Nonsection Radical

撮影と本の空間

自分の読み方

2012年01月23日 | Weblog
昨日は「サクリファイス」近藤史恵著 新潮文庫 を例に、立場によって人様々な読み方があるという話をした。
で、めずらしくsatoboはどう読んだかを説明したくなった。

この小説は、自転車ロードレースを題材にしている。
自転車ロードレースは、道路をビュンビュン飛ばして集団で駆け抜けていくヤツですよ。
小説で理解出来た範囲で説明すると、ロードレースはたくさんの人が走っているけど、チームで行なう団体競技なんですと。
何人かのチームで「徒党を組んで」走るけど、好き勝手に誰もが一番をめざすわけでなく、エースという人がいて、他の人はエースを勝たせるために補助する立場らしい。その人達をアシストと呼ぶらしい。
アシストがエースの風よけになったり、防御したり、他のチームのペースを崩したりと色々な作戦を実行しながら、最後に自分らのエースにトップでゴールしてもらうのが自転車ロードレースらしいのだ。
だから基本的にトップを狙うのはいつもエースだけで、アシストはエースをアシストする事が仕事といえる。
みんなが、いつかはエースにと心に誓い、チャンスを狙いながらアシストを務めているわけだ。

そして、この小説では、アシストが主人公になっている。
わけありで、自分がエースをめざす事に違和感があり、アシストという立場に居心地の良ささえ感じている主人公だ。
しかしながら、チームメイトは誰もがエースを狙うライバルだという”常識”があり、主人公の心とは裏腹に争いに巻き込まれていく。
エースは、他の人からは自己中心的で、アシストを単なる自分の奴隷のようにしか考えていないと思われている。
そんな中に、事件が起きて、エースとはアシストとは何か?という話になっていく。

そんな話を、自分の身に投影していたわけです。
satoboは、主人公のようにアシストなんです。
それは自覚しているし、そのように振る舞っているし、さらに努力もしている。
自分が出世して金持ちになりたいという欲もない。
そういう身の程を知る生き方に満足もしている。
小説の主人公みたいでしょ(笑)。
幸いにして、これまでそういう立場を欲しがる人に恵まれて、仕事をこなしてきたわけです。
エースは使えるアシストを欲しがる。
一方、アシストは仕えるエースを欲しがるのです。
がむしゃらにトップをめざすエースを勝たせるためにアシストする事に満足を得るのです。
だからトップをめざさないエースは魅力がないのです。
小説では、自己中心的だといわれていたエースが、実はアシストの役割りをしっかり認識していて、自転車ロードレースが人々の犠牲の上で成り立つチーム競技だということをある行為で証明するのです。
これは自転車ロードレースの話であるけれど、企業小説であると思ったんですね。
上司が、社長がエースだとすれば、それをアシストして、最終的に会社というチームを優勝に導く話と置き換える事が出来るのです。
誰もが出世して、社長になる事をめざしているようだけど、中にはアシストする事に喜びを感じる者もいるのだと、この小説は同意してくれたわけだ。
そして、”あるべき”エースの姿も見せてくれるのです。
エースの働きとはいかなるものか。
エースはアシストを足がかりにして飛び出し、トップでゴールする事をがむしゃらにめざさないとイケナイのだ。
全力を尽くして倒れ込むようにエースに”たすき”を渡した時に(なぜか急に駅伝の話になったりするが)、倒れ込んだ前走者にエースが「大丈夫か?救護をよぶからな」などと言っていてはダメなのだ。
「バカ!さっさと行け!」と怒鳴られて、あとで「せっかく心配して介抱したのに、あいつはなんだ!」と考えるようではダメなのだ。
そういう関係性がお互いに認識できていて、初めてチームは成り立つのだ。
で、実社会ではどうなのよ?

ということを考えながら読んでいたわけですよ。
エースをめざす人、アシストに努力する人、とりあえずいる人、それぞれさまざま立場があるけれど、自分の立場を理解しているか、他の立場の人に理解はあるか、何が目的か、わかって”レース”をしているか?

京都府綾部市 綾部駅前通り
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小説はドキュメンタリーか

2012年01月22日 | Weblog
なにか専門性のある事を題材に使った小説というのは難しいな。
その専門分野を知った人が読むと、小説の記載の間違いや知識不足、勘違いなどに目が行ってしまい、その結果、小説として評価する前にその専門的世界を描いたドキュメンタリーだと思って評価する場合もあるようだ。
多少かじっただけの自称「中の人」というので代表的なのはプロ野球といえばわかりやすいか。
高校野球レベルとプロ野球、それも一流となれば、全然世界が違うはずなのに、高校野球レベルでプロ野球を語るのは居酒屋での戯言なのだろうが、他にもそんな専門性を持った世界はたくさんあって、その数ほどにそういう「評論」は出てくる。
それが小説となると、その「評論」にも自分レベルでの世界観だけで小説を読んでしまい、「つくりごと」の世界を楽しむという事ができない事もあるらしい。
でも、実際の世の中の世界のままであるのなら、小説が読まれる必要はないし、SFもミステリーも戦争ものも恋愛ものも警察ものも企業ものも成り立たない。
また、その専門分野に詳しく、間違いのない知識と表現が出来る人だけが小説を書けるとしたら、また話の広がりが狭められてしまう可能性もある。
小説というのは、その題材の専門的知識を持った結果しか書けないワケじゃない。
多少の勉強はするだろうが、間違いもあるだろう。
でも、だから面白くないとはならないはずなのだ。
その世界はそんなもんじゃないんだよ、という考えは小説には通用しないんじゃないのかな。
小説は、その「業界関係者」に向けて書かれるのではないのだから、話を楽しめれば良いではないのか?
実際、自分の知っている世界の話が小説の題材にされ、「そんなもんじゃないんだよ、間違いも多いし、つまんないよ」と言っている人でも、ほかの題材の小説を楽しく読んでいるだろうし、だからといってその話が正確な情報だけで成り立っているとは断言出来ないだろう、知らないんだし。
そんな事を今日読んだ「サクリファイス」近藤史恵著 新潮文庫 のネット評論を読んで思ったわけだ。


長浜市 大通寺表参道
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雨の降る寒い休日に

2012年01月21日 | Weblog
近藤史恵の本を検索し、動的平衡2 福岡伸一著を読み、Gyaoで「息もできない」を観る。
「息もできない」の原題が「糞バエ」というのがイカす。

老母が部屋へ来て、NHKでリーダー論のトークをしているから観ろという。
日本にリーダーは必要とされていないと論す。
すべて合議制でとりおこない、出るクイは打たれるような社会風土なんだと説明。
そのくせ、リーダー待望論が出るのが群れ社会の無責任なところ。
群れ社会で行き詰まった結果をリーダーへの責任転嫁でお茶を濁すいつものパターン。
そんなにリーダーが欲しければ、どんなに小さな単位であっても、自分がリーダーになって”責任を持って”何かを始めればイイのだ。
それをせずに、誰かがどこかで自分の責任とは関係なくリーダーになって、自分の思うように何事かをしてもらいたいと思うのは勝手だが、そんなに世の中は甘くない。
大阪人が”何か”をハシモトさんにやってもろうて、”どうにか”景気を回復してもらいたいわぁ”というのと同じレベルの無責任さ。
もちろんNHKはおろかテレビも観ず。
テレビのない生活は静かで効率的だ。



大阪市 淡路本町商店街宝来市場
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いかがなものか ゆるせない

2012年01月20日 | Weblog
ツイッターやブログなど、個人の発言の場として大変便利なツールである。
たとえこのブログのようにわずかな人しか読まないものであっても、本人はワールドワイドに意見を発信している気持ちになれるんだ(笑)。
それをとやかく言わないし、言われたくもないというのは当たり前の事。

でもね、最近いろいろ問題も感じる事もあるし。
自分の意見に賛同を得ようと、他人に「どう思います?」「ひどいと思いませんか?」「許せない!と思いませんか?」ってさそうような事をするのはやめようよ。
そこに、肝心の意見ウンヌンよりも、自分の意見を拡げたいという気持ちが現れていて、ハッキリ言って見苦しい。
今日も、単に言葉尻をとらえたような事を広めるつぶやきを見て、その「どう思います~?」的な書き方に嫌悪感を抱いて、自分の意見を人に誘いの言葉をかけずにつぶやいた。
徹底的に論破する事も出来るが、そんなくだらない事を仕事中に(汗;)している暇はないので、一言で終えた。
何かと話題になる事に、言葉尻を取り上げる事が多いと思いませんか?(と、誘いの言葉をかけるw)
他人は知らないが、自分は常に適切で誤解を生まない言い回しで正しい表現をしているとはとても言えないので、揚げ足取りなどは冗談でしかしない。
表面上の簡単な表現で、他人の発言に対し攻撃するのはあまり好きな表現ではない。
もちろん、そういう発言をしてもイイけど、人を誘うようなやり方はやめようよ。
自分ひとりの発言にしようよ。



尼崎市 ナイス市場
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不思議な いつもの出来事

2012年01月19日 | Weblog
目の前に置いてあったものが突然消え失せ、いくら探しても見つからなかったのに、しばらくするとまた同じ場所に置いてあるという「いたずら」が何度かあるのだけれど、それを「たべにのしわざと」と呼んで、そういうものだと思っている。

iPodにつけているイヤフォンには、揺れ留めのためのクリップがついている。
そのクリップをなくしたのは”先週”の事だった。
思い当たる場所は探したけれど結局見つからず、どこかに落としたんだなぁと諦めていた。

今朝、ターミナル駅で電車を降り、いつもの通りに階段を降りていると、足元のステップに何か黒いものが落ちている。
なんだろうなぁと、よくも見えない目を凝らすと、落としたクリップが落ちているのだ。
落としたのは先週だ。
その階段はそれから毎日1mとぶれずに歩いていた。
毎日何千人もが上り下りする階段だ。
掃除だってしているだろう。
なのに今日落ちていたのだ。
ちょっと変わったクリップなので、他の人がたまたま同じものを同じように落としたと考える方が不自然だ。
つまり「そういうものなんだ」。


京都市右京区嵯峨野高田町
コメント (2)
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