
倉敷に行った時にシャッターの閉まったお店の多い商店街でお蕎麦を食べたのは、単に小腹がすいていたからだった。
小汚いお店で、作ってくれる店主が目の前でスーパーで買ってきたとおぼしき巻き寿司を頬張りながら「おかめ蕎麦」を作ってくれたのだけど、これがなかなか具沢山で美味しい。
汁が薄い色なのは関西系だから。
満足して500円。
蕎麦はこういう手軽でなくっちゃ。
ところがこういう一般大衆向け値段で食べることが出来ない蕎麦屋が多い。
結構なお値段でわずかな量。
それが蕎麦らしいと好評なので、一般的に立ち食い蕎麦か高級蕎麦のどちらかに別れてしまい、中間の値段の蕎麦というのがなかなか見つからないのは、食べる方の態度にも問題があるような気がする。
手打ちのこだわりの蕎麦粉に”ウンチク”という薬味を乗せて「文化文化」といって少量をありがたがって召し上がる。
そうしないと美味しくないのだろう。
あるいはほぼ小麦粉という感じの蕎麦を、女房は”ランチ”の時間に駅前で立って食べる、円安になってさあこれから再び海外輸出に打って出る画期的新製品を開発するぞとシャカリキにならなければならないサラリーマンのオトーサンがエネルギー源とするかのどちらか。
格差社会をあらわすように両極端な蕎麦しか存在しなくなった。
普通の値段で普通の蕎麦を普通に出す蕎麦屋さんというのがいつの間にか少なくなった。
関東に住んでいた時には、東京に出ると下町の普通の蕎麦屋さんでおかめ蕎麦を食べるのが楽しみだったのに、いつの間にかお店が少なくなり寂しい感じがしたものだ。
そういうお店では気取らずそこそこの量の蕎麦をそこそこの値段で出していたのは、客が遠方から味わいに来るグルメではなく、近所の人中心だったからだろう。
相場というものがあったのだろう。
その相場がくずれて商売にならなくなったのかね。
客も1000円以上出して話のタネになる蕎麦か、立ち食いで400円以下のものでないと”納得”できなくなったのか。
まあ500円のおかめというのは特別だろうけど、チョイと寄って食べるという感じでは600~800円ぐらいが”相場”なんじゃないの。
ラーメンだってその値段だろうし。
こだわりを食べたい人は1000円や2000円でも構わないし、単なる昼メシ(画期的新製品のアイデアを生み出すエネルギー源ではなく)になら350円でもイイだろうが、三食の中の一食として食べる”近所食”としてはどちらも極端すぎるんだよなぁ。
塩屋商店会
兵庫県神戸市垂水区塩屋町3丁目
撮影 2013年12月14日 土曜日 14時45分
船尾の街並み 4
和歌山県海南市船尾船尾口,居村
撮影 2013年12月21日 土曜日 13時50分