Nonsection Radical

撮影と本の空間

次に備えて参考に出来るか

2014年05月08日 | Weblog
田中康夫著「神戸震災日記」読了。
1995年に起きた阪神淡路大震災での田中康夫のボランティア日記である。
あの日は神奈川の団地で珍しく早く起きてテレビをつけたところ地震の第一報が報じられていた。
すぐに大阪の実家に電話して確認したはずだ。
そして仕事場へ行き、続報をラジオで聴いていたはずだ。
当時尼崎にあった本社へも連絡を取ろうとつながらない電話と格闘していたはずだ。
どうやらかなりマズい状態だとわかり、近所のドラッグストアに買いだしに行って、カイロだとかウェットティッシュなどを買いそろえて送る準備を整えた。
帰宅後のテレビでは被害の状況を伝えていて、それを視ながら、一体何が起こったのかを知ろうとした。
その後の数日は、自分に何が出来るのかを知ろうとするための日々であった。

そういう時に田中康夫は現地へ向かっていたのだった。
しばらくしてそういう活動をしている事は知ったが、内容はわからなかった。
もちろんその心情も。
その活動と心情を綴ったのがこの「日記」である。
当時いろいろな雑誌等に書いたものと書き下ろしをまとめたものだ。

この本の存在を知ったのは最近の事だ。
古本屋で田中康夫関連の本を集めていた時に見つけた。
いつものように、どうせ売名行為の本だろうと最初は手に取らなかったけれど、一連の本を読んでから田中康夫観が変わって、購入して読んだ。
ボランティアについて言いたい事、書きたい事を書いているので、文中にもあるが各所から批判も受けたようだ。
それでも考えさせられたのは、きっと書けないような体験もしているんだろうなと思ったからだ。
個人が勝手に何かをするということが、それがたとえ善良な行ないであったとしても、時に非難を受けることを覚悟しなければ出来ない”空気”がここにはある。
だから、といえるのか、組織というカタチをとって行動を起こす事でスムーズに行なう”知恵”や”方法”が市民権を得る。
媒体も新聞社や放送局などマスコミが、その知名度を利用して大々的に現地に足を運んで”活躍”する姿は伝えられるのだが、その弊害もこの本で述べられている。
一方で、個人の活動への”風当たり”は、組織へのものと違って、直接本人に来る。
そのことで、書けないような様々な体験をしたはずだが、その事には触れずに前へ向かって行けるような文言だけを書き綴るのは田中康夫のスタイルなのだ。
その行間に感銘を受けて、年寄りらしく涙もろくなりながら読み終えた。

そして思い起こされるのは2011年の3月の事。
あの時は、関西で揺れを感じて、やはりラジオで地震の事を知った。
そして数日の間、自分に何が出来るのかと思いを巡らせる事となった。
同じ事を繰り返しているのだ。
もしあの時に、すでにこの本を読んでいたら、何か違っていただろうかと考えると、そんなにコトはうまくいきはしない。
でも、”次”の時には、同じ事を繰り返したくはないという気持ちがあるので、個人ででも出来る事があれば、めげずに自分もやろうと思う気持ちにさせられた本である。




春日神社
兵庫県篠山市黒岡
撮影 2014年1月6日 月曜日 14時25分
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする