
ビデオ動画の変換をマックにさせている間は他に何も出来ないので、席を離れておもに本を読んでいる。
先日読み終わった「ファディッシュ考現学」から、現在の田中康夫はどんな言動をしているのだろうと検索してみると公式サイトがあって、いろいろなものが読めたり見たり出来る。
その中の「田中康夫と浅田彰の憂国呆談2」というソトコトのサイトの対談を読み始めたのは、変換時間をつぶすのにちょうど良い長さの文章だったから。
変換のたびにベッドに潜り込んでネットブック(死語)でいくつかずつ読んでは変換作業に戻るの繰り返し。
この対談はいつされたのか記載がないので細かい事はわからないのだけれど、初期のものは数年前である事は確かだ。
古いものから順番に読んでいるのだけれど、当時の社会の論調を思い出す事もあれば、そんなことがあったんだぁと思う事もある。
そして当時問題にされたことが現実になったものもあるし、杞憂に終わっているものもあるし、現在進行形のものもある。
こういう対談が記録として残されている事は、”後世”の検証に非常に有意義なものであるし、現在も同様な取り組みは他でも行なわれているだろう。
そこで読む方の立場を考えてみると、現在だからこそ柔軟に取り組んでいく必要があると思うんだよ。
ツイッターやブログをはじめ「社会」では、多様性が叫ばれている以上に多様性を拒絶する様相が強くなり、その根拠も多様性から来るものではなく、ある特定の論調だけを信じて他を否定する”独善的”な態度が”左右”かかわらず存在している。
だいたいがある特定人物の言動に”追従”する立場なのだけど、それでいいのかね?
異論反論はシャットアウトするのだけれど、今じゃ様々な考え方に様々なメディアで触れる事が出来る。
それに触れる事なしにひとつの立場を堅持出来るほど世の中は単純なのだろうかね。
また時代の変化とともに自分も変わっていくという事も否定するのだろうかね。
ある人の言う事を全て信じ込んでしまうのは、こんなに様々な事があふれかえっている現在「いかがなもの」でしょうか。
様々な事に触れながら、流されず、それだけを信じず、理解しながら、拒絶も追従もしないでいる事は難しい事だけど、それぐらいしないとやっていけない世の中なんじゃないのかな。
ある人はこう言っているが、別の立場の人はこう言う。
それを正誤、善悪、強弱、前後、上下、いろいろな体位、ではなく角度からペログリして考えてみる方が折れずに生き抜いていけるんじゃないのかなぁ。
今だけを生きているのではなく、これからの時代も生き続けなければならないんだから。
と、変換待ちの間に考えたりしてみたのよ。
垂水廉売市場
兵庫県神戸市垂水区神田町
撮影 2013年12月14日 土曜日 14時15分
船尾の街並み 3
和歌山県海南市船尾
撮影 2013年12月21日 土曜日 13時30分