「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

出雲『神原神社』古墳から出た、景初三年の鏡は『建諸隅命』が『飯入根命』に渡したものと思われます。

2014-09-12 | 古代史

今日は『建諸隅命』(建日方命)を考えてみたいと思います。

建諸隅命』は『鐃速日』ルーツがあり、先代旧事本紀や勘注系図では八代目に記入されています。(世代を重ねる一世代を16~17年で考えますと『鐃速日』が居たのは『建諸隅命』より128~135年前になります。)

 

建諸隅命』(武諸隅命)は『建田背命』の子とも、『建宇那比命』(先代旧事本紀)の子とも述べられ、系図上にて混乱を生じていますが、この『建田背命』『建宇那比命』の妹が由布院(木綿の院)に居た『宇奈岐日女命』(宇那比媛命)=卑弥呼と考えられます。

建諸隅命』の母は、国宝の『勘注系図』では『葛木の高田姫』とされており、此れは大分市に在る『高尾葛木』に居た『高田姫』を娶った。と謂う事になります。此の葛木には『金の手』『高田橋』『鉾神社』があり、間違い無いものと考えられます。

由布院で生れた『建諸隅命』は、妹?(妹)に『大海姫』が居り、後に杵築へ移動して崇神天皇との間に能登國造祖になる大入杵命・八坂入彦命・渟名城入媛命・十市瓊入媛命を儲けています。

杵築は当時、紀伊(杵)国と以前は呼ばれていた様で、紀伊國荒河戸畔の女、遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)とも契りを結び、『豊城入彦命』と、『豊鍬入比賣命』を儲けています。崇神天皇は病に臥せっていたものと考えられ、『豊鍬入比賣命』に『天照大神の移動を託された』と記しています。

崇神は、此処杵築で亡くなった後、杵築の人々は『小熊山古墳』を築き、葬ったのでしょう。

 

活眼入日子命(垂仁天皇)との関係を考えますと、杵築で崇神が病に臥せって居た時は、久留米大善寺玉垂宮に居たものと考えられます。その後、嘉穂にルーツ(春日建国勝戸米命)を持つ、沙本之大闇見戸賣命と彦坐王の子である狭穂彦(日下部の祖)の妹、狭穂姫(嘉穂姫)を娶り、近畿纏向に居た伯父、彦坐王(彦湯産隅命・孝霊天皇・景行天皇)の元へ往ったものと考えられます。

亦、伯父である『彦坐王』(景行天皇)は生れ故郷の田主丸から行橋勝山黒田を経て『孝霊天皇』(景行天皇)として中国~近畿北陸を制して、息子(吉備津日子命)を岡山に配し、『彦坐王』(景行天皇)の伯父である『大彦命』が棲んで居た奈良纏向に居を構えたものと考えられます。

『彦坐王』(景行天皇)は日本の国家としての体裁を整えた『最初の大王』であったと思われます。

 

 

わたくしは、城島(師木)に居た『崇神天皇』が、『建日照命』(たけひなてる)が天から持ち出した出雲の『神宝』を見てみたいと『建諸隅命』を出雲に派遣した理由を考えてみました。

 

崇神天皇が『建諸隅命』に出雲の神宝を召し出す様に使者として遣わした経緯と顚末を日本書紀では次のように述べています。

六十年の秋七月の丙申(ひのえさる)の朔己酉(ついたち つとのとりのひ)に、群臣詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「武日照命(たけひなてる)の、天より将(も)ち来れる神宝(かむたから)を、出雲大神の宮に蔵(おさ)む、是を見欲(みまほ)し」とのたまふ。則ち矢田部造の遠祖諸隅(もろずみ)を遣して献(たてまつ)らしむ。是の時に當りて、出雲臣の遠祖出雲振根(ふるね)、神宝を主(つかさど)れり。・・・(『日本書紀』崇神紀より)

出雲臣の遠祖の出雲の『振根命』(ふるね)が、『建日照命』(たけひなてる)が天から持ってきた神宝を管理していたのですが、振根命が筑紫国に行っていた時に、振根命の弟の飯入根命(いひいりね)が崇神天皇の命に従って、神宝を建諸隅に渡してしまいます。振根命が筑紫から帰って来ると、すでに献上した後であり、弟の飯入根命に「数日待つべきであった。何を恐れて、軽卒に神宝を渡したのか」と謂って責めた。この事があって、幾年月を経ても振根は弟に恨を懐き、やがて弟を殺そうと思うに至り、弟を欺いて木刀を真刀に似せて取り換えさせ、殺したのである。

以上が事の成り行きであります。

 

 

先ずは、『建諸隅命』の生存時期の検討をしてみたいと思います。

当時は15歳から17歳位で世代を重ねていたと考えれば『建諸隅命』(湯垢離・由碁里)の子が、若倭根子日子大毘毘命(開花天皇)の皇后となった竹野姫で、その子が彦湯産隅命(彦坐王・景行天皇)と謂うのであれば、崇神や彦坐王とは30~35歳の年の差が有ったと考えられます。

次に卑弥呼(宇那比姫命)です。

『倭の大乱』が起きたと考えられていますのが、後漢の霊帝の光和年間(西暦178~184年)とされ、宇那比姫命(卑弥呼)の即位は幼少(4~5歳)で有ったと考えられ、大乱の終了した時期の西暦184年頃となり、逆算しますと、生誕は西暦179~180年前後と想像されます。卑弥呼は247年か248年に亡くなったとされていますので、68~70歳程の人生で有ったと考えられます。

『宇那比姫命』(卑弥呼)の兄である『建宇那比命』(西暦175年頃の生誕と考えられます)の子が『建諸隅命』であります。(『建田背』の子とも記されていますが、『建田背』と『建宇那比命』は同一人物とも考えられており、わたくしも、その説を支持致します。)『建諸隅命』が生誕したのは西暦192年前後と想像されます。

 

そうしますと、『建諸隅命』の子である『竹野姫』が生れたのは西暦209年頃と考えられます。開花が『竹野姫』より幾分年長と仮定して西暦205年前後に生れたと考えれば、梁書通典(266年)に述べて在ります『倭女王』と伴に爵位を受けた『男王』とは、の開花天皇であった。と主張されておられます『桂川光和』さまの説が正解でありましょう。(開花61歳位

崇神・彦坐王の生誕は西暦222年頃となり、共に卑弥呼に遭う機会が有った事になります。崇神が開花の後を受け継いだ時期は不明ですが、仮に、開花が62歳頃に亡くなったと考えれば、崇神が45歳頃に即位した事になります。そして、出雲の神宝を視たいと述べた頃の『建諸隅命』の年齢は76歳位が考えられ、相当の老人の使者であった。と想像出来ます。

其れとも、皇太子の時から『建諸隅命』は崇神に使えて居て、もっと若いときに出雲へ出向いたとも考えられます。しかし、『建諸隅命』は開花天皇の時代(西暦239年頃・景初3年)卑弥呼の使者『都市牛利』として魏に遣わされたと考えられており、この時分の『建諸隅命』の年代は44~45歳と考えられ、油の乗った時期は開花天皇に仕えて居たと考えられ、崇神に使えたのは、『老後の最後の奉仕』であったと想われます。

逆に考えますと、この仕事は『建諸隅命』でなければ出来ないものであったと思われます。

 

実は、ホツマ伝では先代旧事本紀や勘注系図とは異なり、『ニギハヤヒ』と『建日照命』は兄弟と記入され、その『建日照命』(たけひなてる)の子が『建登米命』(たけとめ)とされ、『建登米命』の子が『建宇那比命』で、『建諸隅命』の父であります。

建諸隅命』から遡れば三世代前が『建日照命』になり、一世代を17年で計算をしますと51年程以前に生れたのが、『ニギハヤヒ』と『建日照命』(少名日子命?)で有った事になっており(西暦140年頃)、『倭』から神宝を持ち出した『建日照命』は曾祖父に当る事に成ります。

曾祖父の出雲へ持ち出したものを曾孫である『建諸隅命』には受け取る権利を有している。との『論』を張れる事になります。

建諸隅命』は手土産として魏から卑弥呼(宇那比姫)宛に頂いた景初三年銘の三角縁神獣鏡を『飯入根命』に渡して、代わりに『神宝』を受け取って城島(しき)玉垂宮(瑞垣宮)の『崇神』の元へ帰って来た。と考えられます。

其れが、以前は高良玉垂宮に『三種の神宝』(神璽・宝剣・鏡)が在ったとして記録に残っていますが、此れらの書物は、本来は大善寺玉垂宮に収められていたのを、江戸時代初期に有馬藩が高良山玉垂宮本殿造営時に大善寺玉垂宮から移動したと考えられます。{高良山玉垂宮の創建は履中元年(西暦400年)とされています。}

 

と、謂うことで、島根県の雲南市加茂町に在ります『神原神社』古墳から昭和47年出土発見されました景初三年銘(鋳出)の三角縁神獣鏡(通称、卑弥呼の鏡)は『建諸隅命』が『飯入根命』に渡したものと考える事が出来ます。

 

 

 

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