「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

大屋毘古命のその後を考える。

2014-05-05 | 古代史

 

わたくしの説では、豊後杵築に棲んで居た須佐之男命が出雲へ移動した後は、紀(杵)氏の大屋毘古命(五十猛)が杵築に残って居た。

と考えられ、高天原(木綿の院)での戦いにて敗れた大己貴命・少彦名命・多祁理比賣命・味鋤高比古根命・下照比賣命・大勢の天孫族幹部を四国愛媛へ逃がしたと思われます。

根拠は、ゆふいん高天原(塚原霧島神社)傍に流れます、『戦い川』です。古代に戦が行われて、塚を造ったものと考えられます。

 

この大屋毘古命は、古事記では大勢の和邇氏に脅された事になっていますが、其の後は如何なったかが気になり、今日は皆様と一緒に考えて見る事にします。

 

インターネットにて、わたくしの記憶に有った大屋政子で検索しますと、『大屋晋三』氏がウィキペディアでヒットしました。『大屋晋三』氏は群馬県邑楽郡(おうらぐん)佐貫村で明治27年に生れ、政治家・実業家として活躍昭和55年に没されたお方で、大屋政子の夫とされています。

生い立ちの欄には、

「家は、代々川越の松平藩士で、祖父は大屋門平といって柔術を指南していた」と記入されています。

次に「松平氏」を検索致しますと、

本姓は『賀茂氏』とされ、{松平氏は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である}、と記入されています。

 

『賀茂氏』の本貫地はご存知のように、須佐之男命が居たと考えられる豊後杵築です。鴨川・八坂川が流れており、付近の地名には藤原・大神・大内があり、愛宕神社・真名井・熊野も有ります。

 

如何も室町以前から『大屋氏』『松平氏』は親族関係があると考えられ、『大屋氏』から『松平氏』が分かれたものとも考えられますが、『松平氏』は、元は『賀茂氏』と称していた様ですので逆かも知れません。

 

このように、豊後杵築に居た『大屋毘古命』の子孫は三河(愛知県)に移動して、其の後、松平氏(徳川氏)と伴に関東の埼玉県川越市へ行き、群馬県へ棲み付いたものと考えられます。多分『大屋』も『大宅』も『大矢』・『大弥』も根は一緒と考えられますので、テレビにて活躍の『大宅映子』さまのご先祖は『大屋毘古命』であったと、想像されます。

 

豊後杵築は室町時代(1394年)に『木付氏』が治めますが、1600年に『細川氏』の所領になり、1632年『小笠原忠知』を経て、何故か『松平英親』が1645年に拝領し幕末まで治めています。

 

杵築には『三河』の地名もあり、何時頃からの名なのかが気になります。

 

 


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