「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

猿田彦は、やはり景行天皇であった。

2018-03-12 | 古代史

埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯象嵌の剣の文字と、熊本県玉名市和水町の江田・船山古墳から出土した銀錯象嵌の剣の文字は、どちらも『ワカタケル大王』と解読され、この『ワカタケル大王』は第21代雄略ユウリャク天皇(大泊瀬幼武尊おおはつせわかたけるみこと)=第19代允恭インギョウ天皇の第5皇子の事で有った。とされ、ヤマト王権が当時は九州から関東まで及んで居た。と研究者には理解されており、一般の研究者は、九州と関東の中間に在ります近畿奈良大和にワカタケル大王が居たのもと思い込んでおられるようですが、此れは間違いで、わたくしの考察では、雄略天皇は福岡県朝倉市山田『恵蘇の宿』辺りに棲んでいた。と考察されます。

根拠は、福永晋三さまの『真実の仁徳天皇』の考察があります。

第15代応神天皇の崩御の後、皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわかいらつこ)皇子と大鷦鷯皇子(仁徳)も、互いに皇位を譲り合ったが、菟道稚郎子皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)条項は、三年の皇位の空白があり、福永晋三さまは、菟道稚郎子は応神天皇の崩御の後に即位しており、大鷦鷯皇子(仁徳)の計事によって自殺に追い遣られたものと、和歌から読み解かれ、菟道稚郎子も大鷦鷯皇子(仁徳)もどちらも福岡県田川郡香春町周辺に棲んでいた。と述べられています。

わたくしは、仁徳天皇のイメージは大阪河内に在ります仁徳天皇陵が浮かび、近畿の出来事と思い込んでいましたが、考察には説得力があり、同感を得ました。

 

宇佐公康さまの伝承では、『神功皇后』と『品牟陀別皇子=武内宿禰の子』は『御諸別命』と『宇佐押人=崇神の孫』の軍に敗れ、香春町に幽閉され、どちらも其処で生涯を閉じた

と述べられており、此れは宮原地区にて明治36~37年頃出土の四基の石棺と四面の青銅鏡(内行花文の後漢鏡)とも考えられます。

応神(宇佐押人=崇神の孫)は『豊明宮』で即位した。とされ、此れは香春町『古宮八幡神社』(神紋は阿蘇神社と同じ、『丸に違い鷹羽』=田主丸秋永家の紋)に在った『豊明宮』と解釈されます。(清祀殿跡もあります。)そうすると、古宮八幡神社から宇佐神宮への四年に一度の神幸会の行事が理解できます。

(別の説では、応神(宇佐押人)は田川川崎町の『帝階八幡宮』にて即位した。との伝承があります。=内倉武久氏より)

亦、『古宮』は『胡人の宮』と解釈され、秦氏は西域からのルーツを持って遣って来た事を意味しており、スサノオを祭る京都祇園祭では山車飾りの緞帳は西域の図柄を用いており、スサノオとは、スーサ(サウジアラビヤに在る都市スーサ)から遣って来た男の意味とも解釈されており、修験者の出で立ちや行為はイスラエルのモリヤ山にルーツがある。と考えられており、インドガンダーラを経て、京都の鞍馬寺や田主丸石垣神社・人吉市の青井阿蘇神社にはイスラエルのダビデの星が見受けられます。

垂仁時代の野見宿禰に始まる『相撲』もヘブライ語では『シュモ』と発音するそうで、彼ら西域人が齎したものと想われます。

 

で、あれば、菟道稚郎子皇子と大鷦鷯皇子(仁徳)は香春町で育った謂う解釈が成り立ちます。

と謂うことは、応神(宇佐押人)の墳墓が香春町にある事に為り、以前にお会いした香春町郷土史研究会会長の柳井秀清さまに案内された宮原の『おうきん(大君)さん』と地元で呼ばれます墳墓は『おうじんさん』の変化か、間違いで、応神天皇(宇佐押人=崇神の孫)を埋葬しているものと考える事が可能です。

亦、内倉武久さまの研究では浦松遺跡では八棟分の大型建物跡が発見されており、其処が宮殿跡かもしれない。とされ、

わたくしの考察であります、アマテルが『ホツマ國ゆふいん』から香具山の地名を持って移動してきた。アマテルの子『忍骨神=天之忍穂耳命』も香春神社で祭られています。(天之忍穂耳命は多賀宮=田川宮で育ったとホツマ伝は述べています。)

ホアカリが『飛鳥宮』の『初代オウキミ皇君』とホツマ伝で述べられており、『おうきん(皇君)さん』はホアカリの事。とも考えられ、ホアカリはニニギネの兄ではなく、アマテル=ホアカリ説が考えられます。

亦、記・紀では、第4代懿徳天皇(軽=香春に居た。天豊津姫を娶っています。が、天豊津姫は豊玉姫とも考えられ、ホツマ秀真伝では何も述べておらず、第7代孝霊天皇と伴に、歴史を積み増す為の捏造とも考えられます。)

日高彦穂穂出見命=第8代孝元天皇(日高彦穂穂出見命=兵主命=山幸彦(百嶋由一郎さまは、此のお方が猿田彦とされています。しかし、わたくしの考察では、猿田彦は景行天皇であります。景行=天之児屋根命=長髄彦=猿田彦は日高彦穂穂出見命の家来であった。と考えられ、ホツマ伝では、ムメヒト(ホアカリ)の臣と述べられています。

ホツマ秀真伝では、景行天皇の子、『日本武尊』が崩御した葬儀時には、猿田彦が『御顔当をした』と述べており、『御顔当』を出来るのは通常『喪主』であり、即ち、『猿田彦』は『景行天皇』を意味しており、わたくしの説が正解であります事が理解されます。

 

日高彦穂穂出見命は日田市ダンワラ地区出身で、久留米磯城県から新羅国に出向き、後に香春町=秋永氏の本貫地で亡くなったものと考えています。古事記には、カル軽=香春の宮に居たと述べています。)

第12代景行天皇=日子坐王=長髄彦は、日高彦穂穂出見命に仕えた田主丸竹野郡=秋永氏本拠地、出身の天之児屋根命(ヰチヂ市千魂命=春日殿の子)のことで、

日高彦穂穂出見命の皇后であった豊玉姫(龍神姫=秋永氏)を妃にして、宗像物部氏を纏めて、覇権を、崇神=スサノオ(日高彦穂穂出見命と玉依姫の子)=神武=高良王権=ウガヤ王(日高彦穂穂出見命と豊玉姫の子)と、後継者争いをすることに為ります)

第14代仲哀と神功皇后・第15代応神天皇、そして福永晋三さまの第16代仁徳天皇と内倉武久さま説の第28代安閑天皇が香春町周辺で考えられ、第34代舒明天皇(飛鳥岡本宮=赤村=福永晋三さま説を支持します。)・第35代皇極天皇・第36代孝徳天皇・第37代斎明天皇・第38代天智天皇・第39代天務天皇まで、此処香春町~勝山黒田~豊津町が倭の中心地であったのは、間違いないものと考えられます。

ですから、蘇我氏(南大分が本貫地)四代は総べて九州(倭)での出来事であります。

 

 

 

 

 

 

 


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本武尊の東國征討に疑義あ... | トップ | 朝倉長田志波に在る、『日鷲... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2019-05-06 22:11:04
差し出がましいことを言って申し訳ありません。
宇佐の伝承もお読みになられているのであれば是非出雲王家の伝承についての本もお読みになられてみてはいかがでしょうか。大元出版という地方の出版社から本が出ています。読むと記紀で納得できなかった事柄がわかるようになると思います。
返信する

コメントを投稿

古代史」カテゴリの最新記事