Nonsection Radical

撮影と本の空間

何が起きているのか

2011年03月18日 | Weblog
新聞やテレビを見ていてもいったい何が起きているのかわからない。
わかるのは何が起きたかという事だ。
現地の人達はもっとそうだろう。
ほんらい重要な情報を伝えるはずの媒体が停電や断線などで遮断され、現場からの情報も外部からの情報もお互いに伝わらない状態になった。
なにかひどい状態になっているようだと思われるが、それが伝わってこない。
それぞれが体験した事だけが事実になった。
これまでの経験で対策や心構えをしていたはずの人々の予想を超える災害が起きて、対策が有効に働かない事がわかった。
災害に対する情報伝達手段や避難装備もあったはずなのだが、現在伝わってくる情報からは役に立っていないようだ。
絶対に大丈夫と言われた原子力発電所がの防備が、すべて破られるという「想定外」も起きた。
想定外の出来事があると、想定内の対策では役に立たない事がわかった。
津波が来ても非常食もない状態になるはずがなかったはずだし、原発から放射能がもれる事もないはずだった。
その「事実」がやっと伝わってきた時に、「次」の対策が取られようとするまでにやけに時間がかかった。
孤立した集落には助けは来ないし、放射能漏れを止める事も出来ない。
ただ準備が整うまでと、時間ばかりが過ぎて行く。
ひとつひとつ順番にこなして行く。
これは確かに効率的だし、整然としていて統治しやすい。
その結果、順番を後回しにされたところは何も震災直後から変わっていない。
同時多発的に行動する事は出来ないのだろうか?
どれを緊急として優先するか判断する人、部署はいないのだろうか?
救助とともに救援をする事は出来ないのだろうか?
そんな思いで、数日を過ごしてきた。
それもこれも部分的にしか情報が伝わってこないから、実際はどうなのかわからないからだ。
役所も警察も軍隊も「命令」がないと動かないし、動けない。
それは正しい姿だ。
だからそれにプラスして自由な判断で動ける「遊隊」があってもいいと思いもした。
それは公務員ではない民間の出来る事だろう。
ラジコの規制をはずして全国で聴けるようにし、情報を伝えるという事を少しでも広めようとしたのも一例だし、ツイッターで連絡をとるというのも効果的だ。
しかし、どうしてもそれらの情報は点であり、その情報を取りまとめる事が出来ない。
だから何が起きているかの全体像が見えないのだ。
その責任を取るのは民間としてはマスコミだ。
しかし実際には何を誰に伝えるべきかをはき違え、たとえば、ドコソコが孤立して救援を要請してきたという事実を我々に伝えているように、誰に伝えるものかを考えていない放送報道ばかりが目立った。
どこの役所がなにを話し合い、どのように動こうとしているのか伝える報道もない。
すべて政府の広報が一元化し、そこで発表されない情報は伝わらない。
自衛隊はどうするのか、医療関係者はどう行動するのか、米軍は、消防は警察は、そして協力出来る企業は、それをどこで誰が取りまとめて調整しようとしていて、どこに更なる有用な情報を伝えるべきなのか、何にも知らされない。
唯一出来るのは、数々の媒体をあたり、その信憑性を吟味して、今どうなっているのかを知る事しかない。
しかし知ったとしても、それを有効に伝達する方法がないのだ。
たぶん政府、自治体には救援要請の連絡が山ほど来ているのだろう。
しかしそれを吟味して早急に手を打つために整理する組織などないのだろう。
あっても能力不足なのだろう。
何が今起こっているのかわからないが、そういう事だけはわかってきた。
つまりゴタゴタしているだけで、どうする事も出来ずに時間ばかりが過ぎているという事だ。
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2008年12月29日 石巻

2011年03月14日 | Weblog



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私を通り過ぎっていった街

2011年03月12日 | Weblog
暇とお金を見つけてはいろいろな街を歩いてきた。
仙台、石巻もその街のひとつだ。
ただやみくもに街を歩き、そこがどんな街なのかを肌で感じて写真に撮るという行為をしていた。
今回、地震の被害にあった仙台、石巻もそうやって歩いた街だった。
だから多少はそこがどういう街であったかを身体で知っているのだけど、その記憶がすべて消去されるような被害の状況を見ると、自身の痛みとして伝わってくる。
特に東北地方を歩こうと思ったのは、不況の街を身に実感しようと思う気持ちがあったからで、この震災でさらに悲惨な状況へと進んでしまう事に涙が止まらない。
吹雪の中を進んだ仙石線が映像で見ると破断され、松島の風光明媚な景色が無惨な姿となり、石巻の街が、歩き回ったあの街が破壊された。
あそこで生活していた人々が今は困難な事態に陥っていると思うと、身体が震えてくる。
そして、いつもあたたかいコメントを寄せてくださった仙台のちえさんの街も被災した。
無事である事を願うのはもちろんだが、それでも被災した街で心身ともに受けたであろう被害を現在も持ち続けている事を想像するだけで何とも言えない気持ちが押し寄せてくる。
ある人を心配するというのは、その人自身の身だけでなく、その人の持つ環境文化人生を心配するという事だ。
それらが失われたという報道を知るたびに、その人を思う気持ちが言葉にならずに迫ってくる。
祈りはしない。
だけど少しでも悲しみが少なくなるようにと願っているし出来る事があればするつもりだ。
コメント (6)
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どっちが得かよーく考えてみよう

2011年03月10日 | Weblog
デジカメの良いところは真四角画像が撮れるところだと思う。
それだけがイイところだとも思える。
まあ、高感度がフィルムよりもキレイに撮れる事もだが。

で、真四角画像を高感度でも撮れるデジカメも欲しいと思うのだけど、フィルムカメラのあくまでも併用品あるいは別利用品なので、そんな高いものも欲しくはない。
もっとも現在は安くても買うお金もないのだから、あくまでもシミュレーション(シュミレーションじゃぁネエよ!)なんだけど。
だから松下電器のG2がお手頃なんだけど、付属のズームレンズと40ミリ相当の単焦点レンズを買うと結構なお値段になってしまう。
そんなことを考えていたら新製品発売間近のD700を買うのとそんなに変わらない事に気がついた。
このカメラだと現在のフィルムカメラのレンズがそのまま使える。
そのレンズはPCレンズだけなんだけど。
タテモノ撮りにはPCレンズだよね。
でもD700だと真四角画像が撮れないんだけど。
そっかぁと考えてシミュレーションは終了。
有意義な時間だ。
なにしろ一銭もかからない。
なんでも想像するだけならタダだし、安全だし、モテモテだし、絶倫だし。
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本屋は

2011年03月09日 | Weblog
たくさん本がある事だけが良い本屋じゃない。
その中から自分にあった本が見つけられるかが大切だ。
どんなレイアウトかも大切。
整理整頓も大切。
近頃は店員さんも忙しいらしく、平積みの本が崩れていてもそのままにされている事が多い。
なぜか積まれた本が崩れているのが我慢出来ず、ついキチンとそろえて積み上げてしまう。
ところが行く棚ごとに崩壊した・・・崩壊した・・・
なんと言えばいいのだろう?
平積みの本が積み重なったものを。
業界用語はあるのか?

平積みが崩れた姿はコーナー部に多い。
これは膝やカバンなどが当たってしまうためなのだが、ぶつけても知らぬ振りで行く人も多い。
そうやって「秩序」が崩れた本を元に戻していくのだが、次第にそれが目的となって、本を揃えるために棚を移動したりする。
ふと気づいて作業を中断するのだが、どうも気になるのは変わらない。
そういう本屋は良い本屋ではない。

たくさんあっても、どれも目に入らないで、目がチカチカするだけで探せない本屋もある。
私的には三省堂本店がそうだ。
そういう場所では良い出会いがない。

かといって在庫がそろっていないと困る。
文庫本でも数年前のはないというのでは話にならない。
単行本をとまではいわないが、文庫本ぐらいはストックしておいて欲しい。

新刊本だけではなく、既刊の本と出会える本屋は良い本屋。
こんなのがあったんだと巡り会えたら本好きにはたまらない。

本屋とは合コンの関係なのだろう。
新しい出会いを求めて出向くが、自分も選ぶし相手も選ぶ。
うまくカップルになれれば良い本屋。
そういうマッチングが本屋にはあると思う。
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