Nonsection Radical

撮影と本の空間

ドキュメンタリー”映画”

2016年06月06日 | Weblog
珍しくドキュメンタリー映画が話題になっている。
ドキュメンタリー映画なんて誰が見るんダァ?てのが一般の反応だと思うんだけど、取り上げた題材とかが話題性のあるものだったりすると、話題性で取り上げられたりするんでしょうね。入るかどうかは知らないけれど。
何本かのドキュメンタリー映画DVDは持っているけど、ドキュメンタリー映画にはそんなに興味はないんだよなぁ。
映画にはまったくのシロートで、ドキュメンタリー映画に”リアル”を求めていたこともあったんだけど、いろいろ疑問を調べていくと、ドキュメンタリー映画って映画の一種なんだよね。
そんなことも知らないのかと言われたら、知らなかったんだよと言うしかないですけど。
まあその程度の知識ですよ。
だからドキュメンタリー映画って映画関係の人が”作る”んだよね。
だから興味ないの。
現実の素材を使って映画を作るという手法には興味はないの。
現実にしか興味がないんだな。
だからドキュメンタリー映画を見ても、現実の素材ばかりを見てしまい、その素材から自分でアレヤコレヤと考えるだけなので、ちっとも面白くないんだよ。
じゃあ現実をお前は見ているのかと言われると、青臭い論議になるのでそんな話には乗らない。
まあ自分の眼の前で起きたことでさえ、自分が見た範囲でしか理解できないしぃ、ぐらいにしか思ってはいないけど。
だから作りものなら作りものでいいんだけど、その作り方に違和感を覚えるから好きじゃないんだろうなぁ。
他人の意思に同一化できればそれはそれで興味深いものとなるんだろうけど、多くが「えっ?そんなとらえ方でいいの?」って思うんだよね。
だから自分で写真や動画を撮ってはいるけど、特に動画では自分の意思を込めるようなものは撮らないし、第一撮れない(笑)。
カット割りするぐらいならダラダラと出来るだけ”全部”を見せたほうがマシだと思うタチなんだよね。
だってどこに誰が興味を持つかわかんないじゃないの、アタシの動画なんて。
だからどこに誰がどのように興味を持ってもいいように、出来るだけ”全部”撮りたいんだよね。
その程度のことしか思っていないからね。
映像だけでなく、文章でも、どこまでが”本当”なんだなんてわからないから、興味を持ったものは自分で出来るだけ”確認”したくなるんだ。
ネットでどこかのことをあんな風やこんな風に書いてあったりして、実際その場所に行ったら、全然違っていた(と感じた)ことがたくさんあって、人それぞれいろいろな見方があるもんダァと思うんだけど、だから自分が正しいとは思わないのは当然のことなんだね。
そもそも自分がどういう見方をするかなんてことを考える必要もないんだよアタシには。
動画はひたすら”記録”として撮っているんだから。
遊中部なんかにずいぶん昔の映像なんかがアップされていたりするけど、時代を経ればそれだけ撮った人の意思なんか関係なく記録としての価値しかなくなってくるでしょ。
どんな思いでこの映像を撮ったのかなんてわからないじゃない。
それでいいんだと思うんだよ記録映像って。
というか記録映像って、撮った人の意思がなくなっても成立するものなんだよね。
そこに魅力を感じるんだな。
そういう点では、ドキュメンタリー映画って、時代が過ぎると記録性ってものがドンドンなくなっていって、映画としての出来具合だけが後年残されるんじゃないのかなんて浅はかに考えたりしたんだ、今瞬間に。



川越名店街 1
埼玉県川越市連雀町,仲町
撮影 2016年3月31日 木曜日 14時25分
コメント
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