★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
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第568回 しかも起きた不思議事件-2

2024-03-22 | エッセイ
 「ウソかホントか?」などとアツくならず、「世の中、不思議なことがあるもんやなあ」と、ユルくそのテの話題を楽しむのが私流です。だいぶ以前に「しかもそれは起こった」(フランク・エドワーズ 早川書房)をネタ元に、「不思議な夢の話」とのタイトルでお届けしました(第331回ー文末にリンクを貼っています)。もう少しご紹介したいエピソードがありますので、改題の上、第2弾としてお届けすることにしました。どうぞ最後までお付き合いください。

<<「エドウィン・ドラッドの謎」の謎>>
 イギリスの作家チャールズ・ディケンズが、当時はマイナーなジャンルであった推理小説を書く気になったのは、友人ウィルキー・コリンズのすすめによるものでした。ある雑誌に12ヶ月にわたって掲載する契約が整い、1870年に、「エドウィン・ドラッドの謎」のタイトルで連載がスタートします。

 ところが、6回分を書き上げたところで、彼はあの世に旅立ってしまいました。続編の手がかりになるものは何ひとつ残さずに。
 ディケンズの死の翌年、バーモント州のプラトルボロという街に、トーマス・ジェームズという名の若い印刷工がふらりとやってきます。印刷工としての腕はいいのですが、教養もなく、いい加減な性格の人物でした。自分で探し当てた下宿の女主人が、当時流行の交霊術(故人の霊を呼び出して会話などをする一種のオカルト)の信者だったのがコトの始まりです。会に参加していた彼は、1872年10月3日、女主人に告げます。「自分はチャールズ・ディケンズの霊と交信しており、この大作家から未完の小説「エドウィン・ドラッドの謎」を完成するよう代筆権を与えられた」(同書から)と。
 多くの目撃者が証言している彼のその後の振る舞いです。女主人の計らいで部屋に閉じこもると、椅子に身を沈め、長い時間、交霊状態に入ります。そのあとで、彼は狂ったように原稿を書き出すというのです。それは数ページ分のこともあり、数行のこともあったといいます。
 新聞も取り上げるほど街の大きな話題となり、なんと「書き始めて」1年後には出版される運びとなったのです。店頭に並ぶや、文学界の重鎮たちは賛嘆の声を惜しまず、しがない印刷工は、一夜にして文壇の寵児となりました。

 だいぶ後になって、シャーロックホームズの生みの親、コナン・ドイルがこの「事件」を調べています。それによれば、ジェームズの学力はせいぜい小学5年生程度であり、後にも先にも、文学的才能を示しておらず、この作品が生み出されたのは奇跡だと断じています。
 さて、ジェームズのその後ですが、おちぶれた生活ぶりで、いつどこで死んだのかも知られていません。最後の最後までミステリーいっぱいの「不思議な事件」です。

<<消えた死体>>
 1856年11月のある日、南アフリカのケープタウンで、絞首刑が執行されました。執行されたのは、殺人容疑で死刑判決を受けたものの、冤罪を訴え続けていたゲブハードという人物です。執行の直前まで無実を訴え続けていました、型通り祈祷文を読み上げる神父にも「神父さん、そんな面倒なことはやめてください。かれらは私の肉体を亡ぼすことはできても、わたしの魂まで殺すことはできないのだ!」(同)と叫ぶ中、刑は執行されたのです。
 広く世間の関心を読んでいましたから、2時間掛けて慎重に検死が行われ、棺のフタには厳重にクギを打ちつけ、封をした上で、山の中腹にある囚人専用の墓地の地下2.5メートルに埋葬されました。その後2ヶ月間、武装した警備員が日夜見張るという厳重な監視体制まで取られたのです。

 しばらくして、新たな展開がありました。殺害された人物がいた農場の労働者の一人、ピーター・ローレンツが、被害者の財布を所持しているのを、農場主が見つけたのです。逃げ出そうとしたローレンツを警察に突き出し、調べてみると被害者の時計、指輪なども発見され、ゲブハードに罪をかぶせた、との証言も得られました。
 非を認めた当局は、ゲブハードの遺族に対し、十分な金銭的補償を行うとともに、通常の墓地への再埋葬を命じたのです。
 棺が引き上げられ、封印が元通りなのを刑務所長が確認しました。その上で、棺を開けてみると、なんと、中は空っぽでした。その後の調査でも、再埋葬までの間、棺はまったく触れられていないことが判明しているといいます。魂は天国へ行ったはずですが、肉体はいったいどこへ行ったのでしょう?こちらも、最初のエピソードにも劣らぬ「不思議な事件」です。

 いがでしたか?冒頭でご紹介した前回記事へのリンクは、<こちら>です。なお、もう少しネタがありますので、いずれ続編をお届けする予定です。それでは次回をお楽しみに。

第567回 柿右衛門磁器が呼んだ幸運

2024-03-15 | エッセイ
 皆様は骨董に興味をお持ちでしょうか?私は一時期、アンティークフェアなどに足を運び、わずかな小遣いから「骨董まがい」のキッチュな品の収集をちょっぴり楽しんでいました。今や熱はすっかり冷めてますけど・・・
 今回は、以前、ネタ元にしました上前淳一郎さんの「読むクスリ」シリーズ(文春文庫:文末に簡単な書誌を付記しています)からの話題です。良心的な古美術商さんに思わぬ幸運が舞い込んだエピソードを、第15巻の「柿右衛門に福あり」からご紹介します。専門的な知識は一切不要です。どうぞ最後まで気軽にお付き合いください。

 絵を志して渡米し、画家として成功する一方、ニューヨークで古美術品のギャラリーを経営する東典男さんの経験です。ご本人が「こんなうまい話があっていいものか」と思うほど、かの有名陶工・柿右衛門の逸品がどんどん集まってきた時期がありました。「柿右衛門窯公式オンラインショップ」からお借りした画像です。

 氏の言葉です。<それも、誰も悪いことをたくらんだわけじゃない。学者をはじめ、みんなが良心的であろうとした結果、私が儲けることになってしまったのです>(同書から)その顛末です。

 10年ほど前からニューヨークのサザビーズやクリスティのオークションで競売される柿右衛門の磁器の値段が、がくんと落ち込んだのです。それまでは、日本の陶磁器の中でも横綱格の柿右衛門の逸品にはオークションでも法外な値段がつき、東さんも手が出せませんでした。
 ところが、ある時期から買手がつかなくなり、信じられないような安値で手に入るようになったのです。どのくらい安くなったのかを東さんは、著者に明らかにされませんでしたが、大暴落といってもよい状況だったといいます。しかも柿右衛門に限っての状況です。「ニセモノでも出回っているのかな」と情報を集めてもそれらしい事実はありません。オークションに持ち込まれるのは、どう見てもまぎれもない本物ぞろいです。自分の目を信じた東さんは、片はしから買い集めていきました。

 そんな状態が数年続き、おびただしい数の柿右衛門が手元にそろったころ、オークションのカタログを見ていた東さんはあることに気が付いて、膝を打ちました。
 以前は、ただ「 KAKIEMON 」 とだけ記されていた目録が「KAKIEMON STYLE 」となっています。そうか、これが原因か、と思い当たったのです。
 佐賀・有田の陶工柿右衛門が、赤の色を美しく出したいと苦労を重ねる話は、私も教科書か何かで読んだ覚えがあります。このエピソードのせいもあって、柿右衛門焼きは彼の独創であり、その秘法は彼の子孫だけに伝えられてきた、と一般に信じられてきました。
 ところが、近年の専門家による研究の結果、その技法の元は、中国の民窯(みんよう=民間の陶磁器製作工房)にあることがわかったのです。
 また、柿右衛門焼として当時ヨーロッパに輸出されていた最高級の磁器は、必ずしも柿右衛門ひとりが作ったわけではなく、有田で多くの陶工たちの共同作業で焼かれたことも明らかになってきました。
 東さんの言葉です。<そこで専門の学者たちは、単に柿右衛門というのはおかしい、正確には有田焼の中の柿右衛門様式、と呼ぶべきだと十数年前から唱えはじめたのです>(同)
 この主張は徐々に浸透し、美術書の説明も柿右衛門様式とするのが一般的になりました。

 学問的には正確になったのですが、これが英訳されて話がややこしくなりました。「様式」に当たる英語は、STYLE(スタイル)です。大手オークション会社も、日本の偉い学者が言うことだからというので、良心的にカタログの表記を「 KAKIEMON STYLE」 に改めました。でも、STYLEには、「亜流」、「贋物(にせもの)」との意味合いがあり、そう受け取られてもやむを得ない、といいます。
 <競売用のカタログに、柿右衛門スタイル、とあるのを見た人たちは、これは贋物だと思って買わなくなった。だから暴落したに違いないのです>(同)と信じた東さんは、自分の考えを関係者に伝えたのです。表記が元の KAKIEMON に戻されると、値段はたちまち跳ね上がって、再び東さんの手の届かないものになりました。<それで、いいのです。でも、あんな頬(ほほ)をつねってみたくなるようなことは、もう起きないでしょうねえ>(同)と東さん。
「安く買い求めた柿右衛門のほとんどは、いま東さんのギャラリーの重要なコレクションとして展示されている」(同)と著者は締めくくっています。

 いかがでしたか?最後の東さんの発言からすれば、十分商売にはなっているようですね。自分の目を信じ、良心的に商売を続ける人には幸運が舞い込む(こともある)というちょっとイイ話でした。それでは次回をお楽しみに。
<付記>「読むクスリ」シリーズは、1984年から2002年まで、著者が週刊文春に連載したコラムを書籍化したものです。企業人たちから聞いたちょっといい話、愉快な話などを幅広く紹介しています。文春文庫版は全37巻です。

第566回 クイズで楽しむ3語英会話-英語弁講座44

2024-03-08 | エッセイ
 第44弾をお届けします。
 先日、書店の英語実用書コーナーで、ある本の帯の宣伝コピーが目にとまりました。
 X  My job is an English teacher.(私の仕事は英語教師です)
  → ○  I teach English.(私は英語を教えています)

 「英語は3語で伝わります」(中山裕木子 ダイヤモンド社)がそれで、通読して、なるほど!がいっぱいでした。後ほど、クイズ形式で、そのエッセンスを楽しんでいただくことにします。私なりに感じたこの本の優れた点は、次の2つです。
・まず第一に、「3語にこだわらない」ということです。
 この種の本の中には、3語を絶対のシバリのようにして、素っ気なかったり、不自然だったり、子供っぽかったり、の例文が混在しているものも見かけます。本書は、コア(核)となる情報を「基本的に3語」で、コンパクトに伝える、のを主眼としていますので、最低限必要な冠詞、代名詞、形容詞、付加情報などが入って、3語で収まらない例文もあります。でも、本当の意味で、実用的かつ役立つ表現が身につく工夫です。
・第二に、「3語で語るための発想、コツをしっかり教えてくれる」ということです。
 対応する英単語を探し、語順を整えて・・・という日本人的「英作文」をやっていると、3語「英会話」になりません。いかに英語的発想に切り替えるかのコツが、例文と合わせて、具体的に紹介されます。丸暗記ではなく、応用力がつく仕掛けです。
 それでは、4つのコツをキーに、クイズ付きでお楽しみください。

<コツ その1>be動詞を使わない工夫
 冒頭の宣伝コピーが格好の例です。be動詞を使わず、この例のように、「何をしているか」を表現すれば、その人が行っていることがダイナミックに、かつ、コンパクトに伝わります。
「I am a student of ○〇University .」(〇〇大学の学生です)ではなく、
「I study linguistics(言語学)at ○〇University.』と専攻分野も含めて表現すれば、学生の本分たる勉強に打ち込んでいる(らしい?)ことが、しっかり伝わります。それではクイズです。
「He is a leader of the project.」(彼はプロジェクトのリーダーだ)を3語英語にしてください。
   → 「He leads the project. 」と出来ましたか?力強くプロジェクトをリードしているのが目に見えるようですね。

<コツ その2>短く力強い能動態を使う 
 受動態(受身形)は主語が明確でない上、文が長くなりがちです。能動態を使いましょう。
「This product can be used for many applications.」(この製品は、多くの用途で使うことが可能です)→「This product has many applications.」のように。こういうhaveの使い方も身に付けたいですね。それではクイズです。
「Tax is included in the price.」(税金は、価格に含まれています)を、能動態にしてください。 
  → 「The price includes tax.」な~んだ、「含まれる」という受身の日本語にとらわれなければ思いつく表現でした。

<コツ その3>条件節は、省略、または後ろに置く
 「もし~なら」とか「~する時は」のような条件節は、日本語でも英語でも当然の前提として省略する手があります。英語だとコンパクトにするこんな工夫もあります。
「When you watch TV, I get irritated.』(あなたがTVを見ていると、私はイライラする」を、
「Your watching TV irritates me.」(君がTVを見ることが、私をイラつかせる)とするのです。
「Your watching TV」を主語にするというのがいかにも英語的。ここで、クイズです。
「If you have questions, you can ask now.」(もし質問があれば、訊いてください)をコンパクトにしてください。
  → 「You can ask questions now」
訊きたいことがある人にとっては、これだけで十分ですよね。

<コツ その4>notを使わず否定する
 notを使うと文が長くなります。それを使わない工夫として、反対語を使うテクニックがあります。「I don't like English.」⇨「I dislike English.」(英語が嫌い)
「no +名詞」を使う手もあります。「I don't have any idea.」⇨「I have no idea.」(考えが浮かばない)のように。ここで最後のクイズです。「今朝は朝食を食べなかった」を「not」を使わず表現してください。 
  → 「I skipped breakfast this morning.」朝食を抜いた、でよかったんですね。

 いかがでしたか?ほんのサワリだけのご紹介でしたが、おススメの一冊です。関心をお持ちの方は、是非ご一読ください。それでは次回をお楽しみに。

第565回 21世紀への伝言by半藤さん4

2024-03-01 | エッセイ
 第4弾をお届けします(文末に過去分へのリンクを貼っています)。作家・半藤一利さんの「21世紀への伝言」(文藝春秋刊)がネタ元です。ちょっと仰々しいタイトルですが、ご安心ください。1960年前後のお気楽で、興味深いエピソードをセレクトしました。どうぞお楽しみください。なお、<  >内は私なりのコメントです。

★現代版ロミオとジュリエットだ ★
 日本の映画界にはミュージカルは当たらない、というジンクスが根強くありました。それで、配給元のユナイトがプリント到着前につけた題名がなんと「ニューヨーク愚連隊」。
 「ウェスト・サイド物語」として1961(昭和36)年12月に封切られ、爆発的ヒットとなったこの映画にはそんな裏話があったんですね。映画の一場面です。

 ロングランはなんと511日に及び、観客動員152万人との記録が残っています。「なあに現代版ロミオとジュリエットだ」と酷評する人もいたようですが、ヒットさせたもん勝ちです。
<当時は珍しかったカタカナ入りのタイトルもヒットに貢献している、というのが私の見立てです。>

★ タダ酒は飲むな★
 戦後、新しい大学制度がスタートして、卒業式での総長、学長の告辞がなにかと話題になるようになりました。1954(昭和29)年の京都大学総長滝川幸辰の「タダ酒は飲むな」を聴かせたい人が、今時あちらこちらに居るような気がします。
 そういえば、1964(昭和39)年に、東大総長の大河内一男の「太った豚になるよりも、やせたソクラテスになれ」というのも随分話題になりました。
<近頃は、そのテの名言をあまり耳にしませんが・・・>

★給与支払いにつかうな★
 1万円札が初めて発行されたのが、1958(昭和33)年12月1日。戦後のインフレもあって、5年前から計画されていたのですが、大難産でした。
「そんな高額の札を出されたら釣りはどうする」
「インフレをいっそう助長するおそれがある」
「月給袋が薄くなって働く元気が失せる」などの意見まで出る始末。大蔵省は「一般の給与支払いには使わぬように」との指示を銀行に出したとか。
<昨今は、だいぶ有り難みが薄れたようでずが・・・10万円札、なんて噂も耳にします。>

★ チョウのように舞い、ハチのようん刺す★
 不世出のボクサーといえばカシアス・クレイ(のちにブラック・モスレムに改宗して、モハメッド・アリ)。彼がリストンを破って、世界ヘビー級チャンピオンになったのが1964(昭和39)年2月25日。81年に引退するまで、3度ヘビー級チャンピオンの座についた唯一のボクサーです。数々の名言を残しています。
「オレはチョウのように舞い、ハチのように刺す」(リストン戦を前に)
「こてんぱんに殴ってやるさ、帽子をかぶるのに靴ベラがいるようになる」(パターソン戦について)
「大勢の黒人は地獄を見ている。連中が自由でなければ、オレたちにも自由はない」(1975年)

★ ゼニの顔見んと、走らんのや★
 競馬にはほとんど関心がない私ですが、「シンザン」の名前だけは覚えています。1965(昭和40)年12月26日、中山競馬場で第10回有馬記念レースが行われました。スタンド前からミハルカスがトップに立ち、逃げ切るとだれもが思った展開に、4コーナーの大外から鋭く追い込んで優勝したのがシンザンです。史上初の5冠馬が誕生した瞬間です。
 無敵のこの馬ですが、併(あわ)せ馬(芦坊注:調教のため、2頭以上で行う練習レース)をすると二流馬に負ける変な癖があったといいます。新聞記者が栗田調教師に訊くと、けろりとしてこう言った。「この馬はゼニの顔見んと、走らんのや」

 いかがでしたか?中高年の皆様には懐かしく、若い方々には「へぇ~」とお楽しみいただけたなら幸いです。なお、過去分へのリンクは、<その1><その2><その3>です。併せてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。