以下は,実際には,2010年(平成22年)12月26日に書きかけた記事です。
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先に「音が動いていない」との話を書いた。
実際には,ほとんど動かさなくて良い,という曲も,稀にはある。
しかし,実際には,ほとんどの音は少しであっても「動かしてくれ」と言っていて(書かれていて)そうすべきものが多い。
合唱経験ではじめて,日本の「合唱組曲」らしい曲を歌ったのは,地元酒田市の大先輩である吉野弘さん(ご健在)が作詩し高田三郎さん(故人)が作曲した混声合唱組曲「心の四季」の中の第1曲「風が」だった。
その中の,たとえばピアノが奏でる「風」は,音符に書いてしまえば全ての季節を通して同じような音に思えるのだが,よく読んで演奏すれば,四季折々で全く色合いが異なっていることが分かる(というか,感じる)
物語は,四季の訪れを知らせる春の風に始まり,真っ白な景色の冬で終わるのだが,四季を自然に,かつ分かりやすく色合いを変えて演奏するのは大変なことだ。
それでも,演奏するならば,我々は作者から,その「使い分け」を要求されていると思わなければならないし,そうでなければ聴衆からの感動はもらえない。
実際に,合唱の歌い手の多くは,一生懸命に音を取って言葉をつけ,歌詞の意味を感じ取り,メロディや和声を理解して,心地よく(自己陶酔したりして)歌っているように思う(自分も,かつてそうだった)
そして,歌うための第一段階としては,非常に素晴らしいことである..が,本当の音楽表現は,ここからスタートするようなもので,気づいてもらえるのはありがたいが,納得されるには早すぎる。
指揮者や,ナンバー2に位置するコンマス的立場(トレーナークラス)の
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以上で書きかけは止まっていて「草稿」として保存されていました。
最終行以降は忘れてしまっているので,現在の気持ちで素直に続けます。
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指揮者や,ナンバー2に位置するコンマス的立場(トレーナークラス)の人であれば,日がな楽譜を読み返し「作者の意図」を十分に理解して表現するための,最大限の手法を講じなければ,と思う。
管理職を長く経験したこともあり,練習に入る前に,メンバーのコンディションを見ているし,発声練習前のコンディション作りにも懸命で,発声~カデンツァが終わると,ついつい30分も経ってしまっている。
これは,はじめの一息,一声の時点から「曲作り」「演奏会」までを意識しているのであって,基本中の基本を,毎回毎回積み重ねている..が,時々で皆さんのコンディションや参加メンバーでも「練習開始の前提条件」が変わってくる。
私は昔から「昨日と指揮が違う」とよく言われてきた(相手はアマだったりプロだったりするが)。
そして,別の指揮者は,どんな条件下でも,大威張りで「昨日の指揮」にこだわってくる。
そういう人は「常に前提条件が変わってくる」ことを無視して,到達点だけ見ているので,結果として到達しなくなるのだ。
ちなみに,私は平成の始めころに指導していただいた(全日本も連覇した)グリーンウッドハーモニー等で指揮をとる今井邦男先生と出会い,自分流でも良いのだ,と確信した。
(参考)今井先生の指揮する合唱団「六月の歌声」さんの「プロフィール」ページには,堂々と,
・得意な事・・指揮がリハと全く違っても平静を装って頑張る
と書いてあるし,私も指導いただいた数年間は,全くそのとおりだった。
いつもやっているのは,楽譜を読んで読んで読み返すこと。
読み物の「行間」を探すように,一つの記号にもかなりのこだわりを持ち,大体を理解したつもりになる。
けれど,現場では「前提条件」(メンバーやら気温・湿度まで)がいろいろ変わっていて,簡単には到達させてくれない。
そして反省して,また初心で楽譜を読み返す。
以前,遊佐混声でコダーイやコチャール・ミクローシュのとき「二重合唱を生かすため,パートを分けては?」「この曲は半分が待ち構え,半分が遠くから入ってきては?」等と提案した。
その後,昨夏にデーネシュ・サボー with Pro musicaの来演のオマケに遊佐町で行われた合唱セミナーで,鶴岡北高がコチャール・ミクローシュの二重合唱をして「こういう曲の場合は,別々の場所に立って歌う方が,効果が上がる云々」と指導されていた(私の所は,メンバーはほぼ完全に歌い,私の選曲のセンスを問われたが)
音楽的な識見と経験,そしてセンスというか想像力,いろいろ問われるのだと思う。だから,泥臭く「ゼロから読み返す」動作が必要だ。
作者の書いた意図を100%とし,演奏者が100%で演奏すれば100点なのだが(数値的には,1x1=1=100%,が正解)演奏がゼロであれば,掛け算の結果は「0」(つまりは台無し)となるわけである。
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先に「音が動いていない」との話を書いた。
実際には,ほとんど動かさなくて良い,という曲も,稀にはある。
しかし,実際には,ほとんどの音は少しであっても「動かしてくれ」と言っていて(書かれていて)そうすべきものが多い。
合唱経験ではじめて,日本の「合唱組曲」らしい曲を歌ったのは,地元酒田市の大先輩である吉野弘さん(ご健在)が作詩し高田三郎さん(故人)が作曲した混声合唱組曲「心の四季」の中の第1曲「風が」だった。
その中の,たとえばピアノが奏でる「風」は,音符に書いてしまえば全ての季節を通して同じような音に思えるのだが,よく読んで演奏すれば,四季折々で全く色合いが異なっていることが分かる(というか,感じる)
物語は,四季の訪れを知らせる春の風に始まり,真っ白な景色の冬で終わるのだが,四季を自然に,かつ分かりやすく色合いを変えて演奏するのは大変なことだ。
それでも,演奏するならば,我々は作者から,その「使い分け」を要求されていると思わなければならないし,そうでなければ聴衆からの感動はもらえない。
実際に,合唱の歌い手の多くは,一生懸命に音を取って言葉をつけ,歌詞の意味を感じ取り,メロディや和声を理解して,心地よく(自己陶酔したりして)歌っているように思う(自分も,かつてそうだった)
そして,歌うための第一段階としては,非常に素晴らしいことである..が,本当の音楽表現は,ここからスタートするようなもので,気づいてもらえるのはありがたいが,納得されるには早すぎる。
指揮者や,ナンバー2に位置するコンマス的立場(トレーナークラス)の
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以上で書きかけは止まっていて「草稿」として保存されていました。
最終行以降は忘れてしまっているので,現在の気持ちで素直に続けます。
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指揮者や,ナンバー2に位置するコンマス的立場(トレーナークラス)の人であれば,日がな楽譜を読み返し「作者の意図」を十分に理解して表現するための,最大限の手法を講じなければ,と思う。
管理職を長く経験したこともあり,練習に入る前に,メンバーのコンディションを見ているし,発声練習前のコンディション作りにも懸命で,発声~カデンツァが終わると,ついつい30分も経ってしまっている。
これは,はじめの一息,一声の時点から「曲作り」「演奏会」までを意識しているのであって,基本中の基本を,毎回毎回積み重ねている..が,時々で皆さんのコンディションや参加メンバーでも「練習開始の前提条件」が変わってくる。
私は昔から「昨日と指揮が違う」とよく言われてきた(相手はアマだったりプロだったりするが)。
そして,別の指揮者は,どんな条件下でも,大威張りで「昨日の指揮」にこだわってくる。
そういう人は「常に前提条件が変わってくる」ことを無視して,到達点だけ見ているので,結果として到達しなくなるのだ。
ちなみに,私は平成の始めころに指導していただいた(全日本も連覇した)グリーンウッドハーモニー等で指揮をとる今井邦男先生と出会い,自分流でも良いのだ,と確信した。
(参考)今井先生の指揮する合唱団「六月の歌声」さんの「プロフィール」ページには,堂々と,
・得意な事・・指揮がリハと全く違っても平静を装って頑張る
と書いてあるし,私も指導いただいた数年間は,全くそのとおりだった。
いつもやっているのは,楽譜を読んで読んで読み返すこと。
読み物の「行間」を探すように,一つの記号にもかなりのこだわりを持ち,大体を理解したつもりになる。
けれど,現場では「前提条件」(メンバーやら気温・湿度まで)がいろいろ変わっていて,簡単には到達させてくれない。
そして反省して,また初心で楽譜を読み返す。
以前,遊佐混声でコダーイやコチャール・ミクローシュのとき「二重合唱を生かすため,パートを分けては?」「この曲は半分が待ち構え,半分が遠くから入ってきては?」等と提案した。
その後,昨夏にデーネシュ・サボー with Pro musicaの来演のオマケに遊佐町で行われた合唱セミナーで,鶴岡北高がコチャール・ミクローシュの二重合唱をして「こういう曲の場合は,別々の場所に立って歌う方が,効果が上がる云々」と指導されていた(私の所は,メンバーはほぼ完全に歌い,私の選曲のセンスを問われたが)
音楽的な識見と経験,そしてセンスというか想像力,いろいろ問われるのだと思う。だから,泥臭く「ゼロから読み返す」動作が必要だ。
作者の書いた意図を100%とし,演奏者が100%で演奏すれば100点なのだが(数値的には,1x1=1=100%,が正解)演奏がゼロであれば,掛け算の結果は「0」(つまりは台無し)となるわけである。