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第599回 大阪発祥のモノ語り−3

2024-10-25 | エッセイ
 久しぶりにシリーズの第3弾をお届けします(文末に、過去記事へのリンクを貼っています)。 
 これまでと同様、「はじまりは大阪にあり」(井上理津子 ちくま文庫)の情報を参考に、大阪発祥のサービス、モノを、今回は2つご紹介します。どうぞ気楽にお付き合いください。

★柔軟な発想が生んだターミナル・デパート★
 昔の国鉄(現JR)は、全国に鉄道網を展開してはいるものの、あくまで、ヒト、モノを運ぶ「輸送」が事業の柱でした。駅も乗り降りのための施設で、プラットフォームにキオスクと呼ばれる売店があるだけ、というのが多かったです。駅の様子が大きく変わったきっかけは、「民営化」と言っていいでしょう。
 多くの人が行き交う「駅」は、商業立地としては見れば、最高の場所です。首都圏の場合、あれよあれよという間に、「駅ビル」として再開発され、大規模商業施設に変貌しました。

 エレベーター、エスカレーターが整備され、トイレもきれいになったのが有難かったです。いろんな商店だけでなく、喫茶店、食事処などが揃っている「駅」も多いです。サラリーマン時代は、通勤の行き帰りに、そして、リタイヤ生活に入った現在は、散歩も兼ねての買い物に、と便利に利用しています。

 今では常識となっている駅の多角的利用を、昭和初期から行っていたのが、民営の阪急電鉄です。1929年(昭和4年)に、梅田駅(大阪市)に直結する「日本初・世界初のターミナル・デパート」(本書から)である阪急百貨店(開業当時は「阪急マーケット」)をオープンさせました。
 現在は、駅とデパートは、別の建物となっていますが、私が小さい頃は、改札を出ると、そこは、もうデパートの中でした。昭和9年頃のコンコースの様子です。

 画面の奥が改札で、手前側はすでにデパートの中です。アーチ型の高い天井が目に飛び込んできます。立派なシャンデリアも輝き、高級感も醸し出す仕掛けです。交通の便が一番の売り物ですが、扱う商品は、雑貨とか実用品にも力を入れ、食堂まで備えていました。広く一般庶民をターゲットにしていたことが分かります。

 でも、なぜターミナル・デパートなんでしょうか?通勤客の利用が見込めない日曜日の乗客をいかに増やすか、というのが、当時、大きな経営課題でした。ターミナル駅に直結した商業施設を作り、日曜日の買い物客の利用を当て込むというアイディアを発案、推進したのが、小林一三(こばやし・いちぞう:東京の銀行マンから転身した当時の最高経営責任者)でした。運賃収入増と、デパートの収益の2本立てで儲けようという戦略です。
 彼はまた、通勤客も含め、乗客全体の増にも取り組みました。
 沿線の宅地開発という今では当たり前の手法に先鞭を付け、沿線住民の増を図ったのです。輸送事業という枠にとらわれない柔軟な発想は、実を結び、大阪と言う地で見事に花開きました。今でも関西を中心に、その優れた経営センスから、伝説的な人物となっています。

★一瞬のひらめきとベタなネーミング★
 最近は使う機会も減ったOLFAのカッターナイフ。てっきり、外国製と思ってました。実は、OLFAというのは、「折る刃」にかけたベタで遊び心にあふれたネーミングであること、そして、世界初のこの製品は、大阪で開発されたというのを、本書で知って、なるほどと合点がいきました。


 開発したのは、岡田良男(1931-90)という人物です。旧制中学を中退し、苦労の末、発明の道へ進みました。危ない刃の取り替えをなんとかできないか、と考えていた彼に一瞬ひらめいたのが「板チョコ」です。「板チョコのようにポキッと折れるものを作りたいと考えたのです」(良男氏の弟さんの証言ー本書から)
 1956年に開発が完成し、大手の文具メーカーに持ち込みましたが、「そんなけったいな(奇妙な)もの、売れるわけおまへん」(同前)と相手にしてもらえません。ならばと自ら事業に乗り出し、成功をおさめました。今や同種の製品が出回っていますが、OLFAの規格が世界標準だ、といいます。大阪発祥というのと合わせて誇らしいです。

 いかがでしたか?もう少しだけネタがありますので、いずれ第4弾(シリーズ最終の予定)をお届けするつもりです。なお、過去分へのリンクは、<第327回><第464回>です。併せてご覧いただければ幸いです。それでは、次回をお楽しみに。

第598回 咸臨丸と日蘭交流の秘話

2024-10-18 | エッセイ
 咸臨丸(かんりんまる)といえば、幕末に条約締結の使節団をアメリカに運んだ船、と習った懐かしい名前です。確か、こんな絵が教科書に載っていました。

 司馬遼太郎のエッセイ「咸臨丸誕生の地」(「司馬遼太郎が考えたこと 15」(新潮文庫)所収)を読んで、この船がオランダで建造されたことを知りました。10数年前に、私たち夫婦が訪れた懐かしい国です。司馬も1988年に建造の地を訪れ、この船を巡る日蘭両国の交流、人間模様に想いを馳せています。その一端をご紹介します。よろしくお付き合い下さい。

 アルプスに源を発したライン川が、ドイツ、オーストリアなどを経て、北海に注ぐ河口の街が、オランダのキンデルダイク(文字通りには「赤ちゃん堤」)です。咸臨丸を建造したスミット社は、現在も小型船専門で操業しています。そこの幹部から、司馬は「赤ちゃん堤」の由来を聞かされています。
「いつの時代か、洪水があって、一枚の板が流れてきました。板の上には赤ちゃんと猫が載っていて、赤ちゃんが寝返りをうつたびに、猫はバランスを取るよう身を移していたらしいのです。以後、赤ちゃん堤(キンデルダイク)という地名になった。」(同エッセイから)とのこと。
 運河の国に相応しく、そして、ちょっと可愛い由来です。これと符号するように、近くにカッテンダイク(カッテンは猫ですから「猫堤」ということになります)という村があります。この地名は、人名だとカッテンディーケとなります。

 この村出身のリッダー・ホイセン・ファン・カッテンディーケ海軍中佐が、咸臨丸で日本にやって来ることになるのです。長身痩躯で聡明そうな容貌、と司馬は記しています。
 1857(安政4)年に進水した同船は、すぐに長崎に向けて出航します。船の諸元は明らかではありませんが、木造で、3本マスト、蒸気機関で、スクリュウー推進の小型軍艦、というのがほぼ確からしいとされています。
 カッテンディーケが乗船したのは、幕府の長崎海軍伝習所で教師団の長として活動するためでした。イギリス海峡では、自らいろいろ操船を試み、なかなか性能がいいとの記録も残していますから、かなりの技量の持ち主であったようです。
 伝習所では、勝海舟、榎本武揚らが教え子です。三十代の勝は、生徒隊長として、技術的なことだけでなく、幅広く薫陶を受けたようです。そして、のちに、勝は福沢諭吉らとともに、アメリカとの条約締結の使節団の一員として参加することになります。

 1860(万延元)年、使節団が出航しました。正使・新見正興以下81名は、米艦ポーハッタン(2415トン)に乗船です。咸臨丸は、護衛役と万一のための予備船を兼ねて、船将・木村摂津守、その従者として福沢諭吉(豊前中津藩士)、勝海舟(事実上の艦長)らが乗り込みました。幕末、維新で活躍する二人が乗りあわせる不思議な縁を感じます。

 エッセイの後半で、司馬の筆は、カッテンディーケが二人に与えたであろう思想的な影響に及んでいます。彼は伝習所時代を振り返った回想録を残していて、そこにこんなエピソードがあるといいます。
 「彼が長崎の街の商人と話をしていた時のことです。彼が、この街は軍艦1隻と陸戦隊で簡単に占領できるが、そういう場合、あなたたちはどうするか、と尋ねました。返ってきたのは、「何のそんなことは我々の知ったことではない。それは幕府のやる事なんだ」という返事だった。」(同前)
 近代国家、国民が確立しているオランダから来たカッテンディーケにとって、身の回りのことだけを心配し、あとは幕府に丸投げする日本のあり方には心底驚いたようです。そして、その驚きを勝や福沢に伝え、二人も、オランダと同様の国民国家を日本も持たなければ早晩滅びてしまうとの危機感を抱いたはず、と司馬は想像しています。
 江戸開城、大政奉還への奔走という勝の大胆な行動の基礎には、カッテンディーケから学んだ国民、国家という思想があった、というのが司馬の説明です。維新後の福沢の活躍もその影響を抜きには語れません。

 幕府の海防強化ために来日した一軍人が、その思想を受け止めるだけの優秀な教え子を得、結果として、幕府の瓦解に手を貸すことになったのは、大いなる歴史の皮肉ですね。
 世界へ目を開かせてくれた「猫堤」海軍中佐の歴史的役割が、もっと評価されてもいい気がします。

 いかがでしたか?日本とオランダのちょっと知られざる交流の歴史に関心を持っていただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第597回 ローマの水道橋はスゴい

2024-10-11 | エッセイ
 古代ローマ帝国の建築、土木技術のレベルの高さは驚異的です。歴史の授業で、ローマ市内のコロッセウムなどの壮大な建築物の画像を見ては、ため息をついていたのを思い出します。
 今回は、山の水源から都市まで、上水を運ぶ長大な導水路(以下、「水道」)と、それが谷を越えるために建設された水道橋の話題です。「ヨーロッパものしり紀行ーくらしとグルメ編ー」(紅山雪夫 新潮文庫)に拠り、小難しい話は抜きにし、そのスゴさをわかりやすくお伝えします。どうぞ気軽に最後までお付き合いください。

 古代民族の多くは、上水として川の水を利用して来ました。水量は豊富ですし、特別な施設なしで、比較的手軽に利用できますから。でも、ローマ人は、川の水が伝染病の源と考え、得意の土木技術で、長大な水道と、水道橋を帝国領内のあちらこちらに建設しました。
 紀元前1世紀から紀元後2世紀のローマ帝国最盛期が、建設の最盛期と重なります。戦えば必ず勝つ強大な軍事力を背景に、領土を拡大しました。そして、領土となった属州からの富を財源に、戦争で得た何万という捕虜を労働力として利用できたからこその建設ラッシュです。

 本書が取り上げるのは、南フランス・ニームの水道と、その水道がガール川の谷をまたぐ水道橋(ポン・デュ・ガール)です。まずは、華麗で力強い水道橋をご覧ください(以下の画像は、すべて同書から)。

 水源は、ニームの街から直線距離で約21キロ北の山間にある「ウールの泉」です。石灰岩質の山を背に、豊富な水量を誇ります。最短で結んでも、相当な距離ですが、途中には、山、谷などの障害物があります。山はトンネルを通し、ガール川の深い谷は、先ほどご覧いただいた水道橋を利用します。大きく迂回を強いられ、総延長は約50キロにもなりました。それでもこの程度の長さの水道は、いくらでも例があったといいますから、驚きです。
 さて、橋の概要です。両側の緑の斜面を背景に、黄褐色の石をアーチ状に積み上げた3層式の水道橋で、最上段が導水路になっています。長さは275メートル、高さは52メートル(12階建のビル相当)と迫力満点。
 そして、水道建設で大事なことは、適切な落差を設けることです。落差が大き過ぎれば、末端で水が溢れてしまいます。小さ過ぎれば、水がズムーズに流れず、濁りや汚染が発生します。
 ニームの水道の場合、50キロで、落差は17メートルです。なんと、平均すれば1キロでわずか34センチの落差を実現しています。人工的な水路の中を水がスムーズに流れるための最低限ギリギリいっぱいの落差だというのです。建設だけでなく、測量の面でも卓越した技術を発揮していたことがわかります。
 この水道は、その最盛期には、1日あたり2万トンもの上水を供給していました。しかしながら、ローマの衰退と、それによるニームの人口減で水道は放棄され、9世紀まで水は流れていたものの、現在は流れていないのが残念です。
 
 最上段の導水路がどうなっているか、ちょっと興味が湧きますよね。かつては、歩いて渡ることができ、著者も横断したというのです(現在は、文化財保護のため、立ち入り禁止だそう)。

 ご覧のように、石の蓋(ふた)がしてありますが、ところどころ無くなっている箇所があります。そこを通るには、両側の幅50センチほどの側壁の上を通るのが基本で、足がすくみそうです。ただし、強風とかで危険な場合は、導水路の中へ降りる、という裏技があります。中は、人が楽に立って歩けるほどの大きさなので、それが可能なのです。高所恐怖症気味の私などは、画像を見ただけで、頭がクラクラします。

 さて、そんな水道を通った水の終着点が、旧市街の北方にある石造りで円形の大きな分水槽です。かつては、ここから10本の水道本管に分かれて、市民に上水が供給されていました。
 現在、ニームの分水槽から先の設備は残っていず、代わりに、遺跡の街ポンペイに残っている設備が紹介されています。「ヴェッティイの家」と呼ばれる邸宅の外側に、水道の鉛管が何本も露出しています。金持ちは個別に上水を引き込んでいたのですね。市民は、街角にある公共の給水施設を利用しました。「豊穣(アッポンダンツァ)の泉」と呼ばれる給水施設です。

 「豊穣の女神」の像の口から鉛管が出ていて、人々は、水を汲みに来たり、飲んだりしました。富裕層にはそれなりの便宜を図る一方で、市民にもきめ細かくサービスを行き渡らせる・・・・ローマ帝国といえば、大規模な建造物に目が向きがちです。でも、市民へのサービスにもぬかりはなかったのですね。帝国繁栄の秘密はこんなところにもあったのかな、と感じたことでした。

 いかがでしたか?スゴい技術の一端に触れていただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第596回 村上春樹のアイスランド

2024-10-04 | エッセイ
 世界各地に足を運んでいる村上春樹さんが、アイスランドを訪れていたのを、紀行エッセイで知りました。「緑の苔(こけ)と温泉のあるところ」(「ラオスにいったい何があるというんですか?」(文春文庫)所収)がそれです。国土の一部が北極圏に属する厳しい自然の中で、36万人の人々が、生活を楽しみ、自然と親しむ暮らしぶりが興味深く、また、春樹さん流の心温まるエピソードも堪能しました。さっそくご紹介することにします。どうぞ最後までお付き合いください。

★本好きの国★
 2003年9月、春樹さんは、アイスランドの首都レイキャビクで行われた「世界作家会議」に招待され、自作の朗読、公開インタビュー、講演会などを行いました。いまや世界的作家である彼を呼ぶところが、いかにも読書好きのお国柄です。
 事実、春樹さんによれば、人々は読書に熱心で、家にどれだけきちんとした書棚があるかでその人の価値が測られる、というのです。人口の割に大きな書店も多く、「たぶん冬が長くて、屋内で過ごすことが多いということもあるのだろう」(同書から)との推測に頷けます。
 本を読むだけではなく、「書く」ほうにも熱心な国です。1955年にはハルドール・ラクスネスが、ノーベル文学賞を受賞しており、彼が亡くなった時には、作品が数週間にわたってラジオで朗読されるなど国を挙げてその死を悼んだといいます。レイキャビクだけで、340人が作家登録している、というのにも驚きました。

★パフィンを守る国★
 パフィンという鳥をご存知でしょうか。成鳥は、ご覧のように、オレンジ色の大きなクチバシをした可愛い鳥です。(ネットから)

 北極近辺の海の断崖に集団コロニーを形成し、巣穴で子育てをします。アイスランドにはその集団コロニーが集中し、なんと600万羽が棲息するパフィン王国です。春樹さんも、国の南岸のウェストマン諸島の中で、唯一、人が住むヘイマエイ島(人口4400人)を訪れました。
 さあ、パフィン見物、と張り切る春樹さんに、地元の人は、この時期(9月)には、親パフィンはいず、子供たちが少し残っている程度かも、と言うのです。こういうことです。
 8月末頃に、親鳥たちは、子供たちを置いたまま、一斉に、7か月にもわたる海上生活に入ります。地上には一度も降りず、ひたすら魚をエサにしての生活です。子パフィンしかいない時期に行き合わせたことになります。でも、これが春樹さんに、貴重で心温まる体験をもたらしました。
 巣に残された子パフィンは、本能を信じて、自力で飛び立つしかありません。うまく羽ばたけて、風に乗れればいいのですが、失敗するパフィンもいます。そして、飛び立てたとしても、エサの魚が穫れなければ、生き延びられない、という厳しい世界です。

 中には、うまく飛び立てたものの、灯りにひかれて街に迷い込む子パフィンがいます。街の人たちは、それらを救出してやるのです。見つけたら、段ボールなどに入れて、エサを与えます。体力がついたら、崖の上から放してやるのです。海上生活ができることを願いながら・・・
 春樹さんも救出に参加すべく街へ出ましたが、港で死んだ子パフィン1羽を見つけただけでした。その写真です。(同書から)

 子パフィンは外敵から身を守るためなのでしょうね、ご覧の通り、クチバシも含め全身ほぼ黒ずくめです(1年ほどで成鳥になれば、あの鮮やかなクチビルになるそう)。
 さて、首都へ帰る飛行機便が欠航となって、フェリーで帰途についた春樹さんは、放鳥の現場を目撃します。乗っていた父親とその息子が、ダンボールから子パフィンを取り出して、頭をなで、強風の中に投げ上げたのです。「子パフィンは「あれあれ」という感じで、しばらくのあいだそのへんの空をぎごちなく飛んでいたが、やがて海上に降りて、そこに浮かんだ。そしてあっという間に、小さな黒い点になって、波間に見えなくなった」(同前)
 春樹さんも「がんばれよ」と思わず声をかけたといいます。

★温泉の国★
 火山国アイスランドといえば「温泉」です。車で走っていると、あちらこちらに白い湯気を上げている小川があるといいます。春樹さんが体験したのは、温排水を利用した広大な人工の温泉です。レイキャビクから車で1時間ほどのところにある「ブルー・ラグーン」は、小さな湖ほどの広さがある観光スポットで、春樹さん(写真手前)も水着着用で楽しみました。スケールが大きい分、しっかり料金を取られて、国の収入に貢献したとのこと。

 いかがでしたか?う~ん、若い頃にこの情報があれば、間違いなく行ってますね。なお、以前、椎名誠さんのアイスランド紀行を話題にしました。リンクは、<第475回 椎名誠のアイスランド>です。併せてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。