第10代崇神天皇の時代、各地に派遣された四人の将軍があります。四道将軍と呼ばれる人達で、近畿丹波に派遣されたのが丹波道主王(たにはちぬしのきみ)であります。丹波道主王は日本書紀では第9代開花天皇の孫で、彦座王(ひこいますみこと)亦は彦湯産隅王(ひこゆさすみのみこと)の子と記入されています。
彦座王は、少年時代は香春町~大任町周辺に、彦湯産隅王は、少年時代には田主丸町に存在を考えられ、丹波道主王も九州から近畿丹波へ出向いたとも考える事が出来ます。
四道将軍の一人として近畿丹波へ赴くのですが、この方が娶ったのが川上麻須の娘{古事記では旦波比古多多須美知宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのきみ)とされています。}、川上麻須郎女(かわかみますろめ)とされ、生まれて来たのが日葉酢媛(ひばすひめ)であります。この日葉酢媛は後に垂仁天皇の皇后になり、第12代景行天皇を産んでいます。
わたくしの説での解釈は、川上麻須は由布院(高天原)に棲んで居られたものと考えられ、以前にも述べましたが、由布院には『川上』の地名が半分近くを占め、現在も川上姓の方も居られます。
垂仁天皇は、人生の前半は久留米の大善寺玉垂宮に居られていると考えられ、狭穂(嘉穂)彦王の謀反で狭穂姫(嘉穂姫)が亡くなるのですが、
其の時の狭穂姫の薦めで、高天原(由布院)出身と氏素性の確りしていた(丹波道主王と川上麻須郎女の娘である)日葉酢媛ほか四人の娘(渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・竹野媛)を貰い受けています。{真砥野媛(まとのひめ)の末裔とも考えられる的野(まとの)姓の方が由布院にはおられます。(古事記にては真砥野媛は自害した事になっています。)}
この様に考えると、景行天皇が熊襲征伐の折(景行12年)、わざわざ安心院~由布院まで来られた理由。そして、豊後国速見郡女首長速津媛の歓迎を受け、金鱗湖傍の天祖神社にて皇祖霊神天之御中主命の祀りを命じたか。が腑に落ちます。其の後、第13代成務天皇も塚原の霧島神社に痕跡を残しています。日葉酢媛の親(川上麻須郎女)のルーツは由布院(高天原)であった。と考えられます。