現在の天皇系図上では、
第96代後醍醐天皇が足利尊氏と対立して奈良県吉野に移り、足利尊氏は京都に残った公家から光厳天皇・光明天皇(北朝)を立て、建武式目を制定して政務を司ります。
吉野を南朝と呼び、後醍醐天皇は自分の第7皇子、義良親王に譲位して第97代後村上天皇として即位させます。
後村上天皇の第1皇子が第98代長慶天皇で、長慶天皇は弟である第99代後亀山天皇に譲位し南朝勢への協力を求めて全国を行脚したとされ、全国各地に長慶天皇の痕跡があります。
南朝は後亀山天皇で途切れ、以後は第100代後小松天皇から今上天皇まで北朝が続いている事となっています。
この南北朝の時代の第98代長慶天皇が朝倉に認められます。
実は、朝倉市には第37代斎明天皇の行宮が置かれた場所の傍の須川の高木神社裏に『天皇山』(黒巖山くろいわやま)と呼ばれる山が在ります。此の『天皇山』(黒巖山)には第98代長慶天皇を祀っていると謂われています。
長慶天皇が此処須川に御出でになられた時、一夜川と呼ばれていた筑後川を帆掛け舟が行く風景を気に入られ、自分が死んだら此処に葬るようにと述べられ、その後亡くなり『天皇山』に葬られた由。
この長慶天皇の存在は全国に73ヶ所もの伝説があって、墓所がはっきりせず、宮内大臣は昭和10年6月に国会臨時陵墓調査委員会を設置。
諮問された四人の小委員会メンバーは5年7ヶ月掛けて調査をしますが、遺骸の眠る場所の特定をする事が出来ず、一応、都であった京都右京区嵯峨野にある慶寿院に戻ってきたのではなかろうか。と推察し長慶天皇の陵墓と決めますが、現在まで墳墓の場所は判っておりません。
此の朝倉須川の陵墓も候補には揚げられますが、最初の段階にて篩いにかけられ、最終調査地の12箇所にも入らず、埋もれてしまっています。
此れは、確たる資料が無い状況で、伝承を基に、四人の話し合い。と謂う主観にて選考が進められた結果だと感じられます。
当時、朝倉が天孫族の本貫地との安本美典説の認識があれば、結果は考えるまでもありません。
此処は、高木神、天之忍穂耳命、猿田比古命、第7代孝霊天皇(彦坐王)、第12代景行天皇、神功皇后(息長帯比賣命)、第37代斎明天皇に繋がる天孫族の中心地でありました。
当然、長慶天皇が来られて滞在されたと考えられます。そして、此処で亡くなりになったと大いに考える事が出来ます。
その根拠は須川の隣に烏集院(うすのいん)・宮野(みやの)の地名があります。長慶天皇は全国行脚の後、烏集院(うすのいん)にて生活をされて居たと考えられ、地元の人々は埋葬地も知っていて案内してくれます。
須川の高木神社の傍にお住いの星野耕一さまに拠りますと、誰かが大正時代に黒巖山に在った墳墓を掘った処、内側を朱に塗った棺が出て、中の遺物は持ち去り、朱に塗られた棺は壊され、元の場所に埋められて土を盛り、目印としていたそうですが、戦後、柿園の造成にてブルドーザーにて壊され、現在は場所の特定が成らなく為った由。
星野耕一さまは代々此処に棲んでおられ、長慶天皇を埋葬したと由緒に書かれています星野胤忠(ほしのたねただ)は、星野家第8代に当るそうです。
須川地区には星野姓が殆んどだそうで、35軒ほどあり、恐らく、新潟県・長野県を始め、全国の星野姓のルーツは此処と思われ、対岸の耳納連山の南にある星野村も此処の星野氏が関係して名付けられたものと考えられます。
宮内庁は再調査をする必要を感じます。
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