Nonsection Radical

撮影と本の空間

8月20日 自意識

2022年08月20日 | Weblog
少し前に新聞紙上(ネットで読んだが)で”連合赤軍”の話題が上がっていたのだけど、それ以前から少しずつ”その手の”資料本を集めているのは、当時の彼らが自分の事をどのように評価していたのだろうかと興味を持っているからなのだ。自己評価ってやつね。
そういう事ってあんまり訊く人がいないのか、”当時の”心境とかは話になるんだけど、じゃぁ君らはなぜ自分はリーダーになれる資質があると思ったのか、そして今は当時の気持ちをどう思っているのかって訊いてくれないんだよね。
ずっとずっと前から不思議に思い続けているんだけど、なんであんたらがリーダー(みたいに)振る舞ってんだ?と説教喰らわせてくる”若造”に思ったんだよ。
たかだか10年前にはランドセルを背負っていた若造が偉そうに革命だなどと口にして(それ自体はそれも若さだからいいんだけど)他人を従えて自分たちがリーダーとして世界を変えていくんだと思えるようになった自意識を解体してみたいんだよ。
歴史的にも当然ながら世間知らずのボンボン達が頭の中でだけ理想化した世界は、自分たちが気にもしなかった人間としての欲望、嫉妬、妬み、恨みなどが現実の”闘争”の中に姿を現し、実際にはその感情によって行動して自爆していったわけだけど、それは彼らだけではなく社会主義体制のソ連でも中国でもカンボジアでも資本主義国同様に、というより人間の存在のあるところにどこでもあり続けている。
そういう「人間らしい感情」を彼らはどのように自己評価していたのだろうか?
というのも、当時も現在でも「あんな嫌味な奴らのグループなんかロクでもないな」と思っているのだ。
それは綺麗事を言いつつ、やってる事はグチャグチャなくせに、それを自覚してなさそうだから。
そんな「若気の至り」を出所した重信とかは、どのように「総括」したのだろうかと思う。
それとも当時の自分たちは若いにもかかわらずすべての事に考えが至り、今においても反省する点などないと考えるのだろうか。
だとしたら、だから今でもダメなんだよこの前までランドセル背負ってたくせに、と思ってしまうのだが、どうなんだろう。
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8月18日 考察などは

2022年08月18日 | Weblog
興味を持っている写真とか美術に対する「考察」には一歩引いた気持ちがある。
発せられるそれが鑑賞する人に向けてのものか、”同業”に対してのものか混在しているからだ。
鑑賞者に対してのそれは、作品を理解する手助けになる一方、”見方”を固定する恐れもある。
このように見るのが正しいとされるその先に思考の膨らみを持つことができるかが見る楽しさにつながる面もあるからだ。
他方、”同業”つまり同じ行為を行なう者向けに発せられるそれには、作品を作る「参考」としてのテキストという面があり、「自分なら・・・」という制作への手助けとされる。
案外これらが一緒くたにされて、発する方も受け取る方も何のためかを考えずに発するケースが見受けられる。
そこに撮り方への影響があらわれ、表面上をなぞった「作品」がコピーのように生まれてくる。
多くが表面を真似ただけの流行りものであるのだが、当人らには意識はない。
これが嫌なの。
意識した一線の元に行なわれないと”勘違い”の原因になると思うのだ。
で、それを差し置いても「そんな事どうでもいいじゃないか」と思って写真を撮っている。
だって撮影の瞬間には様々な事をいっぱい考えてるんだから、それで十分じゃないかと思うのだ。
そんな事よりも日頃大切なのは、もっと楽しんだり喜んだりする事だと思う。
その”感性”を持ち続けられる事が思考を柔軟にし豊かにするはずだから。

電車待ちのターミナルビルの書店で購入。
あなたのことが知りたくて 小説集 韓国・フェミニズム・日本 河出文庫
そして単行本をすでに購入し積読されていたことを帰宅後知る。 orz
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8月16日 足元

2022年08月16日 | Weblog
仕事先でもコロナ感染者が出始め、いよいよかと。
自覚症状があるにもかかわらず日当欲しさに出てくる馬鹿者がいるので、そんな奴は叩き出せと息巻く。

少し時間があったので、ふた昔以前に「ニュータウン」と称された山を切り開いて作られた集合住宅群を歩いてみた。
な〜んにもない。
生活臭さえも感じられない。
”ニュータウン”と称されるところの考え方として、駅周辺に生活必需品の店を集めて、住宅群には自動販売機さえも置かない”分離”がある。
確かに入居する人たちにとって、住まいの周辺にごちゃごちゃしたものを置かずにスッキリと暮らしたいという考え方があった。
それがオシャレに思えた時もあったのだ。
その結果が現在。
年老いて足腰が弱り、あるいは自動車を手放す年齢になって、子供たちはそれぞれ別の場所に住まいを構え、何をするにもいちいち駅まで出かけないと用がなさない、コンビニさえもない「静かな住宅街」が出来上がった。
駅に行くにも、元々が山だったので登り降りがキツく、距離も徒歩ではウンザリするほど。
そういう街を歩きながら、元々望んではいなかっただろうが、ここには文化も何も生まれなかったよなと、そんなことよりそもそも多くの日本人は文化なんて洒落たものなど望んでいなかったよな、テレビが、そして今だとネットが文化だと満足しているんだしなとツラツラ考えた。
写真を撮るつもりで来たのだが、そんな状況では撮るものもなく、久しぶりの歩行訓練だけとなった。

撮影用にシフトレンズを持ち出したのだが、一眼にこの手のレンズの組み合わせは、仕方ないとはいえ重量オーバーだよなと感じた。
マイクロフォーサーズにでも小型のシフトレンズがあれば理想的なのだが、超広角を1本とコンデジの組み合わせぐらいが現実的なのだなと感じた。
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8月13日 整理

2022年08月13日 | Weblog
台風通過につき自宅待機。
昨日帰宅後は断続的に寝続けて本日に至る。
日頃整理をしていない画像を整理。
これまでは画像ソフトに内蔵される”テイスト”で画像を調整していたが、ちょっと変えてみたくなったので自力で調整してみた。
思うようにはいかないがまずまずの出来。
保存名は「濁ったテイスト」。
昔のような濁りにはならないが仕方ない。

日々送られてくるメールの情報を仕分け。
ニュースメールは興味を持ったものを確認してPDFで保存。
特に”人物もの”の連載は興味を惹く。
新聞を事件ものや発表ものの媒体とは思わずに「文化系」情報ソースと見るとまだ使い道はあるのだが、”ニュース”は無料と思っている人には関係ない世界だろう。
以前なら雑誌が受け持っていた情報が無料化の波で淘汰され、最後の砦となっているのが新聞の文化欄だと思っている。
どんどんパソコンに溜まり続ける情報は、いつとは言えない将来に何かのきっかけで必要になるものだ。
今はその情報を求めて古い雑誌、書籍を買い集めて”分析”している最中なので尚のこと情報のストックが必要なのだ。

ムスメが孫を連れて泊まりに来たのでニャンコは居場所がなくてお疲れ気味。
帰ったところでやっとゆっくり眠れるようだ。
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8月12日 無関心

2022年08月12日 | Weblog
今「タイワニーズ 故郷喪失者の物語」 野嶋剛 小学館 という本を読み続けている(かなり時間がかかっているので)。
「在日台湾人のファミリーヒストリー」と紹介されるが、日本でお馴染みの”台湾出身者”の家族の歴史をさかのぼり、日本と台湾との関係を考える内容。
100年(以上)にわたって、というか開国以来日本がしでかした東アジアでのおこないが、現在においても尾を引きずっているんだけど、それはアジアの国の個人にも、その家族一族郎党にまで影響が及び、現在においても「やられた側の歴史」として受け継がれていると言える。
その事について「やった側」はほとんど無関心で記憶も受け継がれる事もない。
この無関心さが今でもわだかまりの原因の一つとなっているのだろうな。
なんて事を考えていてふと、「そういえばコロナは風邪だとかPCR不要などとsnsで言ってる人って、感染した人に対して思いやったりいたわりの言葉をかけたりしないよなぁ。」と思い立つ。
先日感染した姉一家も快方へ向かっているのだが、どうしても後遺症なのか呼吸器系の具合がよろしくないらしい。
もちろん軽症で済んではいるのだがこんなものだ。
sns上でもそういう発言は多い。
が、そこに優しい言葉をかけてねえよなぁ。
無視か独自のワクチン有害説とか自分の言いたい事だけ言いぱなし。
同じだよなあと本を読んでいて思った次第。
これじゃあ相手がはいそうですかと思うわけないよなと思うが、そもそもそんなに相手の事など考えていないよなぁと。
だから信用できないんだなぁと。
政治家でも他人に対して無関心で想像力が働かずに不用意な言葉を発する輩が増えたけど、これじゃあまとまるものもまとまりはしないよなと思う。
そういう国になってしまったというより、そういう国だったんだろうなスタート地点で。
まあここで古臭い言われ続けた言葉で言うと、他人の事(特に下の者に)など気にしない立場の人間の振る舞いが家父長制度の家長たるものの振る舞いそのもの(だってそうそう優れた家長がいるわけもないのだから)だよなぁと続けたいのだが、そうは今は言わない。でも関係しそうだよなぁ。誰か調べてくれないかなぁ。
どうであっても、他人の事など無関心で思いやる言葉も形の上でさえ持ち合わせていない人たちが、100年の歴史を作ってきた結果が現在の形であるのは間違いない。
そうやって人の恨みや悲しみは受け継がれていくのだから他人のシマを荒らしちゃいけないんだよな。
それが今のウクライナの人の記憶や気持ちであったりするんだよね。
そこんとこずいぶん多くの自称わけ知り言論人は無視して正悪の話をしているんだけど、やっぱり思いやりの言葉なんか聞こえてこないんだよなぁ。
やっぱ無関心なんだろうね自分以外には
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