古事記にて、
『天照大神と須佐之男が天安河(あまのやすかわ)を挟んで宇氣布(うけふ)=誓約をされた時、天照大神が建速須佐之男命の十拳劔を三つに打ち折り、玉の緒をゆらゆらと揺らしながら天之眞名井の水で振り濯いで、噛みに噛んで、吹き出した息の霧から成り出でた神の名は、多紀理毘賣命(たぎりひめ)。亦の名は奥津嶋比賣命(おきつしまひめ)と謂う。云々・・・』と謂う、誓約の場面がありますが、
この宇氣布を行った地が日出町と杵築市の間にある眞那井であると考えられます。そして、宇佐・山香方面から杵築市を流れて別府湾に流れ込んでいます八坂川(やさかかわ)は古来は安河(やすかわ)・八十河(やそかわ)と呼ばれていたものと想われます。
天(あま)は海部(あま)と理解して、豊国(大分に本貫地があった。)の事と考えられます。
この様に考えますと、天照大神の天石屋戸隠れが善く理解できます。
『このようなわけで八百萬神(やほよろづのかみ)が天安之河原(あめのやすのかはら)に集(あつ)まり集(つど)って、高御産巣日(タカミムスヒ)神の子の思金(オモヒカネ)神に考えさせ、常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて鳴かせ、天安河(あめのやすのかは)の川上の天の堅い石を取り、天の鉱山(こうざん)の鉄を取り、鍛冶(かじ)の天津麻羅(アマツマラ)を探し、伊斯許理度賣(イシコリドメ)命に命じて鏡を作らせ、玉祖(タマノオヤ)命に命じて八尺勾瓊(やさかのまがたま)の五百津之御須麻流之珠(いほつのみすまるのたま)を作らせ、天児屋(アメノコヤネ)命と布刀玉(フトタマ)命を呼び、天香山(あめのかぐやま)の雄鹿(おじか)の肩の骨を抜き、天香山(あめのかぐやま)の天之波波迦(あめのははか)を取り、占(うらな)いをさせ、天香山(あめのかぐやま)のよく繁(しげ)った榊(さかき)を根ごと掘り出し、上の枝には八尺勾瓊(やさかのまがたま)の五百津之御須麻流之玉(いほつのみすまるのたま)を取りつけ、中の枝には八尺鏡(やあたのかがみ)を取り飾り、下の枝には白い布帛(ふはく)と青い布帛(ふはく)を取り垂らし、この種々の物は布刀玉(フトタマ)命が見事な供(そな)え物として取り持ち、天児屋(アメノコヤネ)命が見事な詔戸言(のりとごと)を唱え、天手力男(アメノタヂカラヲ)神が戸の脇に隠れて立ち、天宇受賣(アメノウズメ)命が天香山(あめのかぐやま)の天之日影(あめのひかげ)を襷(たすき)にかけ、天之真拆(あめのまさき)を縵(かづら)として、天香山(あめのかぐやま)の笹の葉を束(たば)ねて持ち、天之石屋戸(あめのいはやと)に桶(おけ)を伏(ふ)せて踏み轟(とどろ)かし、神懸(かむがかり)をして、胸乳をさらけ出し、衣装の紐(ひも)を陰部まで押し下げた。
すると高天原(たかまのはら)がどよめき、八百萬神(やほよろづのかみ)がともに笑った。
このようなわけで天照(アマテラス)大御神は奇妙に思い、天之石屋戸(あめのいはやと)を細めに開けて、中から、「私が籠(こも)っているので天原(あめのはら)は自(おの)づと闇(やみ)になり、また葦原中國(あしはらのなかつくに)も全て闇(やみ)であるはずなのに、どうして天宇受賣(アメノウズメ)命が踊っていて、また八百萬神(やほよろづのかみ)が皆笑っているのか」と告げた。すると天宇受賣(アメノウズメ)命が、「あなた様にも勝(まさ)る貴(とうと)い神がおいでになるので、喜び笑って踊っています」と申し上げた。このように申し上げる間に、天児屋(アメノコヤネ)命と布刀玉(フトタマ)命がその鏡を差し出して天照(アマテラス)大御神にお見せすると、天照(アマテラス)大御神はいよいよ奇妙に思って、ゆっくりと戸から出て覗(のぞ)きこんだ。その時、その隠れて立っていた天手力男(アメノタヂカラヲ)神がその手を取って引きずり出し、布刀玉(フトタマ)命がしめ縄(なわ)をその後ろに引き渡して、「これより中に入り戻ってはなりません」と申し上げた。そこで天照(アマテラス)大御神が出てくると、高天原(たかまのはら)も葦原中國(あしはらのなかつくに)も自(おの)づと照って明るくなった。
このようなわけで八百萬神(やほよろづのかみ)は相談し、速須佐之男(ハヤスサノヲ)命に多くの贖罪(しょくざい)の品物を負わせ、また鬚(ひげ)を切らせ手足の爪(つめ)を抜かせて、追放して追い払った。』
(『日本神話の御殿』の現代口語文章訳を引用させて頂きました。)
と謂うことで、数多くの天香山が出てきますが、鶴見岳と杵築周辺(国東半島)での出来事と捉えて、八坂川が安河(八十河)であるとすれば、天照大神はこの近くに居られた事に考えられます。
この事を、知っていた舒明天皇は、宇佐神宮(息長氏の聖地)からわざわざ足を延ばされ、鶴見岳で国見をされたものと考えられます。
また、西暦713年頃の(元明天皇)「丹後風土記残欠」に出てきた天道日女命についても、もし宇奈岐日女命が日出町付近にて、活動をしていたとすれば、第6代孝安天皇の秋津島宮は国東半島近辺、例えば宇佐神宮。若しくは杵築の八坂川から奈多宮辺りも考えられます。この辺りは安岐町(あき)の名称もあり、古田武彦さまの説と再び重なる事になります。
《追補》
宇佐神宮は息長氏である八幡神(応神天皇)と神功皇后と比咩大神を祀っていますが、『主神は比咩大神である。』と考えられ、この比咩大神はその後の考察にて『多祁理比賣命』で有った事が判明しました。比咩大神が多祁理比賣命であれば、息長氏の聖地では有りません。
亦、『室の秋津島宮』もその後の考察にて『木綿の院(由布院)=ホツマ伝ではハラと述べられています。』盆地であったと判明しました。
訂正を致します。
《追補2》2021年12月8日
比咩大神は、『多祁理比賣命』ではなく、阿蘇氏であります『豊玉彦=健磐龍命=建御雷之男命=八大竜王=息長氏(秋永氏)の源元』の娘、『豊玉姫=阿蘇津姫=竹野姫=豊与姫=壹与姫=第二代目卑弥呼=天鈿女命=水波能女命=息長氏=秋永氏の源元』であった。と、ホツマ伝の叙述から理解できました。再度訂正をします。
初代卑弥呼(247年に亡くなった人)は、伊弉冉イザナミ=豊受大神(後漢蜀の太守をした高躬結び神の娘)です。『ゆふいん』で、祈禱を行って居ました。
契丹古伝では、イサハミヒメと述べられています。
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