新古書店で半藤一利さんの「清張さんと司馬さん」(文春文庫)を目にした時、随分昔の大学合格当時のことを思い出しました。受験勉強からの開放感もあり、教科書より先に小説類を買い込み、読みふけりました。中でも愛読したのが、タイトルになっているお二人です。

司馬遼太郎さん(画像左)には、「国盗り物語」や「峠」などから入った覚えがあります。史実を踏まえた話の展開と細部のリアルさの虜(とりこ)になりました。その後も「坂の上の雲」など数多くの作品に接し、現在は歴史エッセイを中心に楽しんでいます。
松本清張さんとの出会いは、直木賞受賞作の「或る『小倉日記』伝」など初期の短編でした。その後は、「天保図録」など、江戸時代の史実を踏まえた歴史長編も愛読してきました。
二人の文豪に編集者として関わってきた著者がその超人ぶりを描くのですから、愛読者として、ご紹介せずにはいられません。どうぞお気軽に最後までお付き合いください。
まずは二人が世に送り出してきた作品の「量」です。
清張さんは、純文学から出発して、歴史小説、社会派推理小説、「日本の黒い霧」、「昭和史発掘」などとにかくあらゆることに関心を持ち、幅広い作家活動を続けました。
「全集66巻、原稿用紙400字詰10万枚をはるかに超えます」(同書から)
作品化されたものだけでこれだけの量ですから、下書き、ボツ原稿、メモ類なども含めれば一体どれほどの量になるのでしょう。1回分が原稿用紙にして5~6枚程度の雑文を書くのに四苦八苦している私などから見れば、内容は当然のこととして、これだけの「量」の作品を生み出してきた超人ぶりにあらためて溜息が出ます。
ついで司馬さんです。同書には「司馬さんもまた然りで、全集68巻、同じく10万枚を超え、膨大にして系統的な歴史小説群は平安末期から明治末にまで及びます。さらには、文明史家としての晩年が厳然として聳(そび)えます。大きすぎてだれの手にも余ります。」とあり、半藤さんもその活動ぶりに心からの敬意を表しています。
さて、お二人の資料収集、調査、取材などでの超人ぶりです。
司馬さんは、小説のテーマ、主人公が決まると、それに関する資料を徹底的に集める人でした。
神田神保町に有名な古書店「高山本店」があります。そこの主人・高山富三男さんからNHKプロデュサーが聞いたこんな話が、同書に書かれています。「竜馬がゆく」の執筆準備のときのことです。
「(司馬さんは)とにかく関係するものは残さず集めてくれとおっしゃるのです。竜馬自身のものでなくとも、竜馬が各地方へ足をのばした場合の、その地方の郷土史だとか、会った人の家族の関係だとかそういうものをなんでもいいから集めてもらいたい、と注文されたといいますよ」
それで、高山さんが集めた資料はおよそ3000冊、重さにして1トン、金額は、昭和30年当時で1000万円だったといいます。当時、文藝春秋社の社員だった半藤氏の月給は2万円ちょっとだったと書いていますから、現在価値で1億円ほどでしょうか。オーダーした司馬さんもスゴいですが、収集した高山さんと、総力を挙げて協力した古書の街の実力も想像を絶します。
清張さんの徹底した取材ぶりを伝えるエピソードです。実際にあった中堅商社の崩壊をモチーフにした小説「空の城」の取材でカナダを訪れました。崩壊のきっかけとなった製油所の廃墟を見るのが目的です。いつものことだというのですが、「清張さんは取材で現場に立ちますと、しばし不動の姿勢をとり、じっと何ものかを凝視します。それも実に長い時間です。メモなどいっさいとるとはしません。つまり、あらかじめ資料などによって現場の様子などは頭に入っている。確認するためにわざわざやってきている、そんな感じなのです。」(同書から)
事実、カナダ取材の前には「十二分なくらい精油の勉強をすましていました。横浜の大製油所も訪ねて見学し、説明を受けている。」ともあります。そして、現地取材の成果の一端を作品から引用しています。
「広大な工場の横には舗装された道路が通じていたが、舗装にはすでに亀裂が入っていた。道と工場の境は金網の垣根(フェンス)でさえぎられ、有刺鉄線も張られてあった。人の姿はひとりとしてみえず、操業を絶った工場は機械の音もなく、森の一部のように静まり返っていた。密林の奥深くに進んだ探検隊が、突如として行く手に先住民族の遺した都城や大伽藍を発見した時の想いが想像できるほどであった」
なるほど、前半の綿密でリアルな描写と、後半のいかにも小説的な比喩が相俟って、見事です。
いかがでしたか?お二人の足元には遠く及ばないことを十分承知しつつも、当ブログで私なりの努力、工夫を続けていこうと気持ちを新たにしたことでした。それでは次回をお楽しみに。