先日、電車の中で、こんな広告を見つけました。
「新春に始める。来春に勝つ。」
ほー。。。
そして、
その左側には、
「国公立大71名、千葉大24名」と書いてあり、さらに、「京大2名、東北大4名…」と続いています。
凄いですよね。
ここでは、「勝つこと」=「国公立大学に合格すること」になっています。
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ここで、このポスターを作った予備校を責めようとは思っていません。
ただ、
「僕らの頃と、全然変わってないじゃん…」、と。
僕らの頃も、よく言われていました。
「夏を制するものは、受験も制す」、と。
なんていうのかな。
受験をどうも「戦(いくさ)」や「戦争」や「勝負事」に喩える言葉が多いのでは?、と。
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いや、受験なんて、たしかに「どんぐりの背比べ」ですよ。
極論で言えば、日本の受験システムなんてたかが知れてて、これにクリアしたところで、たいして頭が良くなるわけではない。そんなこと、今の時代、誰でも知ってるわけです。しかも、たかだか数点の違いで、受かったり、落ちたりするし、そもそも、そんなに賢い人間がこの国にそんなに多くいるとも思えない(他の国も同様)。
なんで、こんな受験システムができたかと言えば、みんなが「いい大学」に殺到するようになったから。(ホンネの)歴史的証言で言えば、戦前(大正後期~昭和初頭)の東大でも、「誰でも入れた」、と言います。なぜかと言えば、誰も「東大に我が子を入れよう」とは思っていなかったからです。ただ、「学問好きな学生」、「学問かぶれの学生」はたくさんいたそうです。
でも、今の大学に、どれだけ「学問好きな学生」がいることやら。誰かや何かに「かぶれている学生」がどれだけいることやら。
戦いに「勝った歩兵」は、勝利の後に、燃え尽きているのでは?
戦争から戻ってきた兵士が元の生活に戻るのには、ものすごい時間とエネルギーが必要と言われています。
同じようなことが、「受験戦争」にも言えるんじゃないかな。
小さい頃から、勉強漬けにされて育った子どもが、わざわざ大学で自ら勉強するか?、と。
いや、一部にはいます。「学問マニア」な若者は常に一定数いるわけで。僕の友人にも、とてつもなく学問オタクな人はいて、24時間年中、学問のことを考えています。そう、僕が年中「ラーメン」のことを考えているように。
でも、受験させる親は、そんなマニアになってもらおうとは思っていない。だから、話がややこしくなる。親も子も、「将来のため」という自身の不安の解消のため、つまりは「将来の保険」のために、「いい大学」に入ろうとしている。
仕方ない。この国には資源もないし、「頭」をフルに使って、「テクノロジー」で生きていくしか道がない。輸入は日々膨大に行われているけど、輸出はもう、悲しいくらいに乏しい。輸出できるとすれば、「テクノロジー」の分野しかない。だから、無理やりにでも、頭で稼げる人間を目指すしかない。(韓国のあの過酷な受験戦争も、理屈は同じかな、と)
そんなこんなで、ず~~~~っと続く「受験戦争」。
「新春に始める。来春に勝つ。」
2015年の今も、変わらず、受験=勝つというイメージが引き継がれているんですね。
その一方で、いわゆる「いい大学」以外の大学は、「資格習得」や「実習の意義」や「体験から学ぶ」みたいなフレーズを繰り返し、叫んでいます。「実習がある。だから勉強を頑張る」、みたいなフレーズもありました。
いい大学も、そうでない大学も、全部、「職業」と結びついています。
勉強=就職活動になっています。
ここでどう叫んでも、この構造は強固で、壊れることはなさそうですけど、ボヤいておきます。
就職なんて、人生にとって大した意味はない。仕事なんて、所詮は「食べるための手段」。勝つために、いやいや勉強するくらいなら、そんな勉強など辞めて、好きなことで勝負することにチャレンジした方がいい。で、「勉強がしたくなった時」に、戻ってくればいい。みんながそうすれば、アホな受験システムは機能しなくなる。
ずっとここでも書いているけど、18歳で大学に進学する必然性(エビデンス?)は何もない。22歳で卒業する必然性も全くない。ただ、そういう「神話」に踊らされているだけなんですね。
受験勉強も、好きな人にとっては、ただの「クイズ」。あるいは、「テンションの上がる問いかけ」。好きな人が自由に勉強して、それがきちんと評価されるような受験になれば、「勝つ」とか「負ける」とかではなくなる。
それに、いい大学を卒業した人は、俗に「エリート」と呼ばれるようになる。エリートというのは、自分の利益や欲望のためではなく、社会のため、公のために、知恵を出せる人のことを言う。自分のことをある程度犠牲にして、世の中のため、人のため、弱者のために、得てきた知恵や知識を活用できる人のことを言うんです。
そういう人は、「勝った」「負けた」で動じない人でもあります。つまり、受験で勝利をおさめることに関心をもたずに、知識や知恵や文化を謙虚に学んで、真理への道を学んで、それを世の中(全般)に還元したい、という人です。(当り前のことを書いています)
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僕たちは、勝ち負けにこだわる人を、優れた人とはいいません。
勝ち負けではなく、本当に賢い人を、優れた人と言います。
野球で言えば、イチローは賢い野球選手です。でも、それは単に成績がいいからではありません。彼の生き方や考え方や発言から、僕らは彼を称賛するんです。(イチローは、野球界全体を考えての発言がとても多いです)
全体を考えられる人こそ、本当に優れた人です。
大学という言葉の語源にある「ユニバース」とは、全体、全存在、全宇宙、全世界を意味する言葉です。そういうことに関心のある人こそ、「いい大学」で学んでほしいと思うのです。
日本に、実際のところ、どこまでそういう「いい大学」(=全体を問う大学)があるかは分かりませんが…。
少なくとも、世界の情勢、世界にある事物への関心、世界の中で生じる様々な現象(自然現象、人工現象)への疑問、倫理的問題、宗教的関心、歴史的関心、そういったものに興味をもっていれば、その子は、よく学んでいると言えます。実際に、高校生でも、そういう事柄に強い関心を示す子はいっぱいいます。
問題なのは、上のポスターに刺激されて、「勝たなきゃ!」と思って、世界や社会や文化や歴史に興味がないのに、嫌々勉強している子どもやその家庭や教師たちです。(あるいは「勝ち負け」の方が、「世界への関心」よりも勝っている人たちです。
いや。
それ以上に問題なのは、「負けた人たち」です。負けた人たちは、負けた故に、世界への関心も同時に失っているように思うのです。
「どうせ負けたんだから、あとは自分の身の保全と、自身の快楽のために生きていきます」(実話)。
親も言います。
「あんたは受験に負けたんだから(バカだから)、どこでもいいから、就職さえしてくれればいい」、と。
理解に苦しみますが、そういう話も聴いています。
けれど、その諸悪の根源は、勉強=受験=勝ち負け、という先入観があるからです。(しかも、18歳~22歳を大学適齢期と見なしているからです)。
それは大きな間違いです。学問の「ふるさと」である欧州の大学には、色んな年齢、立場の人がわさわさと集まっています。色んな国の留学生の年齢もまちまちです。「学びたい人たちが集まる場所」=「学び舎」になっています。
勝ち負けにこだわらずに、自由に、どこまでも深く何かについて知りたい、という衝動が生まれた時に、本当の学びが始まります。その時が、本当の「始まり」だと思うんです。
そういう時は、早かれ遅かれ、人間には必ずやってくると僕は思っています。
日本人はそもそも、そういう「学問的マニア的要素」の強い国民性を持っていると思います。「おたく文化」の深さには、もう脱帽するほどですから。鉄道マニアの人たちのあの執着を見ると、日本人もまだまだ捨てたもんじゃないと思います。
マニア・オタクの世界に、「反知主義」など微塵もございません(苦笑)
最後に。
どうぞ、大人のみなさま、勝ち負けで、子どもたちに圧力をかけないでください。学びというのは、勝ち負けではありません。「知りたい!」というパッションに支えられています。「知りたい!」が生まれた後であれば、勝ち負けもOKなんです。「こいつの方が、自分よりもよく知っている!くやしい!なら、もっと勉強してやる!」、これは健全です。
そういう「知りたい!パッション」は、長い幼少期の育ちに起因していますし、親の生き方も反映されています。
学校教育も(幼稚園教育も)、実はそういうところを作ろうとしているんですけどね。。。(maybe)
知的衝動を妨げることなかれ。。。