「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

姓氏を推考するポイント。

2012-05-12 | 古代史

須佐之男命は、正式には建速須佐之男(たけはやすさのおのみこと)と謂います。このお方は、天の八十川{天(海部)の八坂川}で天照大神と誓約(うけい)をして大分県杵築市から島根県出雲市に追放され、出雲で生涯を終えたと思われます。この時、大分の事を懐かしみ名付けたものと考えられる、出雲の地に「杵築」の地名が現在も残っています。

この大分の杵築からは、崇神天皇の妃として意富阿麻比賣命(おほあまひめ)が出ていると想われ、全国の「八坂」「祇園」の元祖と考えられます。また、以前にも出てきました京都府宮津市にある籠神社の始祖である建田背命も第6代孝安天皇の命にて大分県から渡って往って海部氏・尾張氏の拡大を行っています。また、須佐之男命を祖とする三輪氏・賀茂氏、そして藤原氏・葛城氏・大伴氏も九州から近畿へ渡ったと考えられます。

三輪氏・賀茂氏に関係する大田田根子は福岡県久留米市の耳納山・甘木市の三輪山に関係していると想われ、出身は大分である事は明らかであります。大田田根子の父は健飯賀田須・建甕槌、母は鴨部美良姫とされています。「健」「建」と同じで豊後をさします。母の「鴨」も杵築市には「鴨川」が流れており、鴨(賀茂)氏が此処に居たと思われ、杵築出身と考えられ、どちらも大分県が出身であると考えられます。建角身命は「建」が付いていますので、間違いなく大分県にルーツがあると考えられ、賀茂氏も此処から近畿に移動したものと考えるべきです。葛城(葛木)の本拠地は紀元4~5世紀頃までは大分市高尾・明野地区にあったと考えられ、近畿大和にある葛城は大分から移住後に命名されたものと考えられます。

姓氏の研究をされる場合は、此処、大分(豊後)は尾張氏・海部氏・紀氏の本貫地と謂う事を頭に置いて推考しなければなりません。

大神(おおみわ)・熊野(くまの)・藤原(ふじわら)大内(おおうち)も大分県日出町~杵築市にあり、これも4~5世紀頃までの出来事は九州であります。その後、奈良の三輪や和歌山の熊野に移動したと考えられます。

 

 

 

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