古事記においては、
高木神と天照大神は葦原中国が平定された報告を受け、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に天降りを命じますが、何故か自身の天降りを断り、自分の息子(次男)の邇邇藝命を糸島に、高天原天照大神の委任(三種の神器)を受けた倭王として派遣します。
考察されますのは、
葦原中国は出雲だけではなく九州でも戦が行われていた、と謂う事でしょう。
次男の邇邇藝命で在らねば為らなかった理由は、考え方の一つには、出雲の戦の方が早く終結していて、長男の天火明命は既に出雲(近畿)へ王として天降って往ってしまっていたものと考えられます。
最後まで戦が残っていたのが吉野ヶ里だったのかも知れません。
次に、古事記から読み解かれますのは、
天火明命の事を全く触れていない事です。古事記においては、大国主命の国譲りの苦労話と葦原中国の平定を含めると多くの条項を割いていますが、葦原中国が出雲以東の地である事を「ぼかし」、特定できないようにしています。
最初に天忍穂耳命が大国主命の処(出雲)に行こうとして、阻まれていますので、天忍穂耳命若しくは天火明命の出雲への天降り条項が有らねば不自然ですが、記入がありません。
わたくしの推考では、高木神は二人の孫を、東倭領域に天火明命を、西倭領域に邇邇藝命を王として託そうと考えていたものと思われます。であれば兄弟仲良くやっていける。と考えたのではないでしょうか。
一方日本書紀では、
大国主命の居る葦原中国(出雲)の平定の後、邇邇藝命が葦原中国(出雲)に天降る事になるのですが、何故か其処は出雲では無くて、糸島半島前原であり、葦原中国の出雲から前原への「すり替え」が平然と行われています。
邇邇藝命は串日(くしひ)=(神霊の降りる場所)の二つの頂(由布岳と鶴見岳の事と考えられます。)から天浮橋(多分吊橋)を通って、浮島のある平らな土地に立ち、その不毛の地を丘伝いに国を求めて通り、吾田の長屋の笠狭碕(かささのみさき)に辿り着いた。とされ、
この後、邇邇藝命が木花之開耶姫に火明命を産ませた事に為っていて、系図上の混乱を起こさせており、これも古事記同様に故意に火明命を隠そうとしています。
記紀では、東倭(天火明命の治めた倭=近畿)の歴史が消されている様です。
近畿(天火明命)王朝の歴史が消され、其の上に、九州に居た神武を含む欠史八代と崇神・垂仁天皇を載せて来ております。
東倭が何時頃まで続いたかは、今後検討されねばなりませんが、記紀が述べています神武天皇までではありません。神武東征は無かったのです。
多分、(日本書紀による)崇神天皇の四道将軍{吉備津日子命(第7代孝霊天皇の子)を西道(山陽道)大毘古命(第8代孝元天皇の第1子で開花天皇の同母兄)を高志道(北陸)に、その子、建沼河別命(たけぬなかはわけみこと)を東方十二道(東海)に遣わし、日子座王(丹波道主命の父で第9代開花天皇の子)を旦波国に遣わし、「建波邇安王(たけはにやすおう)の反逆」の項があり、「戦」が有った事を扱っています。
多分孝霊天皇と吉備津日子命軍が出雲を平定し、鉄を確保後、近畿大和に最初に攻め込んだものと考えられます。第2陣には大毘古命とその子建沼河別命が、第3陣が日子座王とその子丹波道主命が九州から遣って来た物と考えられます。}
この長期に亘る四道将軍の派遣が東倭(ニギハヤヒ)王朝の滅亡と捉えられます。
天火明命(ニギハヤヒ)から建波邇安王(たけはにやすおう)迄の間の王が消されていると考えられます。
建波邇安王は第8代孝元天皇と河内青玉の娘である、波邇夜須毘賣との間の皇子と謂われて、崇神紀では崇神天皇が「異母の兄の邪心」と謂ったとされて系図上の混乱が起こっていますが、之は孝霊・孝元・開花天皇と続く東倭との戦を意味しており移住の問題と関係しているものと想像されます。開花天皇の時代に兄である大毘古命に東倭王である建波邇安王の討伐を命じていたものと考えられます。
建波邇安王の父は孝元天皇では無く、近畿の王と考えられます。そして建波邇安王は近畿王朝の天皇に成っていた。と考えられ、大毘古命との長年の戦いが窺い知れます。
その証として、西倭と東倭を纏めた崇神天皇を御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼んでいます。
《追補》2024年2月29日
ホツマツタエの記述を解読しますと、
高躬結び神一行が倭に遣って来たと考えられるAD205年頃には、熊本玉名の白族の人々は既に朝鮮半島に新羅(白)出張所を創っており、福井県~島根出雲・熊本玉名・博多~松浦方面と、交易を行っていて、半島からの渡来人は大勢居たものと考えられます。
九黎族の(BC473年頃遣って来たと、考えられる)白氏と南粤王族(BC110年頃遣って来たと、考えられる)の末裔が、混ざって九州を治めて居たものと考えられます。
九州に於いての、
白氏は、鹿児島~熊本~肥前・筑後~福岡方面の西部九州に進出していた。
南粤王族は、鹿児島~宮崎~豊後・ゆふいん高天原~鷹羽(田川)北九州方面の東部九州に進出していた。
即ち、
韓半島経由で来たと考えられる『高躬一行』は、先ずは『白氏』(水天宮)=狗呉、次に『阿蘇』を支配していた、『健磐龍命』(鹿島神)に挨拶します。
久留米市に居たものと考えられます白氏の『※白王』と会見し、高躬の長男の『耶蘇杵』の嫁に『白山姫』を娶ります。筑後大石(うきは市高見)から船で『水天宮』(天御中主命=白山姫)近くの、久留米市大石町の『大石神社』に『巨岩』を結納として、運んでいると考えられます。
白氏(水天宮)=狗呉はAD200年頃には、九州~出雲~福井・富山・新潟迄進出していたものと考えられます。
※白王の末裔が、現在は福岡県飯塚市の神社宮司に『白土』(土の字の右上に点が附いています)様が居られます。明治になり、『白王』の名前を『白土』に変えさせられた。との事です。元の『白王』に戻っていただきたいと思います。歴史が解らなく為ります。
『耶蘇杵』(大幡主命)は、南粤王族の『曾於郡の太耳の娘』をも娶って、『大己貴命』を儲けます。此の『大己貴命』が、須佐之男命の乱の時に、『大物主』に任じられ乱を収めようとします。
白氏・南粤氏を統括していたと考えられます『阿蘇氏』(鹿児島県川内市甑島に着いた。と、考えられます『鹿島大神』)の『健磐龍命』と面会し、娘の『阿蘇津姫』(豊玉姫=息長大姫大目命=天鈿女命=龍神姫=弁天様)を、高躬の(下の)息子(日高彦彦穂穂出見尊)の嫁にします事で、豊後~筑後・筑前・肥前・北九州の北部九州を割譲を受けます。