古代史を勉強して、如何しても疑問が消えないものの一つに天皇系図とその他の姓氏の系図の不整合性があります。天皇系図の方が3代程多くあると考えられます。また、107年の師升王をスサノオ命であると述べていますので、時間軸上の問題が生じています。
この問題を考えて見たいと思います。
わたくしの論では、欠史8代の時期は九州に天皇がおられ、第7代孝霊・第8代孝元・第9代開花天皇は夫々行橋(黒田)・田川(香春)・春日に居られた事になっています。しかし、高天原が由布院にあったと考えられる事で、当初の『倭』は最初から『西倭』(ニニギ命)と『東倭』(ニギハヤヒ命)に分かれていた。と考えられ、『東倭天皇』が『建波邇安王』まで消されていると述べていました。
その後、考察を深めますと、どうも真実は違うようです。
『東倭』にて争いが起きて、ニギハヤヒ正統の天皇が(多分孝霊天皇)『西倭』の行橋・黒田に避難して其処から反撃をしていた(四道将軍)と考えるべきである。と思われます。
其の根拠となるのは、孝霊(大倭根子日子賦斗邇命)・孝元(大倭根子日子国玖琉命)・開花(若倭根子日子大毘々命)の三人とも名前に『根』の文字がついております。この『根』は島根の出雲を表しているとも想われ、三人とも出雲をルーツに持つ『東倭天皇』であったと考えられます。
『建波邇安王』は叛乱軍の王であった。と視るべきでしょう。
また、『東倭』を『大倭』と呼んでいたとも考えられます。
そうしますと、第6代孝安(大倭帯日子国押人命)にも『大倭』があり、第4代懿徳(大倭日子鋤友命)にも可能性が出てきます。
そして、開花天皇は『若倭』となっていますので、『西倭王』になったとも解釈できます。
この様に考えますと、欠史八代の内、三代は出雲にルーツを持った天皇で、残る五代のうち二代(懿徳・孝安)は議論の余地を残す事になります。
記紀は西倭天皇と東倭天皇(大倭天皇)の名前を一緒にしてしまっているとも考えられます。
もし、仮にこの三代を東倭(大倭)の天皇とすれば、ニギハヤヒ命・・・・・孝霊―孝元―開花―崇神となり、西倭はニニギ命・・神武―綏靖―安寧―懿徳―孝昭―孝安ー開花―崇道(比古由牟須美命=彦湯産隅命)の流れとなります。天皇が重なるのは、孝昭と孝霊・孝安と孝元となり、西倭には同時期二人の天皇が居られた事になります。
もし、仮にこの五代を東倭(大倭)の天皇とすれば、ニギハヤヒ命・・懿徳―孝安ー孝霊―孝元―開花―崇神となり、西倭はニニギ命・・神武―綏靖―安寧―孝昭―開花―崇道の流れとなります。
記紀を読み直して考察致しますと、
わたくしの想像では、第6代孝安天皇の時に、記紀の偽装がなされているように思えます。(孝霊・孝元・開花3代が大倭天皇)
孝安天皇(大倭帯日子国押人命)(東倭の血の這入った西倭天皇と思われます。)は葛城室之秋津島宮(どうも由布院と考えられます。)に居て、姪(めい)の忍鹿比賣命(おしかひめ)を娶り、大吉備諸進命(おほきびもろすすみみこと)と大倭根子日子賦斗邇命(おほやまとねこひこふとにみこと)=第7代孝霊天皇の二柱が産まれた事になっていますが、この二人は根(出雲)方面からの避難者と想われ、孝安天皇には子供が居なかったと考えられます。
そして、孝安天皇は葛城室之秋津島宮(由布院)にて兄嫁である宇奈岐日女命(宇那比媛命)の世話をしておられていたものと考えられます。
第4代懿徳(大倭日子鋤友命)の弟?の師木津日子命の子に和知都美命(久留米の御井宮に居られたと考えられます。)がおり、その子に二人の娘があり、姉が蠅伊呂泥(意富夜麻登久邇阿禮比賣)、妹が蝿伊呂杼と謂い、二人とも第7代孝霊天皇に嫁いでいます。と、されています時間軸の不自然さが解消され納得出来ます。
西倭の孝安天皇に子が無かった為、孝元天皇(大倭根子日子国玖琉命)(東倭=大倭?)の子である若倭根子日子大毘毘命(開花天皇)が統一の倭王となったものと考えられます。
そして、玉垂宮に居られた崇神天皇が纏向にて初めての『倭の統一』を成し遂げる事になります。
第4代懿徳天皇(大倭日子鋤友命)にも大倭の文字がついていますが、第3代安寧天皇の子は常根津日子伊呂泥命・大倭日子鋤友命・師木津日子命の三柱になっていますが、常根津日子伊呂泥命は女性と想われ、根(出雲)へ嫁がせ、代わりに大倭日子鋤友命を養子として貰い受け、「換え姫(き)」的な事を行っており、東倭(大倭)との血縁(天火明命・邇邇芸命)の絆を深めていたものとも考えられます。第6代孝安天皇も血縁が繋がっており、大倭の名前が付いているものと覗えます。