Nonsection Radical

撮影と本の空間

原則禁止

2016年06月20日 | Weblog
飽きもせずに海外のフラッシュモブを見続けているんだけど、どうして日本では結婚披露宴のような決まりきった場所でしか行われないのだろうと考えてみた。
中には自治体では”禁止”しているところもあるという。
どういう権限で禁止するのかと考えてみたら、そこには日本の憲法、法の精神がキチンと守られていないところに問題があるのだと思った。
戦後の憲法では、国民は主権者で、主権者は原則自由に振る舞えることになっている。
国民の利便性を考えて、国民が自治を行なうにあたって便利だからと自治体を作り、政府も作っているわけで、そこんところが幕府や大日本帝国憲法の時代とは違っているところで、この考えはおおむね”民主主義国”の共通の考えとなっている。
だから国民は自らが定めた法律や条例、憲法に従って自由に生きているのだ。
当然国民が何かやろうと思えば原則自由なわけだ。
その自由を束縛することは、よっぽどのことがない限りできない。
でも現実には、困ったことに考え違いをしている自治体や政府や公務員そして国民がいる。
そして平気で「禁止」なんてことを言う。
原則自由な世の中では、迷惑をかけるのは”お互い様”であって、問題になれば話し合うというのが民主主義というものだろう。
なぜそんな自由な世の中にするのかといえば、そこから新しいものが生まれてきて、世の中が活気づき、幸せに暮らせるからだろう。
逆に原則禁止の世の中では、息苦しく新しいものも生み出されづらく、幸せ感が低くなる。
そんなことは戦時中のことを記した記録にあたればわかることだ。
だからそんな世の中から解放されて、新たな憲法が定められた時に国民は喝采を送ったのだ。
そりゃ他人が何かすることに対して否定的な気持ちを持つのも自由である。
自由であるが、それを禁じることはできないのが今の世の中なのだ。
禁じるよりも自由にさせる方が良いことが多いからだ。
なのに・・・
今では気に入らないと言う自由はあっても、他人の言動を否定する自由はあっても、自由に振る舞う自由は肩身がせまい。
話は戻って、フラッシュモブをどこかでやることに何の問題があるのだ。
混乱するから?
混乱ぐらいなんとかしろよ(笑)。
現実に海外ではそれに対処しているではないか。
対処ができないのはそちらの問題で、対処する力や頭や技量や能力がない方が問題じゃないか。
それぐらいの能力を任されている方は身につけて当然だ。
それを逆に自分の能力のなさを棚に上げて、法や条例をたてに禁止するというのは自由の精神に反する行ないだ。
そして国民も他人の自由にツベコベ言うべきでない。
そんなシミッタレタことをしているとドンドン自由が狭められてくるぞ。
公共の福祉というのは、国民誰もが自由に暮らせることではないのか。
公共の福祉という名で自由を縛ろうとするのは間違っている。
とまあ、こんな戯言を言っても、無駄なのはわかっている。
生活を楽しむことや新しいことが生まれる世の中よりも、たとえそれが地盤沈下を引き起こし、負のスパイラルに陥ることがあっても何もない世の中の方がいいと思う人が多いのだから。
それがつまらないと思わないのだから仕方ない。



学園東通り 旭町商店街
東京都足立区千住旭町
撮影 2016年4月9日 土曜日 12時05分
コメント
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