★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
           毎週金曜日更新

第617回 超人ー司馬さんと清張さん

2025-02-28 | エッセイ
 新古書店で半藤一利さんの「清張さんと司馬さん」(文春文庫)を目にした時、随分昔の大学合格当時のことを思い出しました。受験勉強からの開放感もあり、教科書より先に小説類を買い込み、読みふけりました。中でも愛読したのが、タイトルになっているお二人です。

 司馬遼太郎さん(画像左)には、「国盗り物語」や「峠」などから入った覚えがあります。史実を踏まえた話の展開と細部のリアルさの虜(とりこ)になりました。その後も「坂の上の雲」など数多くの作品に接し、現在は歴史エッセイを中心に楽しんでいます。
 松本清張さんとの出会いは、直木賞受賞作の「或る『小倉日記』伝」など初期の短編でした。その後は、「天保図録」など、江戸時代の史実を踏まえた歴史長編も愛読してきました。
 二人の文豪に編集者として関わってきた著者がその超人ぶりを描くのですから、愛読者として、ご紹介せずにはいられません。どうぞお気軽に最後までお付き合いください。

 まずは二人が世に送り出してきた作品の「量」です。
 清張さんは、純文学から出発して、歴史小説、社会派推理小説、「日本の黒い霧」、「昭和史発掘」などとにかくあらゆることに関心を持ち、幅広い作家活動を続けました。
「全集66巻、原稿用紙400字詰10万枚をはるかに超えます」(同書から)
 作品化されたものだけでこれだけの量ですから、下書き、ボツ原稿、メモ類なども含めれば一体どれほどの量になるのでしょう。1回分が原稿用紙にして5~6枚程度の雑文を書くのに四苦八苦している私などから見れば、内容は当然のこととして、これだけの「量」の作品を生み出してきた超人ぶりにあらためて溜息が出ます。

 ついで司馬さんです。同書には「司馬さんもまた然りで、全集68巻、同じく10万枚を超え、膨大にして系統的な歴史小説群は平安末期から明治末にまで及びます。さらには、文明史家としての晩年が厳然として聳(そび)えます。大きすぎてだれの手にも余ります。」とあり、半藤さんもその活動ぶりに心からの敬意を表しています。

 さて、お二人の資料収集、調査、取材などでの超人ぶりです。
 司馬さんは、小説のテーマ、主人公が決まると、それに関する資料を徹底的に集める人でした。
 神田神保町に有名な古書店「高山本店」があります。そこの主人・高山富三男さんからNHKプロデュサーが聞いたこんな話が、同書に書かれています。「竜馬がゆく」の執筆準備のときのことです。
「(司馬さんは)とにかく関係するものは残さず集めてくれとおっしゃるのです。竜馬自身のものでなくとも、竜馬が各地方へ足をのばした場合の、その地方の郷土史だとか、会った人の家族の関係だとかそういうものをなんでもいいから集めてもらいたい、と注文されたといいますよ」
 それで、高山さんが集めた資料はおよそ3000冊、重さにして1トン、金額は、昭和30年当時で1000万円だったといいます。当時、文藝春秋社の社員だった半藤氏の月給は2万円ちょっとだったと書いていますから、現在価値で1億円ほどでしょうか。オーダーした司馬さんもスゴいですが、収集した高山さんと、総力を挙げて協力した古書の街の実力も想像を絶します。

 清張さんの徹底した取材ぶりを伝えるエピソードです。実際にあった中堅商社の崩壊をモチーフにした小説「空の城」の取材でカナダを訪れました。崩壊のきっかけとなった製油所の廃墟を見るのが目的です。いつものことだというのですが、「清張さんは取材で現場に立ちますと、しばし不動の姿勢をとり、じっと何ものかを凝視します。それも実に長い時間です。メモなどいっさいとるとはしません。つまり、あらかじめ資料などによって現場の様子などは頭に入っている。確認するためにわざわざやってきている、そんな感じなのです。」(同書から)
 事実、カナダ取材の前には「十二分なくらい精油の勉強をすましていました。横浜の大製油所も訪ねて見学し、説明を受けている。」ともあります。そして、現地取材の成果の一端を作品から引用しています。
「広大な工場の横には舗装された道路が通じていたが、舗装にはすでに亀裂が入っていた。道と工場の境は金網の垣根(フェンス)でさえぎられ、有刺鉄線も張られてあった。人の姿はひとりとしてみえず、操業を絶った工場は機械の音もなく、森の一部のように静まり返っていた。密林の奥深くに進んだ探検隊が、突如として行く手に先住民族の遺した都城や大伽藍を発見した時の想いが想像できるほどであった」
 なるほど、前半の綿密でリアルな描写と、後半のいかにも小説的な比喩が相俟って、見事です。

 いかがでしたか?お二人の足元には遠く及ばないことを十分承知しつつも、当ブログで私なりの努力、工夫を続けていこうと気持ちを新たにしたことでした。それでは次回をお楽しみに。

第616回 周到な江戸遷都大作戦

2025-02-21 | エッセイ
 幕末、薩長を中心とした倒幕勢力にとっては、遷都が大きな課題でした。京に都を置いたままでは、古いしがらみが抜けず、自分たちが主導権を取れません。そこで、とりあえず大坂(当時の表記)への遷都がほぼ決まっていました。それが、江戸へ、となったいきさつを以前記事にしました(文末にリンクを貼っています)。それから少しあと、NHKの「歴史探偵」という番組が江戸遷都を、たまたま取り上げたのです(2022年10月26日放映)。それを見て、江戸遷都という大作戦を、明治政府がいかに周到、巧妙に実行したかを知り、ひときわ興味を惹かれました。番組内容に沿ってご案内します。最後までよろしくお付き合いください。

 江戸遷都のためには、天皇に江戸に住まい続けていただく必要があるのですが、これが実に大変なのです。14世紀以来、天皇は、ずっと御所住まいで、外出は極めて稀です。そのことを指す「行幸(ぎょうこう)」という専用の言葉があるくらいですから。
 そこで明治政府が考えたのは、二段構えで、江戸への行幸を実施するというものでした。まずは1回目の行幸です。宮廷を納得、安心させるために持ち出した前例が、文久3(1863)年に行われた上賀茂神社への攘夷祈願の行幸で、それは、なんと237年ぶりでした。
 今回の行幸は、「苦しんでいる東日本を救うため」(番組から)が目的とされ、明治元(1868)年9月20日、天皇の乗った鳳輦(ほうれん)は、3300名の従者を引き連れ、東海道で江戸に向かいました。そこには、ただの移動にはさせない大久保利通を中心とした政府の戦略がありました。
 「外国では君主が国中を歩き、国民を撫育する」(番組から)という知識が、大久保にはありました。なので、今回の行幸では、天皇にできるだけ人々と触れ合ってもらって、親しみを持ってもらおうと画策したのです。現に、名古屋の熱田では、天皇は稲刈りをご覧になり、農民にお菓子を配っています。また、神奈川の大磯では、地引網漁を見学されました。その時には、フンドシ1枚の漁師が獲れた魚を直接天皇に差し出す、という(政府には嬉しい)ハプニングもありました。

 そして、同年10月13日、いよいよ江戸城入りです。行幸出発の4か月前には、上野で新政府軍と彰義隊との激戦(上野戦争)があったばかりです。新政府に反発を抱く人々もおり、はたして江戸で天皇が歓迎されるか、明治政府も不安を抱えていました。
 そこで打った手が、江戸の人々に酒を振る舞う、というものでした。京都から持って来た2斗2升入り7樽分の酒(「天酒」と呼ばれます)を、3000樽に分けて、江戸の人々に振る舞ったのです。その様子を描いた錦絵です。

 味も、有り難みもだいぶ薄れていたと思うのですが、人たちは大喜びで、飲んで騒いだといいます。約2か月滞在し、12月には京都に戻られ(還幸)ました。こうして、第1回目の行幸は大成功に終わりました。行ったきりになるのでは、と心配していた京の人たちも、ひとますホッとしたことでしょう。京都の各町内には、菊の御紋入りの「御土器(おんかわらけ)」ー皿を贈るなど、人々への対策も抜かりはありませんでした。

 そんな気分が抜けやらぬ翌明治2年正月、二度目の江戸行幸が発表されました。今回は、皇后、太政官を帯同しての行幸です。これはいよいよ江戸へ都が移ると感じた京の人々は、寺社などへ押しかけ行幸反対の声を上げます。あわてた政府が引っ張り出したのが、すっかり政府に取り込まれていた元公家の岩倉具視です。「岩倉公実記」という彼の一代記には、その時、京の人々に向けて発したメッセージが記録されています。
 「(江戸行幸を)「遷都をするかのように思っているものも少なからずいる」が「決して江戸に遷都してこの都府(京都)を廃されることは万々これなきはずなり」(番組から要約)
 どれほど効果があったのかはわかりませんが、予定通り行幸は実施され、同年3月28日、江戸城改め東京城に入城しました。江戸入りを伝える錦絵(番組から)です。

 それ以来、天皇は代々、皇居にお住まいで、天皇による遷都の宣旨とか、定めた法律はなく、東京は「事実上の」首都として機能してきました。

 番組の終わりで、代々、京都に残って商売を続けている商家の主人の一言が紹介されました。「天皇は ちょっと出かけてきます言うて行かはったんでしょ。いつ帰って来はってもええようにしっかり留守番しています」ヒネリの効いた、いかにも京都人らしい言葉です。

 いかがでしたか?関西出身で、東京での便利な生活を楽しんでいる身には、ちょっぴり複雑な思いもあります。でも、大事を起こすに当たっての周到さ、戦略性、そして人心収攬に長けた明治の政治家のスゴさをあらためて思い知りました。なお、冒頭でご紹介した記事は、<第450回 投書が決めた江戸遷都>です。是非とも合わせてご覧ください。それでは次回をお楽しみに。

第615回 超人的脱出マジックの話

2025-02-14 | エッセイ
 中高生の頃、初代・引田天功(1934ー79)のカードやコインを使ったテーブルマジックをテレビで楽しんでいました。やがて、大掛かりな「脱出」マジックを手掛けるようになりました。ロープとか鎖でぐるぐる巻きにされて、ジェットコースターやら、時限爆薬が仕掛けられた火煙塔などからの脱出を、ハラハラ、ドキドキ(そして、ちょっとワクワク)見たものです。ある時、日頃の訓練ぶりや、脱出劇の準備の様子が放映されました。ロープを巻き付けたり、錠を掛けるのは彼のスタッフ達です。目の前でポイと鍵を捨てたりするのですが、合鍵の隠し所がポイントかな、などと舞台裏を垣間見た気分でした。それでも、危険な技に挑むための日頃の修練、肉体の鍛錬ぶりには、さすがプロ、と感心したものです。
 そんなことを思い出したのは、寺山修司(演劇集団「天井桟敷」主宰者、詩人)の「不思議図書館」(角川文庫)が、魔術師ハリー・フーディーニの超人的な脱出芸を取り上げていたからです。本書に拠り、もっぱら大道で披露していたワザのスゴさと、彼の人生をご紹介することにしました。最後までよろしくお付き合い下さい。

 まずは、ワザの数々です。
 ある時、フーディーニは、警察官立ち合いのもとで、全裸で手首、足首を縛られ身動きできないようにされました。でも、わずか8分で抜け出して、観衆の度肝を抜きました。その鮮やかな手口から人々は彼を「エスケープ・アーティスト(脱出芸術家)」と呼んだほどです。
 ロンドンでは、彼を縛りたいという申し出が殺到し、絶対逃げ出せない拘束衣を考案したという男や、彼のために特製の檻を作ったと称する職人までが現れました。しかし、どんな拘束状況からも見事に脱出してみせたのです。そして、ますます難易度の高いワザに挑みます。こんな写真が残っています(同書から)

 1906年の冬、アメリカ巡業の折、彼は2個の手枷をつけたまま、デトロイトの橋の上から、氷のように冷たい川に飛び込みました。そして、指がかじかんで動かなくなるより早く、ほんの数秒で手枷から脱出してみせました。また、ニューヨークでは、手を縛らせ、200ポンド(約90キロ)のおもり付きの箱で川底に沈められました。「「こんどばかりは、フーディーニも絶体絶命さ」と言われたが、やはり、いつのまにか脱出して、川をのぞきこんでいる群衆の中にまじって、まわりの野次馬たちをアッといわせたものである。」(同前)
 こうなると真似する連中が出没し、フーディーニのワザは益々エスカレートします。弾頭がセットされた大砲の砲口に縛り付けられ、20分用の導火線に火がつけられました。失敗すれば木っ端微塵のところ、見事13分で脱出し、数千人の観衆に投げキッスをしたといいます。また、15分後に列車が通過する線路に縛り付けられ、ギリギリ間一髪で脱出する芸にまで挑戦しました。

 フーディーニをここまで突き動かしたものは何だったのか?寺山は、彼の人生、脱出を芸としたきっかけなどへと筆を進めます。
 フーディーニの出自は、その脱出ワザと同じく謎に包まれています。本人は、アメリカ生まれのアメリカ人と称していました。でも、フーディーニの最初の伝記を書いたウィリアム・グレシャムの調査によると、1874年に、ハンガリーのブダペストの貧しい家庭で生まれています。父親が殺人犯であり、一族がユダヤ人であったことから、出自を偽っていたのだろうと言われています。
 彼が「脱出」のアイディアを得たきっかけはカナダの精神病院であった、と寺山は別の伝記(「フーディーニの時代」(ダグ・ヘニング))を引用しています。
 「カナダの地方巡業で知り合ったスディヴ博士に病院内を案内されたフーディーニは、壁に詰め物をした病室に導かれ、弾力のある床に横たわっている拘束着の患者が自由になろうとして、七転八倒しているのを見た。フーディーニは、その患者のことが、いつまでも忘れられなかった。拘束着、精神病、詰め物をした病室ーーそして、ふいにそこから抜け出していく患者の悪夢」(同前)

 それにしても、、、と私などは考えます。アイディアは、精神病院で得たとしても、それを、芸として完成させるための人並み外れた努力、工夫へと駆り立てたものは何だったのだろうかと。
 寺山は、文芸評論家エドモンド・ウィルソンがフーディーニについて書いた「ある種の人間の能力が、彼自身の肉体の限界を超えるときの奇蹟」を引用した上で、「等身大の人間たちの日常的な現実を異化して見せることによって、フーディーニは「超人」たろうとしつづけた、という訳だ」を引用して、一文を締めくくっています。

 いかがでしたか?彼の人生を理解するには、「超人」がキーワードだと気付きました。暗い出自を、自分の肉体と知恵と工夫で振り払って、常人が到達できない世界を目指すのが、彼の生き方だったのですね。でも彼は、日々の現実には裏切られ続け、一生貧乏暮らしに明け暮れました。貧しい生活からの「脱出」はならなかった、というのが皮肉で、ちょっぴり哀しいです。
 それでは次回をお楽しみに。

第614回 切り裂きジャック事件余聞

2025-02-07 | エッセイ
 犯人探しではありません。犯罪史上に類のない連続殺人事件の犯人を逮捕する決定的なチャンスが2回あった、というのを知って、思わず身を乗り出した、という話題です。「牧逸馬の世界怪奇実話」(島田荘司・編 光文社文庫)所収の「切り裂きジャック」からお届けします。是非最後までお付き合いください。

 前段として、事件のあらましに、簡単に触れておきます。
 事件の現場は、ロンドンのイーストサイドと呼ばれる地区です。貧しい人々が密集して暮らし、治安が悪く、夜にはわずかな稼ぎを求めて体を売る女性たちが多く出没していました。
 最初の被害者が出たのは、1888年8月で、それから3ヶ月のうちに殺害された5人の女性はすべて街娼で、のちに「切り裂きジャック」と呼ばれることになる男の犯行が確実だとされています。この通称は、犯人を名乗る男が、警察宛の犯行声明で使用した名前に由来します。
 犯行の手口は、殺害した女性の肉体を切り裂き、内臓を取り出して奪う、などという残虐極まりないものでした。
 犯人は左利きで、ある程度の医学知識を持っていたことは確実だ、というのが死体を検分した警察医の推定です。また、現場から逃げる犯人の目撃証言などから、背が高く、細身で、帽子をかぶり、丈長の真っ黒なコートを身につけている、との犯人像も浮かび上がっていました。当時のイラストレイテッド・ロンドン・ニュース紙の挿絵で、犯人とおぼしき男(左)と自警団員です。

 ロンドン警視庁も威信をかけて、全力で捜査をします。犯行直後の現場に、警官がたまたま通りかかったケースもありましたが、混乱にまぎれて取り逃がしていました。

 それでは本題に入ります。まずは、最初のチャンスです。
 一連の事件がロンドン中を震撼させる中、実は、ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)は、ロシア政府からある情報を得ていました。それは、数年前、モスクワで今回と同じ手口の事件が頻発し、犯人として逮捕された男についてのものです。被害者はいずれも街娼で、切開手術のような暴虐が加えられていました。男は精神病者と判明し、病院に収容されていましたが、その年の春、脱走し、行方不明になっているというのです。相当優秀な外科医で、英国留学の経験もあるので、ロンドンへ潜入している可能性がある、というので人相書も送られてきていました。この男が、ロンドンの事件の犯人との断定はできないものの、極めて有力な情報であったことは間違いありません。人相書も含めて、捜査に当たる警察官に情報が行き渡っていれば、巡回、尋問などで容疑者と接触する機会は十分にあったはずです。でも、残念ながら情報は活かされませんでした。

 さて、これぞ本当に決定的なチャンスだった、というハイライト部分に話を進めます。
 なんと、犯人はたった一度だけ、一人の人間にじっくり顔を見られ、言葉まで交わしていました。逮捕寸前まで至った経過です。
 イーストサイド地区のバーナー街44番地に、マシュー・パッカーという男が営む小さな果物屋がありました。狭い土間の空間は果物だらけなので、客は入れません。そこで、表の戸を閉め切り、開けた小さな窓から接客や商品の受け渡しをしていました。
 9月30日、土曜日の深夜11時半頃のことです。店じまいをしようとしていたところへ、窓のむこうに男女2人が立ちました。女は店主も顔見知りのエリザベス・ストライドで、なうての不良少女でしたから、男は「客」に違いありません。店主は、その男の印象的な風貌、服装を後日、逐一警察に申し立てています。それによれば、年齢30歳前後、身長5フィート7インチ、肩幅広く、敏捷な顔つきだったといいます。長い黒い外套に焦茶色のフェルト帽をかぶっていました。男は、きびきびした横柄な早口でこう言いました。「おい。そこの葡萄を半ポンドくれ。3ペンスだな」(同前)

 2人が店の近くの社会党倶楽部の構内に消えていくのが目撃されて、20分経つか経たないうちに、その中庭でエリザベスの惨殺死体が発見されました。かたわらにはパッカーが売った葡萄の紙袋と葡萄の種や皮が散乱していました。男が彼女と談笑して商取引が終了後、犯行に及んだことは明らかです。5人とされる被害者の3人目でした。これだけ犯人がじっくり目撃されたのですから、捜査上の大きな進展には違いありません。そして、パッカー自身が関わる最も決定的な瞬間が訪れます。
 10月2日といいますから、事件から2日しか経っていない月曜日の正午頃のことです。パッカーは、あの夜の男が店の前を通行しているのを認めました。目に焼き付いた映像と、異様に長い黒の外套に見誤りはありません。白昼です。大声をあげて近隣の住民や通行人に協力を求めて取り押さえ、警察に通報することは簡単にできるはずでした。でも、彼はできませんでした。のちに警察の係官に、その男と目が合った時のことを陳述しています。「それは何事か脅かすような、じつに気味の悪い目つきでした。正直に申しますと、わたしは、はっと不意に打たれて、意気地がないようですが、あまりにびっくりしてどうにも足が動きませんでした」(同前)というのです。悪運の強い犯人は、決定的なチャンスを逃れ、時の流れの闇に消えていきました。

 いかがでしたか?う~ん、果物屋のオヤジさんにあと一歩の勇気があればねぇ。それでは次回をお楽しみに。