今回は,同シリーズの最終回です。
さて,既に昭和30年代の山形東高校(その1),40年代の山形西高校(その2)について「それぞれが過去に聴いた中でトップ」と書いたが,その後も阿部さんは長らく山形西高校で全国金賞を受賞されている。
ちなみに私は昭和51年で高校三年だったが,同年に山形西高校では以下のYoutubeの一曲目に出てくる「駅」という課題曲(選択曲)を歌っている。
昭和51年全日本合唱コンクール 課題曲集という中に入っているが,残念ながら,同じ高校,同じ全国の金賞でも,響きやパートのユニゾン,曲の作り等がピーク時とは比べられない(県大会で何度も聴く機会があるわけだが「100名オーバーの,やたら大きい合唱」との印象)
だが,卒業して3年,というか4年目,昭和55年度になり,さらなるピークがやってくる。
同年の合唱コンクール山形県大会が酒田市民会館で開催され,私は指導していた母校の生徒達と聴いたのだが,山形西高校の選択曲「野葡萄」と自由曲「白鳥」の名演奏に完全に心酔してしまった。
もちろんこの延長で全国金賞(優勝)であったし,Nコンともども2冠の年であった。
個人的に前述の県大会のテープは持っているが,YoutubeにNコンのものがあるので,聴き比べているが特に高田三郎の「白鳥」は県予選の演奏ですらそのまま演奏していても全国トップではないかと思う(「高」は橋げたの方が正しいが,文字化けのため一般的な漢字を使用した)
ただ,実はもう一曲,自由曲で歌っていた「櫛」は,写真すらない時代に生きた,詩人の両親の長い日々の寡黙なあれこれを「女の命」である髪を,一櫛一櫛思いを込めてくしけずった心根を綴ったものだが,賢くもまだまだ幼い少女たちには理解と表現に困難だったようである(100名によるただデカイ音楽になっている)
だが,同じ日,同じ場で,山形西のOG団体である「嚶嗚(おうめい)女声合唱団」も,同じ「櫛」を歌っていて,東京メンバーとかが揃ってはいないのだが,詩人の書いた時空を超えた四次元の世界を想像させる,遥かに熟練した演奏で,山形西の「白鳥」と同様に感激して聴いた。
Youtubeから,同年のNコンのものを拾ってみた。
聴いてすぐ「緩い」,「大人すぎる」と感じた。
我が郷土,酒田出身の吉野弘先生の作であるから,そこにベースを置いて考える。
既存のことに大きな疑問を感じ始めた少年の傲慢さを,吉野さんは荒ぶる日本海に例えたのだろう。
傲慢さと日本海は比例して大きく,彼がいらつきながら動くときには,海の端を引きずって走るという設定だ。
「それは一個の排他性だった」
「排他性ではなかった」
この連続する二行の行間に「否」が入るのだが,吉野さんのセンスは,それを入れない。
作曲家もそれを重視して,自然体だ。
結果,演奏者に委ねられるのだが,そこへのアンサーが見えない。
美しい合唱ではあったが「銀賞団体(都立八潮)の方が好き」という意見も多い演奏だったようだ。
単曲としては,ほぼ完璧と言って良い,絶品である。全日本の方で100名のものを聴くと,実力に劣る声も含まれ「縁の甘い」コーラスになりスケール頼りの面が出るものだが,実力者に絞られたこの演奏では,よりユニゾン性も高まって,この年に限らず,この年代では突出した演奏ではないかと思った。
個々の発声などというより体自体が非常に鍛えられているのが良く分かる。
詩は吉野さんでなく高野さんだが,私は最上川沿いの家の上を朝夕,白鳥が大量に飛ぶ地域に住んでいて,極寒の時期の様子も想像できるが「凍てつき,足をちぎってでも飛び立つ白鳥」のダイナミクスは最高に思う。
もちろん,後に記す伴奏者のイントロから静かに入ってくる合唱も「物語の始まり=目覚め」とはっきりイメージさせてくれて抜群だ。
余談だが,合唱をバックにしてピアニストの両手を白鳥に見せたNHKスタッフの腕にも脱帽した。
オマケなのですが..
うれしい涙が頬を伝った。
涙の向うに側に
蔵王合宿があった。
つらい体操
楽しい語らい
その向うにNHKホールが
見える。
(山形)西高校音楽部でなければ
NHKホールで
ピアノを弾く機会は
ないだろう。
私は、恵まれている。
三年 日野佳奈子
「白鳥」の動画だけでは分からなかったが,ロールで伴奏者の日野さんのコメントが流れたとき,さらなる感動を覚えた。
普通の高校ならばピアニストの「彼女がいなければNHKホールに行けない(当時は優勝高のみ)」はずなのに,逆のことをコメントしている。
さすが阿部さんの指導であり,山形西高である。
彼が存在したことにより,長く合唱界は発展し,いろいろな指揮者・団体が生まれ育ち,作曲家を生み,演奏スタイルやジャンル等々,全ての合唱に関することが進化し続けてきたと思う。
ただ,先日,県の男声合唱フェスティバルで話したのだが,若年層はごく一部で,大半が中高年だ。
そして,県内では隆盛しているのは鶴岡周辺のみで,山形市や酒田市周辺の団体は,かなり減少,高齢化が厳しくなってきている。
書いている本人が「復活して中年」な訳だが,高校に話を持ちかけても門前払いの時代でもあり,中卒後に合唱する機会を増やす努力の必要性を強く感じている。
せっかく,大いなる道筋をつけてくださった阿部さんのご努力に報いるためにも。
さて,既に昭和30年代の山形東高校(その1),40年代の山形西高校(その2)について「それぞれが過去に聴いた中でトップ」と書いたが,その後も阿部さんは長らく山形西高校で全国金賞を受賞されている。
ちなみに私は昭和51年で高校三年だったが,同年に山形西高校では以下のYoutubeの一曲目に出てくる「駅」という課題曲(選択曲)を歌っている。
昭和51年全日本合唱コンクール 課題曲集という中に入っているが,残念ながら,同じ高校,同じ全国の金賞でも,響きやパートのユニゾン,曲の作り等がピーク時とは比べられない(県大会で何度も聴く機会があるわけだが「100名オーバーの,やたら大きい合唱」との印象)
だが,卒業して3年,というか4年目,昭和55年度になり,さらなるピークがやってくる。
同年の合唱コンクール山形県大会が酒田市民会館で開催され,私は指導していた母校の生徒達と聴いたのだが,山形西高校の選択曲「野葡萄」と自由曲「白鳥」の名演奏に完全に心酔してしまった。
もちろんこの延長で全国金賞(優勝)であったし,Nコンともども2冠の年であった。
個人的に前述の県大会のテープは持っているが,YoutubeにNコンのものがあるので,聴き比べているが特に高田三郎の「白鳥」は県予選の演奏ですらそのまま演奏していても全国トップではないかと思う(「高」は橋げたの方が正しいが,文字化けのため一般的な漢字を使用した)
ただ,実はもう一曲,自由曲で歌っていた「櫛」は,写真すらない時代に生きた,詩人の両親の長い日々の寡黙なあれこれを「女の命」である髪を,一櫛一櫛思いを込めてくしけずった心根を綴ったものだが,賢くもまだまだ幼い少女たちには理解と表現に困難だったようである(100名によるただデカイ音楽になっている)
だが,同じ日,同じ場で,山形西のOG団体である「嚶嗚(おうめい)女声合唱団」も,同じ「櫛」を歌っていて,東京メンバーとかが揃ってはいないのだが,詩人の書いた時空を超えた四次元の世界を想像させる,遥かに熟練した演奏で,山形西の「白鳥」と同様に感激して聴いた。
Youtubeから,同年のNコンのものを拾ってみた。
課題曲「走る海」詞:吉野弘、曲:広瀬量平(山形西高等学校合唱部)
聴いてすぐ「緩い」,「大人すぎる」と感じた。
我が郷土,酒田出身の吉野弘先生の作であるから,そこにベースを置いて考える。
既存のことに大きな疑問を感じ始めた少年の傲慢さを,吉野さんは荒ぶる日本海に例えたのだろう。
傲慢さと日本海は比例して大きく,彼がいらつきながら動くときには,海の端を引きずって走るという設定だ。
「それは一個の排他性だった」
「排他性ではなかった」
この連続する二行の行間に「否」が入るのだが,吉野さんのセンスは,それを入れない。
作曲家もそれを重視して,自然体だ。
結果,演奏者に委ねられるのだが,そこへのアンサーが見えない。
美しい合唱ではあったが「銀賞団体(都立八潮)の方が好き」という意見も多い演奏だったようだ。
自由曲 女声合唱組曲「ひたすらな道」から「白鳥」詩:高野喜久雄、曲:高田三郎(山形西高等学校)
単曲としては,ほぼ完璧と言って良い,絶品である。全日本の方で100名のものを聴くと,実力に劣る声も含まれ「縁の甘い」コーラスになりスケール頼りの面が出るものだが,実力者に絞られたこの演奏では,よりユニゾン性も高まって,この年に限らず,この年代では突出した演奏ではないかと思った。
個々の発声などというより体自体が非常に鍛えられているのが良く分かる。
詩は吉野さんでなく高野さんだが,私は最上川沿いの家の上を朝夕,白鳥が大量に飛ぶ地域に住んでいて,極寒の時期の様子も想像できるが「凍てつき,足をちぎってでも飛び立つ白鳥」のダイナミクスは最高に思う。
もちろん,後に記す伴奏者のイントロから静かに入ってくる合唱も「物語の始まり=目覚め」とはっきりイメージさせてくれて抜群だ。
余談だが,合唱をバックにしてピアニストの両手を白鳥に見せたNHKスタッフの腕にも脱帽した。
オマケなのですが..
「遥かな友に(はるかな友に)」曲:磯部俶(山形西高校・八潮高校合唱部)
うれしい涙が頬を伝った。
涙の向うに側に
蔵王合宿があった。
つらい体操
楽しい語らい
その向うにNHKホールが
見える。
(山形)西高校音楽部でなければ
NHKホールで
ピアノを弾く機会は
ないだろう。
私は、恵まれている。
三年 日野佳奈子
「白鳥」の動画だけでは分からなかったが,ロールで伴奏者の日野さんのコメントが流れたとき,さらなる感動を覚えた。
普通の高校ならばピアニストの「彼女がいなければNHKホールに行けない(当時は優勝高のみ)」はずなのに,逆のことをコメントしている。
さすが阿部さんの指導であり,山形西高である。
彼が存在したことにより,長く合唱界は発展し,いろいろな指揮者・団体が生まれ育ち,作曲家を生み,演奏スタイルやジャンル等々,全ての合唱に関することが進化し続けてきたと思う。
ただ,先日,県の男声合唱フェスティバルで話したのだが,若年層はごく一部で,大半が中高年だ。
そして,県内では隆盛しているのは鶴岡周辺のみで,山形市や酒田市周辺の団体は,かなり減少,高齢化が厳しくなってきている。
書いている本人が「復活して中年」な訳だが,高校に話を持ちかけても門前払いの時代でもあり,中卒後に合唱する機会を増やす努力の必要性を強く感じている。
せっかく,大いなる道筋をつけてくださった阿部さんのご努力に報いるためにも。