昨日は「サクリファイス」近藤史恵著 新潮文庫 を例に、立場によって人様々な読み方があるという話をした。
で、めずらしくsatoboはどう読んだかを説明したくなった。
この小説は、自転車ロードレースを題材にしている。
自転車ロードレースは、道路をビュンビュン飛ばして集団で駆け抜けていくヤツですよ。
小説で理解出来た範囲で説明すると、ロードレースはたくさんの人が走っているけど、チームで行なう団体競技なんですと。
何人かのチームで「徒党を組んで」走るけど、好き勝手に誰もが一番をめざすわけでなく、エースという人がいて、他の人はエースを勝たせるために補助する立場らしい。その人達をアシストと呼ぶらしい。
アシストがエースの風よけになったり、防御したり、他のチームのペースを崩したりと色々な作戦を実行しながら、最後に自分らのエースにトップでゴールしてもらうのが自転車ロードレースらしいのだ。
だから基本的にトップを狙うのはいつもエースだけで、アシストはエースをアシストする事が仕事といえる。
みんなが、いつかはエースにと心に誓い、チャンスを狙いながらアシストを務めているわけだ。
そして、この小説では、アシストが主人公になっている。
わけありで、自分がエースをめざす事に違和感があり、アシストという立場に居心地の良ささえ感じている主人公だ。
しかしながら、チームメイトは誰もがエースを狙うライバルだという”常識”があり、主人公の心とは裏腹に争いに巻き込まれていく。
エースは、他の人からは自己中心的で、アシストを単なる自分の奴隷のようにしか考えていないと思われている。
そんな中に、事件が起きて、エースとはアシストとは何か?という話になっていく。
そんな話を、自分の身に投影していたわけです。
satoboは、主人公のようにアシストなんです。
それは自覚しているし、そのように振る舞っているし、さらに努力もしている。
自分が出世して金持ちになりたいという欲もない。
そういう身の程を知る生き方に満足もしている。
小説の主人公みたいでしょ(笑)。
幸いにして、これまでそういう立場を欲しがる人に恵まれて、仕事をこなしてきたわけです。
エースは使えるアシストを欲しがる。
一方、アシストは仕えるエースを欲しがるのです。
がむしゃらにトップをめざすエースを勝たせるためにアシストする事に満足を得るのです。
だからトップをめざさないエースは魅力がないのです。
小説では、自己中心的だといわれていたエースが、実はアシストの役割りをしっかり認識していて、自転車ロードレースが人々の犠牲の上で成り立つチーム競技だということをある行為で証明するのです。
これは自転車ロードレースの話であるけれど、企業小説であると思ったんですね。
上司が、社長がエースだとすれば、それをアシストして、最終的に会社というチームを優勝に導く話と置き換える事が出来るのです。
誰もが出世して、社長になる事をめざしているようだけど、中にはアシストする事に喜びを感じる者もいるのだと、この小説は同意してくれたわけだ。
そして、”あるべき”エースの姿も見せてくれるのです。
エースの働きとはいかなるものか。
エースはアシストを足がかりにして飛び出し、トップでゴールする事をがむしゃらにめざさないとイケナイのだ。
全力を尽くして倒れ込むようにエースに”たすき”を渡した時に(なぜか急に駅伝の話になったりするが)、倒れ込んだ前走者にエースが「大丈夫か?救護をよぶからな」などと言っていてはダメなのだ。
「バカ!さっさと行け!」と怒鳴られて、あとで「せっかく心配して介抱したのに、あいつはなんだ!」と考えるようではダメなのだ。
そういう関係性がお互いに認識できていて、初めてチームは成り立つのだ。
で、実社会ではどうなのよ?
ということを考えながら読んでいたわけですよ。
エースをめざす人、アシストに努力する人、とりあえずいる人、それぞれさまざま立場があるけれど、自分の立場を理解しているか、他の立場の人に理解はあるか、何が目的か、わかって”レース”をしているか?
京都府綾部市 綾部駅前通り
で、めずらしくsatoboはどう読んだかを説明したくなった。
この小説は、自転車ロードレースを題材にしている。
自転車ロードレースは、道路をビュンビュン飛ばして集団で駆け抜けていくヤツですよ。
小説で理解出来た範囲で説明すると、ロードレースはたくさんの人が走っているけど、チームで行なう団体競技なんですと。
何人かのチームで「徒党を組んで」走るけど、好き勝手に誰もが一番をめざすわけでなく、エースという人がいて、他の人はエースを勝たせるために補助する立場らしい。その人達をアシストと呼ぶらしい。
アシストがエースの風よけになったり、防御したり、他のチームのペースを崩したりと色々な作戦を実行しながら、最後に自分らのエースにトップでゴールしてもらうのが自転車ロードレースらしいのだ。
だから基本的にトップを狙うのはいつもエースだけで、アシストはエースをアシストする事が仕事といえる。
みんなが、いつかはエースにと心に誓い、チャンスを狙いながらアシストを務めているわけだ。
そして、この小説では、アシストが主人公になっている。
わけありで、自分がエースをめざす事に違和感があり、アシストという立場に居心地の良ささえ感じている主人公だ。
しかしながら、チームメイトは誰もがエースを狙うライバルだという”常識”があり、主人公の心とは裏腹に争いに巻き込まれていく。
エースは、他の人からは自己中心的で、アシストを単なる自分の奴隷のようにしか考えていないと思われている。
そんな中に、事件が起きて、エースとはアシストとは何か?という話になっていく。
そんな話を、自分の身に投影していたわけです。
satoboは、主人公のようにアシストなんです。
それは自覚しているし、そのように振る舞っているし、さらに努力もしている。
自分が出世して金持ちになりたいという欲もない。
そういう身の程を知る生き方に満足もしている。
小説の主人公みたいでしょ(笑)。
幸いにして、これまでそういう立場を欲しがる人に恵まれて、仕事をこなしてきたわけです。
エースは使えるアシストを欲しがる。
一方、アシストは仕えるエースを欲しがるのです。
がむしゃらにトップをめざすエースを勝たせるためにアシストする事に満足を得るのです。
だからトップをめざさないエースは魅力がないのです。
小説では、自己中心的だといわれていたエースが、実はアシストの役割りをしっかり認識していて、自転車ロードレースが人々の犠牲の上で成り立つチーム競技だということをある行為で証明するのです。
これは自転車ロードレースの話であるけれど、企業小説であると思ったんですね。
上司が、社長がエースだとすれば、それをアシストして、最終的に会社というチームを優勝に導く話と置き換える事が出来るのです。
誰もが出世して、社長になる事をめざしているようだけど、中にはアシストする事に喜びを感じる者もいるのだと、この小説は同意してくれたわけだ。
そして、”あるべき”エースの姿も見せてくれるのです。
エースの働きとはいかなるものか。
エースはアシストを足がかりにして飛び出し、トップでゴールする事をがむしゃらにめざさないとイケナイのだ。
全力を尽くして倒れ込むようにエースに”たすき”を渡した時に(なぜか急に駅伝の話になったりするが)、倒れ込んだ前走者にエースが「大丈夫か?救護をよぶからな」などと言っていてはダメなのだ。
「バカ!さっさと行け!」と怒鳴られて、あとで「せっかく心配して介抱したのに、あいつはなんだ!」と考えるようではダメなのだ。
そういう関係性がお互いに認識できていて、初めてチームは成り立つのだ。
で、実社会ではどうなのよ?
ということを考えながら読んでいたわけですよ。
エースをめざす人、アシストに努力する人、とりあえずいる人、それぞれさまざま立場があるけれど、自分の立場を理解しているか、他の立場の人に理解はあるか、何が目的か、わかって”レース”をしているか?
京都府綾部市 綾部駅前通り