Nonsection Radical

撮影と本の空間

カイロを落として大騒ぎ

2011年03月08日 | Weblog
まだまだ寒い日が続くのでハクキンカイロは手放せない。
冷える場所に当てて暖をとる。
朝はお腹に、昼間は腰に、肩にと大活躍。
仕事が終わって、お腹にカイロを当ててズボンのベルトではさむ。
駅のホームでドアの締まりそうな電車へ走る。
寸前でドアが閉まり始め、車掌を見ると目が合った。
田中角栄よろしく「ヨッ」と片手を上げるとドアを開けてくれた。
「ヨッシャヨッシャ」と席に着く。
車内放送が、全然違う行き先を告げる。
ひとつ目の駅で降りて、また戻る。
今度は行き先を確認して乗り込む。
すわってポッドキャストを聴きながら、ひとつ乗り換え下車駅へ。
雨が降ったようで道路が濡れている。
ようやく着いた家で、出迎えのワンコとニャンコに御挨拶。
ニャンコにはエサとおやつのカツオ節。
服を脱いでいると何かがおかしい。
カイロがない。
ズボンの中を見るが落ちていない。
コートのポケットにもない。
椅子にもない。
床にもない。
落としたんだぁ。
どこで・・・
そこで仕事が終わってからの行動を振り返った。
当然どこだかわからない。
しかしお腹が結構暖かい。
つい今しがただ。
雨に濡れた道で落としたか。
イヤホンのせいで落ちた音が聞こえなかったか。
再び駅への道を探しに行こうと老親に告げて準備。
そして・・・
ベッドの布団をまくり上げた。
当然カイロはそこにあった。
部屋に入ってすぐにおなかのカイロを布団の隙間に差し入れたのだった。
そうすると布団が暖まるから。
それを忘れていたのだ。
まるでそんなことをしてもいないように。
いよいよだな(笑)
コメント (2)
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キューバの葉巻工場

2011年03月07日 | Weblog
朝起きるとラジオでNHKニュースを聴く(ラジオ受信料払っていないけど、どうしよう?)。
そして台所へ行くとテレビがあるのでNHKから「モノミンタ」の番組にチャンネルを変える。
NHKはラジオもテレビも同じニュースをするが、ラジオで内容は理解出来るので、別に映像を見る必要はない。
テレビ映像などその程度のものでしかない。
で、モノミンタの番組にするのはなぜか?
今の世相が見えるからだ。
新聞の記事を紹介し、モノミンタがだるそうにどうでもいい受け答えをし、電波芸者(死語)ではなく、「コメンテーター」が正論を吐く。
これらの発言が、実は世論だと思うのだ。
モノミンタは視聴者の半歩前を行くとか、コメンテーターは視聴者に多方面の考えを提供するとか、そんな考えは全くなく、視聴者はこう考えているだろうという「思い」を口にするのだ。
この「思い」は思いであって、視聴者の「意見」などという崇高なものは相手にしていない。
だからモノミンタの声は天の声であり、人の声である。
そういうように番組を見ている。
satoboのように頑固で偏屈でアカだと、とかく自分の意見がどのように世間と違っているのかわからなくなるので、こうして毎朝正しい考えを頭に入れて社会生活を送るようにしているのだ。
そうでもしないと、毎朝うっとおしい顔して電車に揺られるどう見ても融通の利かなさそうな人達が、どのような事を思っているのかわからないしね。

しかしテレビ局というのは、自社に「報道」という部門を抱えているのに、新聞を壁に貼ってそれを紹介するという他人のふんどしで相撲を取るというか、愛人のパンティーを頭にかぶるベルスコーニのような事をよくやるものだ。
おまけにその新聞を「読む」というテレビらしくない事までする。
その新聞を読むという行為を見て、「ここはキューバの葉巻工場かよ」と毒づくのが毎朝の日課になっている。
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出会いは第一印象がすべて

2011年03月06日 | Weblog
読む本がなくなったので仕事場で借りた文庫本を手にした。
新堂冬樹という人の「不倫純愛」。
この人の本は初めて読む。
興味を持って借りたわけではない。
もちろん題名に惑わされたわけでもない(苦笑)。
あくまでも読む本がなくなったのと、書店に行っても興味を引く本が見つからないからだ。

読み始めると違和感を持った。
1/4も我慢して読んだが、限界になり最後を読んだ。
やっぱり、そうか・・・
想像した通りの筋書きだった。
最初から筋書きが読める本など初めてだ。
こんなシロートのsatoboに筋書きが読めるなんて・・・

その作家の本を読み続けるかは最初が肝心だ。
最初にイイ印象を持てば次も期待して読む。
そしてある時期に卒業する。
その逆に、最初は悪い印象で、あとから好転する事などない。
だからもう新堂作は読まないだろう。

せっかくの読書日和(雨で肌寒い)がガッカリな事になったが、試しに書棚を覗いてみた。
部屋の書棚には姉の残していった本がいくらかある。
その中から文庫本を数冊取り出して読み始めた。
どれも20年以上前の発行だ。
これらの文庫は今のより文字の大きさが小さくて、細かいものが見えなくなる謎の難病にかかってしまったsatoboには辛いのだが、なかなか面白かった。
十分に時間つぶしになる。

一日中布団にくるまれて読書したが、布団の上ではニャンコが一日中乗っかり、かなり重い思いをしたけど、これも愛情表現かと許した。
でも、上位の体位は苦手だ・・・
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歩くのが遅くなった大阪人

2011年03月05日 | Weblog
昨夜は食後に風邪薬を飲んだら爆睡してしまった。

今日は週末唯一の晴れとなるだろうからと散歩に出かけた。
場所は大阪城。
大阪に住んでいながら大阪城には行ったことがなかった。
そして大阪城に大阪城があるとは知らなかった。
皇居に江戸城がないのと同様に、石垣だけが残っているものと思っていたのだ。
調べたら今の大阪城は昭和に再建された天守閣がそびえている。
石垣などは徳川時代に築かれたもので、「太閤さん」の見る影はないが。

大阪駅から裏通りをプラプラ歩く。
大きな通りは横断歩道がなくて、横切るには地下道や歩道橋を使わなければならない時代遅れな道づくりの場所が多い。
裏通りにはポチポチと個性的なお店があり、それらを撮影しながら歩く。
そういう場所は幸いな事に人通りが少ない。
大阪・梅田駅周辺は人ごみでウンザリする。
そしてみんなノロノロと歩いている。
昔の大阪は歩くスピードが早かった。
東京に行った時には歩くスピードが遅くイライラした。
特に渋谷を歩くパルコ全盛期の若者は目的もなく歩くものだからアリに追い抜かれたものだ。
それ以上に今の大阪の人の歩く速度は落ちた。
その理由を雑踏の中で立ち止まり、考えた。(それが原因だろ!)

年寄りの「混合率」が高いのではないか。
たとえば東京の新宿、渋谷、銀座、ギーロッポンなどと比べてみると、年寄りの人ごみに混じっている率が高い気がする。
そもそも東京の街は、年齢層を限定する街づくりとなっている。
ところが大阪ではどの年齢層をも対象にしたお店が大阪駅周辺に集中している。
そこへ老いも若いも押し寄せている。
もちろん昔からそうだったのだけど、平均年齢層が上がっているのか?(あくまでも仮定だが)。
どうしても年寄りが増えると歩く速度も落ちるし、立ち止まる事も多い。
おまけに大阪駅周辺の街づくりはわかりにくい作りとなっている。
横断歩道の例もあるように、人に優しくない街づくりはだんだんと人の活動を遅くしていくのではないか。
地上の移動は不便なので、地下道を利用し、複雑な地下道が人の混雑を招く。
一見活発なような混雑が、実は不便なだけではないのか。

てなわけで、人ごみを避け、どんどんヘンピなところへ行きたくなる年寄りであった。
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温故知新

2011年03月03日 | Weblog
町内をブラブラしていると知らない場所が結構あるものだ。
もちろん時代とともにまったく変わり果ててしまった場所も多々ある。
そもそも田舎の人間など、生活範囲外の場所へ、たとえ町内でも無用に足を向ける事もないので、知らない場所があるというのも不思議でもないのだ。
それが「外」から帰ってきた人間だと、すべてが等価の場所になり、ドンドン知らない場所として入り込んでいく。
そして新たな見聞を広めるのだ。
といっても、歴史や地理に興味があるわけではなく、普段の生活文化に興味があるだけなので、たいして語る事もない。
こういう光景を見たというだけだ。
それでいいんじゃないかと思う。
写真は添え物の資料じゃないのだから。

こういう写真を撮っていると、大阪ではいくぶん肩身が狭い。
一般の大阪人にとっては、写真を撮るからには何か「価値」が、あるいは「何かが」あるからだという「価値観」があるようで、フォトジェニックだから撮るというのは理解不能な面があるようで、かなり警戒される。
警戒するに価するような人達ではないのだが(苦笑)、いまだ無用な無益な無駄な事に価値を感じる事(それを文化、ゲージュツ、遊びと呼ぶなら呼べるような事)は少ないように見受けられる。
こちらが無用な無益な無駄な事だと思えるテレビ情報に価値を置くのは東京(地方)よりも高いかもしれない。
驚くほどテレビの情報を共有化している。
そういう人達にとっては、写真撮影は取材の添え物か、怪しい行動のどちらかに二分されるようなのだ。
そういうわけで、通天閣や道頓堀でない、ワケのわからない写真を大阪で撮るのは胸躍るような、疲れるような不思議な気分となる。
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