忌まわしい東日本大震災から11年が経った。経ってしまった11年なのか、もう11年なのか未だその傷口は癒えない。
2011年3月11日14時46分宮城県沖13キロメートルを震源とするマグニチュード9の日本周辺における最大級の地震だった。震度7や6強の揺れもさることながら、500キロに及ぶ巨大津波は全てを破壊し飲み込んでしまった。特に福島原子力発電所のメルトダウンで大量の放射線物質が漏洩した原子力事故は心を凍り付かせた。
地震発生日は金曜日、議会中で私は県議会副議長だった。4期目の選挙直前で酒田で選対会議の予定があった。議会を終え帰宅を急ぎ山形自動車道に入った。運転中、何か目まいを感じた気がしたが、それが東日本大震災の発生だった。直後に山形自動車道は通行止めになり、私が最後の自動車かも知れない。酒田の同僚議員は帰宅が深夜になったと聞いている。
酒田に着くと停電だった。信号機が動かず警察官の手信号だった。渋滞で車が動かない。夜は寒さに震え、車の中の暖房とテレビニュースで過ごした。
太平洋側で物流は動かず、日本海側から物資が運ばれた。ガソリン不足が顕著となり、スタンドは連日の長い行列で一人20リットルの制限付きである。選挙に入ってガソリンの差し入れが有難かった思い出が残る。
私の心に残る大地震は1964年(昭和39)新潟中越地震もある。新井田川の底が見えたと言われている。この時、酒田3中の生徒が避難中に亡くなっている。
地震は必ずまたやって来る。それがいつ、どこに、どんな規模かは分からない。