポイントになりそうですね。ちなみに清水先生の字幕は・・・・
「君が座長か」
「あなたはどなたで?」
「客だ 見せてもらいたい」
「せっかくですがだめです / 閉めたので」
「見せてくれれば金は十分払う / 座長だろ」
「どこからおいでで」
「いいでしょう / 私が・・・持ち主です」
最後の「持ち主」という言葉が効いてますね。見せ物としての「エレファント・マン」の持ち主というわけで、”it ”と呼ぶ医師とセリフと呼応しています。
同書から、オマケのネタをひとつ。
「エンドレス・ラブ」のなかでの、かのブルック・シールズのセリフ。
”You know what comes between me and Calvin? Nothing !”
(私と、Calvinの間に何があるか、知ってるわよね。何もないのよ!)
著者も、英語台本の注釈で分かったそうですが、Calvinというのは、Calvin Klein Jeansという当時人気のあったジーンズのブランド。こんなセクシーな言葉で誘われてみたいもんですね。
いかがでしたか?次回をお楽しみに。
定期的にイベント(講演会などが中心です)を開催している或る「会」に、事務局の一員として、参画しています。
歳のせいでしょうか、責任の一端を担っている自分のことは棚に上げて、運営などで、イラっとすることがあります。自戒の想いも込めての愚痴話にお付き合い下さい。
企画は、新宿にある調理師学校の校長先生みずから腕をふるう調理の様子を見学し、出来上がった料理を皆んなでいただこうという趣向。企画そのものはユニークで、悪くない。こちらが会場の調理師学校です。
けど、事務局の女史が作った会員向けの案内状を見て、最初の「イラっ」が来ました。
新宿駅西口から調理師学校までの案内が、10枚もの写真付きで添付されています。一見、懇切丁寧。だけど、よく見ると、大部分が地下道を利用したルート。宝くじ売り場、Book1st、コクーンタワーなどよく知らないものを目標に、右へ、左へ、上へ、下へと指示が続く。クネクネといったい、どこへ連れていかれるのか見当もつかない(多分、学校のサイトにあったのを引用したのでしょうが)。
調べたら、場所は、新宿警察署のすぐ隣。なんのことはない。ネット地図1枚で事足りる。
当日、ほかの事務局メンバーは、自分で調べて、ちゃんと来てるのに、案内を作成した女史だけが、集合時間になっても、現れない。
ーきっと、自分で作った地図で、迷子になってんじゃないのー
そんな噂をしているなか、30分ほど遅れて到着したが、お詫びの一言もない。
これが、次の「イラっ」
さて、40人ほどの会員を前に、階段教室で、料理の実演が始まりました。これだけの量を作るんだから、生徒さんも動員しての「作業」です。
そんな中、30分ほど遅れて、教室に入ってきたひとりの会員。実演中の先生のすぐ前を、堂々と横切って、席に着くのを見て、3つ目の「イラっ」。腰を屈めて遠慮がちに通るとかのオトナのマナーを持ち合わせてないのが、気に触る。
いよいよ料理が出来上がって、順に運ばれてくる。
と、私のすぐ後ろのオバさんが、「この料理の材料は何かしら」と、運んできた生徒さんに尋ねる。生徒さんも、そこまでは聞かされてないらしく、「聞いてまいります」
私だったら、運ぶだけの生徒さんに、いちいち訊くのは酷だし、気の毒だと思うんだけど、そのオバさんは熱心(自宅で再現するつもりかな?)。その都度、懲りもせず訊く。そして、その都度「聞いてまいります」
鬱陶しくて、第4の「イラっ」が来ました。
食事も終わって、締めで、今回のイベントを仲介していただいた方を紹介する段になりました。
(事前の段取りなんでしょう)事務局長に促された先ほどの女史が、メモに目を落とし、うつむいたまま、「◯◯さんです」とだけ。
思わず、事務局長も「えっ、それだけ?」
これだけ言うのに、メモを見なきゃいけないというのも噴飯ものだれど、簡単な紹介に、「お世話になりました」「ありがとうございました」「楽しかったです」などの言葉を添えて、会場から、自然に感謝の言葉、拍手なりを引き出す程度の工夫、配慮(などという以前の問題ですけど)が出来ないのが、摩訶不思議。
◯◯さんも、とりあえず立ち上がったものの、そんな紹介のされかただから、一言挨拶していいものやら判断しかねて、明らかに困惑の態。会場もシラけて、最後に、一番大きい「イラっ」が来ました。
私なりに気をつけてはいるつもりですけど、まわりの人たちを「イラっ」とさせてることって、多いんでしょうね。
自分が何に「イラっ」とするのかで、自分を見つめ直すいい機会になった、と最後はポジティブに総括して、「他人(ひと)のふり見て、我がふり直せ」を肝に銘じました。
いかがでしたか?次回をお楽しみに。