現在の政治状況(政権の動き、民自公)と市民運動に関係した考察です。野田政権が、市民運動とは異なる判断を継続的、連続的に行っています。そのことに関する考察です。長期的に見れば、野田、政権、民主党は必ず信任を失うはずです。なぜなら、自公政権に愛想が尽きた選挙民が民主党に投票し、政治の転換を期待したのに、野田が行っている政策は自公政党との野合であり、選挙民が否定した政策だからだと思います。民主党議員の大半は解散、総選挙をやりたくないはずですが、解散時期を明示しなければ、消費税率引き上げ法案に賛成しない自公両党との間に挟まり、自己矛盾をした状態に陥っています。
<山口二郎教授の考察>
国政を見ていると、民主党の崩壊過程が進んでいるように映る。民主党の周辺には生き残りを図って右往左往する政治家が目立つ。自民党の側では、民主党の自滅で権力が転がり込んでくるのを待つ様子が窺える。どちらにしても、今国会がしなければならない務めを果たしていない。
ほんの一例をあげれば、福島第一原発の事故に関する各種の調査委員会の報告が出そろったのだから、国会はそれを受けて再発防止策について徹底的に議論すべきである。しかし、黒川清国会事故調査委員会委員長の参考人招致さえ、実現しない。長年の原子力政策のゆがみをつつかれたくない自民党と、事故への対応について追及されたくない民主党の「協力」がもたらす不作為とメディアは評している。二大政党は政治不信を自ら招いているようなものである。
そして、首相官邸では野田佳彦首相が「決められない政治」からの脱却をモットーに、消費税率引き上げや原発再稼働という懸案について、断を下している。いちいち反対論を聞いていたら政治は前に進まないというのが、首相の言い分であろう。判断の当否は後世の評価に任せると言いたいのかもしれない。
他方で、市民の政治に対する抗議のエネルギーは、かつてないほど高まっている。私も七月二九日の原発再稼働反対の国会包囲デモに参加し、人の多さに驚いた。暑さをものともせず、まさに、老若男女、様々な人々が押し寄せていた。彼らは、個人的利害を離れ、後世のために声を上げていたのである。
国会も、官邸も、そしてその近辺の路上で起こっていることも、それぞれ民主主義の一つの姿である。職業政治家が次の選挙の結果に最大の関心を払うことは、民主政治の宿命である。民主的手続きによって選ばれた指導者が、その時々の民意に逆らって決定を下すことも民主政治の中では許容される。そして、政治家が自分たちの声を無視していると思うなら、市民自らが街頭に出て声を出すことは、活発な民主政治の姿である。
要するに、これが民主主義ですというすっきりした標本は存在しないのである。そして、民主主義は魔法の杖ではなく、私たちが常に試行錯誤しながら、追求するものである。今までの民主主義は、政府から恩恵を得るための仕組みだったが、今は国民一人一人が国の命運を議論する仕組みへと変容している。
膠着状態に陥っている政治家を別として、首相も市民も、後世を意識して行動していることは興味深い。両者の食い違いは簡単には縮まらないだろうが、少なくとも首相は市民の声を聞き、自らの判断について誠実に説明しなければならない。結論は違っても、指導者は誠実に考え、責任を果たしているという敬意を勝ち取らなければ、指導者は後世の評価に耐えることはできない。この点で、野田首相は十分な努力を払っているとは思えない。
三・一一の衝撃の大きさと、国会や政党の機能不全とのあまりの落差に、人々が自分たちで何とかしなければならないという責任感に目覚めたことで、日本の民主政治は新たな段階に進んでいるように思える。首相官邸周辺のデモについて、党派や団体ではなく、普通の市民が大勢参加しているという報道が目につく。これはおかしな話である。今までの日本の政治は、普通の市民が街頭で声を上げることを奇異と思っていた点で、普通の民主主義ではなかったのである。
主権者が街頭で声を上げることは、権力への抵抗の一種である。民主主義の土台に抵抗権があることは、四百年前から西欧の常識である。普通の市民がデモに参加することが当たり前となり、メディアにとってのニュースバリューがなくなった時、日本の民主政治は成熟することになる。原発事故という高い代償を払い、日本人はようやく民主政治を陶冶しているように思える。
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<山口二郎教授の考察>
国政を見ていると、民主党の崩壊過程が進んでいるように映る。民主党の周辺には生き残りを図って右往左往する政治家が目立つ。自民党の側では、民主党の自滅で権力が転がり込んでくるのを待つ様子が窺える。どちらにしても、今国会がしなければならない務めを果たしていない。
ほんの一例をあげれば、福島第一原発の事故に関する各種の調査委員会の報告が出そろったのだから、国会はそれを受けて再発防止策について徹底的に議論すべきである。しかし、黒川清国会事故調査委員会委員長の参考人招致さえ、実現しない。長年の原子力政策のゆがみをつつかれたくない自民党と、事故への対応について追及されたくない民主党の「協力」がもたらす不作為とメディアは評している。二大政党は政治不信を自ら招いているようなものである。
そして、首相官邸では野田佳彦首相が「決められない政治」からの脱却をモットーに、消費税率引き上げや原発再稼働という懸案について、断を下している。いちいち反対論を聞いていたら政治は前に進まないというのが、首相の言い分であろう。判断の当否は後世の評価に任せると言いたいのかもしれない。
他方で、市民の政治に対する抗議のエネルギーは、かつてないほど高まっている。私も七月二九日の原発再稼働反対の国会包囲デモに参加し、人の多さに驚いた。暑さをものともせず、まさに、老若男女、様々な人々が押し寄せていた。彼らは、個人的利害を離れ、後世のために声を上げていたのである。
国会も、官邸も、そしてその近辺の路上で起こっていることも、それぞれ民主主義の一つの姿である。職業政治家が次の選挙の結果に最大の関心を払うことは、民主政治の宿命である。民主的手続きによって選ばれた指導者が、その時々の民意に逆らって決定を下すことも民主政治の中では許容される。そして、政治家が自分たちの声を無視していると思うなら、市民自らが街頭に出て声を出すことは、活発な民主政治の姿である。
要するに、これが民主主義ですというすっきりした標本は存在しないのである。そして、民主主義は魔法の杖ではなく、私たちが常に試行錯誤しながら、追求するものである。今までの民主主義は、政府から恩恵を得るための仕組みだったが、今は国民一人一人が国の命運を議論する仕組みへと変容している。
膠着状態に陥っている政治家を別として、首相も市民も、後世を意識して行動していることは興味深い。両者の食い違いは簡単には縮まらないだろうが、少なくとも首相は市民の声を聞き、自らの判断について誠実に説明しなければならない。結論は違っても、指導者は誠実に考え、責任を果たしているという敬意を勝ち取らなければ、指導者は後世の評価に耐えることはできない。この点で、野田首相は十分な努力を払っているとは思えない。
三・一一の衝撃の大きさと、国会や政党の機能不全とのあまりの落差に、人々が自分たちで何とかしなければならないという責任感に目覚めたことで、日本の民主政治は新たな段階に進んでいるように思える。首相官邸周辺のデモについて、党派や団体ではなく、普通の市民が大勢参加しているという報道が目につく。これはおかしな話である。今までの日本の政治は、普通の市民が街頭で声を上げることを奇異と思っていた点で、普通の民主主義ではなかったのである。
主権者が街頭で声を上げることは、権力への抵抗の一種である。民主主義の土台に抵抗権があることは、四百年前から西欧の常識である。普通の市民がデモに参加することが当たり前となり、メディアにとってのニュースバリューがなくなった時、日本の民主政治は成熟することになる。原発事故という高い代償を払い、日本人はようやく民主政治を陶冶しているように思える。
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