某月某日
小説雑誌を買うついでにカメラ雑誌の置いてあるコーナーに行ったのだが、たくさんの雑誌がある。
10誌ぐらいはあるのではないか。
これらの雑誌を分類すると大まかに2つにわけられる。
ダンシ(オヤジを含む)が読む雑誌と、ジョシ(オバンは含まず)が買う雑誌とだ。
ダンシ系はメカと撮影ノウハウ記事が中心。
ジョシ系はどのようなイメージを自分は撮りたいのかを確認する記事が中心。
どちらの雑誌もsatoboは買わないので詳細は不明だが、どちらのスタンスも必要としていないので気にならない。
見たいのは写真だから。
ところが写真を見せてくれる雑誌はないのだ。
だから雑誌は買わない。
写真集しか買わない。
そういうのって少数派なのだろうか?
だろうね。写真集売れないし。
写真は撮るもので見るものではない。
というか、撮る興味が先で、見る興味が追いついていない。
それで写真が撮れるのだろうか?
ノウハウなど写真をジッと見ていれば少しずつわかってくるものなのに。
きっとそんな面倒な事をしたくなくて、作例と解説で同じような写真を撮りたいと思うのだろうな。
人と違う写真を撮りたくないのだろうか。
ネコなど撮らずに抱っこしてあげる方がずっと楽しい時間が過ごせる。
きれいな景色の場所に行けば、じっくりと眺める時間を持つ方が有意義だ。
そう思うんだけどねぇ。
なぜそう思うかというと、コンデジやケータイカメラ、一眼レフでもカメラが目の延長になっていないと思うからだ。
特に液晶画面で撮影する場合、目は実景を見ていない。
液晶の小さな画面に映るコマを見ているだけだ。
これでは記憶に残らない。
画面の絵を眺めていても実景は記憶されないのだ。
これでは「感動」をとらえる事は出来ない。
優れた写真は撮影者の視点のままに写し出されている。
だから見る者にとっても実景を追体験出来て感動するのだ。
別に感動はしなくていいが。
そういう事をカメラ雑誌でも根気よく教えていけば、写真がもっと楽しく感じられて、撮影するのも見るのも上手な人が増えていくと思うのだけどね。
写真と絵とでは見方が違うでしょ、みんな。
写真では「なにが」写っているかを探すのだが、絵では「どのように」描いているのかを探す。
だれもゴッホのひまわりを見て、「きれいなひまわりだねぇ」などと思わない。
ひまわりの描かれたタッチを楽しむのだ。
写真も同様な楽しみ方があるのだけどねぇ。
小説雑誌を買うついでにカメラ雑誌の置いてあるコーナーに行ったのだが、たくさんの雑誌がある。
10誌ぐらいはあるのではないか。
これらの雑誌を分類すると大まかに2つにわけられる。
ダンシ(オヤジを含む)が読む雑誌と、ジョシ(オバンは含まず)が買う雑誌とだ。
ダンシ系はメカと撮影ノウハウ記事が中心。
ジョシ系はどのようなイメージを自分は撮りたいのかを確認する記事が中心。
どちらの雑誌もsatoboは買わないので詳細は不明だが、どちらのスタンスも必要としていないので気にならない。
見たいのは写真だから。
ところが写真を見せてくれる雑誌はないのだ。
だから雑誌は買わない。
写真集しか買わない。
そういうのって少数派なのだろうか?
だろうね。写真集売れないし。
写真は撮るもので見るものではない。
というか、撮る興味が先で、見る興味が追いついていない。
それで写真が撮れるのだろうか?
ノウハウなど写真をジッと見ていれば少しずつわかってくるものなのに。
きっとそんな面倒な事をしたくなくて、作例と解説で同じような写真を撮りたいと思うのだろうな。
人と違う写真を撮りたくないのだろうか。
ネコなど撮らずに抱っこしてあげる方がずっと楽しい時間が過ごせる。
きれいな景色の場所に行けば、じっくりと眺める時間を持つ方が有意義だ。
そう思うんだけどねぇ。
なぜそう思うかというと、コンデジやケータイカメラ、一眼レフでもカメラが目の延長になっていないと思うからだ。
特に液晶画面で撮影する場合、目は実景を見ていない。
液晶の小さな画面に映るコマを見ているだけだ。
これでは記憶に残らない。
画面の絵を眺めていても実景は記憶されないのだ。
これでは「感動」をとらえる事は出来ない。
優れた写真は撮影者の視点のままに写し出されている。
だから見る者にとっても実景を追体験出来て感動するのだ。
別に感動はしなくていいが。
そういう事をカメラ雑誌でも根気よく教えていけば、写真がもっと楽しく感じられて、撮影するのも見るのも上手な人が増えていくと思うのだけどね。
写真と絵とでは見方が違うでしょ、みんな。
写真では「なにが」写っているかを探すのだが、絵では「どのように」描いているのかを探す。
だれもゴッホのひまわりを見て、「きれいなひまわりだねぇ」などと思わない。
ひまわりの描かれたタッチを楽しむのだ。
写真も同様な楽しみ方があるのだけどねぇ。