Nonsection Radical

撮影と本の空間

結構毛だらけ

2016年06月05日 | Weblog
関東地方も梅雨入りし、ほんの少し前には長袖シャツが欠かせなかったのが、日中は半袖シャツでも汗ばむ気温になったの同時に、湿気もこれから増えてくることに注意しなければならないお年頃であることを自覚しなければならなくなった。
年中毛皮製品を身にまとっているニャンコも、寝る時には布団が必要でなくなったようで、パパリン(俺のことさ)の肉布団も必要でなくなり、最近は一人で寝るようになった。
そしていつの間にか廊下などにモヤモヤしたニャンコの毛がさまようのが目につき出した。
これから夏毛に生え変わっていくのだろうが、その間は限りない抜け毛対策を実施しなければならない。
気がつくそばからつまんではゴミ箱に捨て、掃除機をかけ、粘着ローラーを衣服に転がし、そして”ゲボ”を始末しなければならない。
身づくろいに精を出すニャンコだが、飲み込んだ抜け毛が胃の中にたまり、それを食べたものと一緒に吐き出すのだ。
我が家のニャンコは「猫の草」を食べないので、吐き出すのはカリカリや鰹節を食べた時なのだが、近くにいて気がつけばすぐに処理するのだけど、いない時に吐き出したのは、あとになって気がついて処理することになる。
意図的なのか、どうしてこんなところにぃという場所でゲボをするので、単に拭うだけでは跡が残り、”悪意”の印として後世に伝えられる。
しかしどうもゲボはニャンコ自身でもどうすることもできないようで、悪いという気持ちは持ち合わせていないようだ。
ただ、誰もいない時にしたゲボは、どうも気になるようで、そこはかとなく「ここにゲボがあるよ~」と知らせてくれる。
その乾いたゲボを始末するのをじっと見つめて、綺麗になったのを確かめると立ち去るのである。
ワンコであれば、悪いとかゴメンとか思う時には”表情”に現れるのだけど、ニャンコの表情はどうもつかめない。
オッサンに笑顔を向けたあとで悪態をつくジョシみたいなものだ。



中央通り二丁目商店会
埼玉県川越市連雀町
撮影 2016年3月31日 木曜日 14時15分
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オッサンの歌

2016年06月04日 | Weblog
ラジオから流れてくるポップス曲ってみんな若者向きの歌なのね。
ナウなヤングが恋だのあおはるだのを歌うのはいつの時代も同じなわけ。
でもオッサンの心にはキュンって来ないんだよね。
それはオッサンの心が汚れてしまったこともあるんだけど、実はみんな知ってるんだよ歌詞の世界を。
オッサンにだってヤングな時代はあったわけで(ナウはなかったけど orz)恋だのあおはるなどに心を乱した時期もあったんだ(本当だから)。
で、その純真な心に寄り添ったのは、やっぱり当時のナウなポップスだったりしたんだ。
決して「勘太郎月夜歌」とか「湯の町エレジー」じゃないんだよ。
そういう時代を過ごしてきて、歌に占める歌詞の世界がある程度は堪能してきたんだけど、そこで歌詞の世界ってこういうものなんだっていうものができてしまったんだな。
だから同じような歌詞の内容を聞くと「ああ、知ってるその世界」ってスレてしまったんだ。
恋だのあおはるの歌詞ってだいたいいつも同じなわけで、そこにメロディーやリズムやビートが時代によって乗せられるんだけど、現実の恋だのあおはるが時代が変わってもそんなに変わらないように、歌の世界もそんなには変わらないんだよなぁ。
だから新たな歌を聞いても、「それなら俺にはこんな”持ち歌”があるし」って、同類の歌を持ってきてしまうんだよね。
そんな”持ち歌”を今のナウなヤングが知らないのと同様に、オッサンも今の歌を知らなくても生きていけるんだよ。
それは断絶じゃなくて、時代の差なんだと思うんだよ。
それにさ、今のナウなヤングは20年、30年先の自分のことなんか想像できないだろうけど、オッサンはすでに20年、30年、あるいはもっと先の自分のことを知ってしまったんだよ、すでに。
そんな先の人生において、若い時に熱中した歌がどんな位置を占めているかもわかっているんだ。
だから今の歌には興味は持てないけれど、それを否定するわけでもなく、今のヤングにあたたかい想いを持っているんだから、これでも。



立門前商栄会
埼玉県川越市松江町1,2丁目,連雀町
撮影 2016年3月31日 木曜日 14時05分
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散歩で迷う

2016年06月03日 | Weblog
いつも行く散歩コースから少しだけ外れて道を行く今夜の散歩。
田舎ゆえ街灯だけが頼りの集落を一人歩く怪しげなオヤジ。
こんな集落なんだぁとお気軽に歩き進むと、そこは知らないワンダーランド。
気がつけば街灯もない田んぼ道をトボトボと歩いている。
さすがにマズイなぁと、ほのかに見える街灯の方向に進むのだが、田んぼではカエルの歌が聞こえてくるよとわけのわからないお気軽気分に。
最近通ったことのある道にたどり着き、安心してまた別の知らない道へ。
こんなところに出るんダァと思いながら歩き進んで行くが、またもや知らない道を歩くことになり、ついには現在過去未来の迷い道。
どうせどこにも出やしないと適当に歩いて、歩き疲れた頃に自衛隊の演習地内の休憩小屋へ(嘘)。
自動車の通る道へたどり着き、後はひたすら家の方向へ。
知った地域へ入るとまたしても横道への誘惑がわき上がるが、それこそ行き倒れになるのでおとなしく帰宅。
夜の知らない道は結構怖い。



大正浪漫夢通り
埼玉県川越市連雀町,仲町
撮影 2016年3月31日 木曜日 13時55分
コメント (3)
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読書灯

2016年06月02日 | Weblog
眠るまでのわずかの時間に本を少しだけ読むのが楽しみの一つだね。
お布団に入り、枕元に明かりを灯して短いセンテンスの文を読んで安らかな眠りにつく。
最高の贅沢じゃぁございませんかぁ。
なのに本を照らす電灯が壊れてしまった。
すでに20年は使っている卓上スタンドで、最初はランプが切れたのかと思ったが、本体がかなり高温になっているので、危険と判断して使用禁止処分にした。
その結果、寝る寸前まで天井の蛍光灯が灯り、眠気も覚める状況である。
ネットで枕元に置くLEDランプを探していたんだけど、安いものは乾電池式のものばかりで、コンセントに差すものは結構なお値段になる。
といっても、せいぜい数千円程度なのだけどね。
ん~ん、乾電池かぁと考えていると、ふと思い出したことが。
地震が来た時のためにと乾電池式のLEDランタンを以前に買っていたのだ。
あれを使おうとさっそく探し出して(笑)電池を入れてみると・・・
暗い、ランタンと呼ぶのにピッタリの”雰囲気”のある明るさ(暗さ)だ。
ムードがあるといえば聞こえはいいのだが、そんなものを枕元に置いてアハ~ン、ウフ~ンとムードのあることを執り行なうわけではないのである。
清く正しく読書を(時には宇能鴻一郎も読むけど)行なうための明かりなのである。
読書に適した明るさを提供してくれればいいので、ムラムラの明かりでは困るのである。
それでもないよりマシだし、地震が来た時にもすぐに使用できるのだから枕元の常備品として使うことに。
でもやっぱり新しいスタンドを買ってしまうんだろうなぁ。



連雀町繁栄会
埼玉県川越市連雀町
撮影 2016年3月31日 木曜日 13時50分
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近所のスーパー

2016年06月01日 | Weblog
商店街の小売店がドンドンなくなっていくのは、”消費者”の需要の関係からも仕方ない面もある。
そのかわりにスーパーマーケットが品数の多さから選択肢を広げて購買意欲を刺激し、個人商店から客を奪ったのも間違いない。
その結果、お店といえばスーパーかコンビニだけという地域も多くなったのではないか。
ああ、あとはドラッグストアーもあるな。
我が家のある地方都市の僻地でも個人商店は駅前に数件あるだけで、頼みは地方資本のスーパー1店、コンビニ1店、ドラッグストアー1店が半径50mの中にあるのみ。
もしどれかが潰れたら、買い物に隣駅まで行かねばならない。
こういう状態はどこの地方にも多いのではないか。
ひょっとするとコンビニ以外都心部でも同じかもしれない。
もちろん駅を中心にした商業地域が広がるところも多いだろうけど、住宅地に入ってみると・・・というところは多いでしょう。
まさしく生命線なのが近所のスーパーなのだ。
クルマでお買い物なんてのは若いうちだからできることで、歳をとるとわざわざ日々の買い物に遠くまでは、となるのだ。
高度成長期にダイエーをはじめとして総合スーパーが全国展開し、今に巨大スーパーだけが生き残るなどと言われていたのだが、恐竜化した巨大スーパーは消費の冷え込みとともに軽快な身動きが取れず、店舗閉鎖に追い込まれたところも多かった。
むしろ虫の息と言われた中小スーパーが規模の小ささから地域に張りついて生きながらえた事は、当時の”経済専門家”の予想をくつがえすものであった。
だからその当時に巨大スーパーに美辞麗句を投げかけたマーケティング専門家は腹を切れとは言わないけど。
そんなことはどうでもいいや。
どうでもよくないのは、そういう”唯一”のお店がなくなってしまわないように、ということだ。
今は自転車で隣駅ぐらいまでなら平気で疾走することができるけど、そんなことがいつまでも続くとは限らない。
歩くことが辛くなってしまう日が必ず来る。
そういう時に、ロードサイトの巨大ショッピングモールなんかには用はないのだ。
歩いていける近場のスーパーが大切なのだ。
手に持てる少しの荷物分だけ買い物をするという毎日の生活を支えるのが、現在では近所のスーパーだけになってしまったのだ。
小さなスーパーなど購買意欲の高い若い世代などには物足りなくて魅力はないだろうけど、今後も増え続ける年寄り連中には欠かせないものになるんだから。
どうか潰れませんようにと願ってお買い物をするのである。



クレアモール 5
埼玉県川越市新富町1丁目
撮影 2016年3月31日 木曜日 13時45分
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